削除された 姜 賢実 (カン・ヒョンシル)先生の回顧録

シャボン玉のブログより引用

▼ 回顧録 第1部 日→韓訳文 シャボン玉公開用

韓国語原文が以下にあります。

https://goo.gl/yzXyb1  

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姜 賢実 (カン・ヒョンシル)先生の自叙伝

削除された 姜 賢実 (カン・ヒョンシル)先生の回顧録

私の証拠的生涯 (=主を証しする私の生涯)
韓半島に降臨された再臨主
姜賢實(カン・ヒョンシル)

第一章  成長と入教

その1 主イエスがおられる所、そこはどこでも天の国

誠実な信仰の中で成長

高い山が、果てしない野原が、草木や宮闕(きゅうけつ)や
私の主イエスがおられる所なら、そこはどこでも天の国
ハレルヤ賛美しよう 私のすべての罪の赦しを受け
主イエスと同行するので、そこはどこでも天の国

私は1927年10月1日(天暦8月20日)慶尚北道(キョンサンブクド)榮州市(ヨンジュシ)榮州洞(ヨンジュドン)82番地で生まれました。故郷の榮州を思えば、青い山がまず初めに思い浮かびます。小白山(ソベクサン)のふもとに位置し、清い水と青い山があり、美しい自然が保たれた地方です。

また、榮州は学者の地でもあります。韓国最初の 賜額(しがく)書院である紹修(ソス)書院があり、忠孝を誇る学者たちが多く住んでいました。紹修(ソス)書院は、周世鵬(ジュセボン)が天賦の幸福を祭るために建てられた白雲洞(ペクウンドン)書院であったものを、後に李滉(イファン)が郡守として赴任しながら紹修書院として昇格された後、多くの学者や忠臣が輩出された所として有名です。だからなのか今も榮州には善良で剛直(ごうちょく)な人たちが多いようです。

故郷の榮州は昔から基督教の教勢が相当に強い地域です。幼いころ、教会で礼拝が持たれる時には、座る所がないほど人がいっぱいに満ちていた記憶が残っています。おそらく剛直な性格を持った人達が多いので、基督教信仰も熱い信仰をする人達が多かったのではないかと思います。慶尚北道(キョンサンプクド)には榮州と共に、大邱(テグ)と安東(アンドン)が熱心な信仰者が多かった地域です。

特に私が生まれて育った村は晉州姜氏(チンジュカンシ)の姓が多い村でしたが、ほとんどの人が教会に通い、村全体がクリスチャンと言っても過言でなかったのです。晋州姜氏(チンジュカンシ)の信仰はうわさになり、「榮州にある教会の重鎮たちはほとんどが晋州姜氏(チンジュカンシ)」という言葉があるほどでした。

※賜額(사액・しがく)書院:王が名前をつけて額を賜わり書籍·召使い·土地などを下賜した書院

私は父親である姜錫祉(カンソクチ)長老(チャンノ・ちょうろう)と母親の權桂月(クォンゲウォル)勧士(クォンサ)の七人兄弟の中の長女として生まれました。私の家庭は祖父が長老教会に入教した後から篤実(とくじつ)な基督教の信仰を守って来ていました。父母は一日も欠かさず早朝祈祷に通い、夕方になれば父を中心として家庭礼拝を捧げました。おかげで私は母胎にいたときから信仰生活を始め、いつも神様の御言葉の中で成長しました。家庭のすべての生活が神様を中心としてイエス様を正しく信じて従うために努力したのでした。

父は榮州(ヨンジュ)教会で40代で長老として任命を受けました。長老と任命されるには若い年でしたが、信仰が篤実で責任感が強くいろいろな人が推薦をして若くして長老になりました。

父親 姜錫祉(カンソクチ)長老              母親 權桂月(クォンゲウォル)勧士(クォンサ)

私の家は事業をしていたので生活水準は中流程度で窮乏(きゅうぼう)を感じるほどではありませんでした。母は教会の勧士(クォンサ)で静かな人でした。七人の兄弟姉妹を育てながら大声一つ出したこともなく、子供を世話しながら暮らしました。母は自分を前に出したことがなく、周囲の人たちから謙遜な人だとよく言われていました。

家庭で礼拝をするときになれば、父はいつも信実(しんじつ)な生き方を強調しました。祈祷するときや話しをするときには、「人は真実であるべき。真実に生きなければ神様が離れる」としきりに強調してくれました。父が、「真実はいつも真実そのまま現れるのである。神様は生きておられ私たちと共におられるから私たちはいつも真実に生きなければならない」と言われたことが今も思い出されます。

また、父が家庭礼拝を捧げるときだけでなく、いつも歌っていた賛美歌があります。「高い山が、果てしない野原が、草木や宮闕(きゅうけつ)や私の主イエスがