バプテスマについて 

バプテスマについて         (バプテスト教会の説明)
バプテスマ(浸礼) ギリシャ語で水の中に沈めるの意味
1・バプテスマの始まり

(1)バプテスマのヨハネ

バプテスマのヨハネはイエスの親戚でザカリヤとエリサベツの子でした。母エリサベツはなかなか子供が出来ない女性でしたが、聖霊の預言の通り、夫ザカリヤとの間に身ごもりヨハネが誕生したのです。ヨハネという名前も、人が勝手に名付けたのではなく、神が直接「ヨハネと名付けなさい」と言われた故、その名前が付きました。このことはルカによる福音書の1章に詳しく書いてあります。
ヨハネは神から「水でバプテスマを授けるように」(ヨハネ1:33)と使わされ、また神から委ねられた権威によって始めました。それがバプテスマの始まりです。ですから、ヨハネの前にバプテスマというものは存在していませんでした。ヨハネが自分勝手にバプテスマを始めたのではなく、神の正しい権威によって始めたということはイエス・キリストがヨハネの元にバプテスマを受けに行ったことからも明らかです。イエス・キリストは「全て正しいことを成就するのは、われわれにとってふさわしいことである」と言っています。もし、イエス・キリストがヨハネのバプテスマを認めなければ、このような言葉を語られるはずはありません。ヨハネのバプテスマは神の子イエス・キリストによってその有効性と正当性が正式に認められたものなのです。

(2)バプテスマという言葉の意味

まず初めに、バプテスマに対する誤解を解いておきます。バプテスマは「洗礼」という意味を持ちません。洗礼という名称は、後世になって、バプテスマの意味が歪められて付けられたものです。
では、バプテスマという言葉の意味は何なのでしょうか。まず語源を確認しましょう。バプテスマはギリシャ語です。そして「沈める、浸す」を意味します。つまり、ある対象を水の中に沈める行為をバプテスマといわけです。バプテスマはそれ以外を意味しません。ですから、聖書にバプテスマとあったら、それは「沈める、浸す」という行為を表します。「沈める、浸す」という行為は、どこまで行っても「沈める、浸す」であり、それ以外は意味しないからです。これは日本語で「沈める、浸す」という言葉が「水を垂らす、振りかける」ということを意味しないのと全く同じです。バプテスマと聴いたら「洗礼」ではなく、単純に「沈め、浸す」ということをイメージしてください。

2・バプテスマの4条件

(1)バプテスマを施す対象

バプテスマを施す対象を見ていきましょう。まずヨハネから考えて見ましょう。ヨハネは、「自分の罪を悔い改めた者」にバプテスマを授けていました。これがバプテスマを施す対象の大原則です。
では、その後はどうなっていたかといいますと、これも「悔い改めた者」に授けることが原則となります。使徒行伝でペテロがバプテスマを施したのも、悔い改めた人たちへですから。よって「悔い改めた者」、すなわち罪を悔い改めて、キリストを信じた者へのバプテスマという大原則はバプテスマのヨハネ~使徒行伝~現代まで何ら変わることはありません。

 代表的な聖句 
・〔これに対して、ピリポは、「あなたがまごころから信じるなら、受けてさしつかえはありません」と言った 。すると、彼は「わたしは、イエス・キリストを神の子と信じます」と答えた。〕(使徒8:37)
「会堂司クリスポは、その家族一同と共に主を信じた。また多くのコリント人も、パウロの話を聞いて信 じ、ぞくぞくとバプテスマを受けた。」(使徒18:8)  他 使徒2:41 

(2)バプテスマの方法

バプテスマ「沈める、浸す」の意味の通り、人を水の中に沈ませます。

(3)バプテスマの目的

①イエス・キリストの命令に対する従順を表すため。
キリストもバプテスマを受けましたし、また受けるように命令されているからです。

 代表的な聖句
「この水はバブテスマを象徴するものであって、今やあなたがたをも救うのである。それは、イエス・キリストの復活によるのであって、からだの汚れを除くことではなく、明らかな良心を神に願い求めることである。」(Ⅰペテロ3:21)

②罪の中に生きてきた自分を葬り去り、新しい命に生きるため。
バプテスマはキリストの死と埋葬と復活を象徴しています。つまり水の中に沈めるということは死と埋葬を意味し、水から引き上げることは復活を象徴します。よって、自分を水の中に沈めることは、古い自分を葬りさることを意味し、水から引き上げることはキリストと共に新しい命に生きることを表すのです。死・埋葬・復活を象徴的に表すため水の中に沈めるという行為が必要になるのです。

 代表的な聖句
・「すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。」(ローマ6:4) (他にはローマ6:3、コロサイ2:12)

※ちなみに、旧約聖書でバプテスマを象徴しているものがあります。それはノアの箱舟時の水と、神が海を割り、モーセに率いられたイスラエルが紅海の海底を歩くという行為です。ペテロとパウロがこう説明しています。
「兄弟たちよ。このことを知らずにいてもらいたくない。わたしたちの先祖はみな雲の下におり、みな海を通り、みな雲の中、海の中で、モーセにつくバプテスマを受けた。」(Ⅰコリント10:1-2)
・「この水はバブテスマを象徴するものであって、今やあなたがたをも救うのである。それは、イエス・キリストの復活によるのであって、からだの汚れを除くことではなく、明らかな良心を神に願い求めることである。」(Ⅰペテロ3:21)

③教会に加わり、福音宣教の使命を担うため。

代表的な聖句
・「 それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らに バプテスマを施し、」(マタイ28:19)

・「なぜなら、わたしたちは皆、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によって、一つのからだとなるようにバプテスマを受け、そして皆一つの御霊を飲んだからである。」(Ⅰコリント12:13)

(4)バプテスマを行う権威

バプテスマはイエス・キリストが建てられた新約の教会の流れを継承し、かつイエス・キリストの命令に忠実に従っている教会のみが執り行うことができます。バプテスマを行う権威は牧師や宣教師にあるわけではありません。牧師は、教会の委任を受けた代表者として救われた者にバプテスマを施します。ありもしない権威を用いて、個人で勝手に施したバプテスマは無効です。(使徒行伝19章にあるアポロのバプテスマの是非について読まれるとおわかり頂けると思います。ヨハネは自分の名〔権威〕によってバプテスマを授けたのではありませんし、アポロは教会によって承認された宣教師ではありませんでした。)

代表的な聖句
・「イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである。」 (マタイ28:18-20)

★以上の4つの条件を全て満たしていなければ、たとえ浸礼を行ったとしてもその浸礼は無効です。

3・バプテスマに関する誤解

誤解1「バプテスマは旧約聖書の割礼を意味します。」

この誤解は、簡単に解くことができます。まず、旧約聖書でバプテスマを象徴するものはノアの箱舟時の水と、モーセとイスラエルが紅海の海底を歩いたことであるということがペテロとパウロの言葉で書かれています。再度、引用します。
「兄弟たちよ。このことを知らずにいてもらいたくない。わたしたちの先祖はみな雲の下におり、みな海を通り、みな雲の中、海の中で、モーセにつくバプテスマを受けた。」(Ⅰコリント10:1-2)
・「これらの霊というのは、むかしノアの箱舟が造られていた間、神が寛容をもって待っておられたのに従わなかった者どものことである。その箱舟に乗り込み、水を経て救われたのは、わずかに八名だけであった。この水はバブテスマを象徴するものであって、今やあなたがたをも救うのである。それは、イエス・キリストの復活によるのであって、からだの汚れを除くことではなく、明らかな良心を神に願い求めることである。」(Ⅰペテロ3:20-21)

 では割礼は何かというと、それは「心の割礼」、すなわち「義認と新生」を意味しています。
・「かえって、隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、また、文字によらず霊による心の割礼こそ割礼であって、そのほまれは人からではなく、神から来るのである。」(ローマ2:29)

※沐浴がバプテスマを象徴すると考える人もいますが、聖書著者で誰1人そういったことに言及している者はいないので、採用されるだけの説得力は持ち得ません。

誤解2「バプテスマは救いのために必要です。」

この誤解も簡単です。ルカ23:42ー43のイエス様と強盗の会話をみれば一目瞭然です。「そして言った、「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」。イエスは言われた、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。
もし、救いにバプテスマが必要不可欠なのであれば、イエス様はこのように言われなかったでしょう。あるいは、この強盗だけバプテスマを受けないで救われた例外中の例外と考えた方が正しいのでしょうか。いえ、この強盗を例外と考えるのは間違えています。救いの原理は、旧約時代も新約時代も現代も変わりません。むろん、旧約時代は悔い改めて罪を贖うメシア到来を信じて救われ、新約時代と現代は悔い改めてメシアが来たことを信じて救われるという若干の違いはあるものの、罪の悔い改めとキリスト(メシア)への信仰という救いに必要な原則は何ら変わることはありません。日本語訳にはさもバプテスマが救いに必要不可欠であるように感じさせるニュアンスの聖句がたくさんありますが、このイエス様と強盗の会話によってバプテスマが救いに必要ないことを理解することができます。

他、詳しい神学的議論については、当教会牧師が書いた「バプテスマ」という本を参照にしていただければと思います。

イエス・キリストもヨルダン川でバプテスマのヨハネから「バプテスマ」を受けた。
全身が水の中に沈められた。
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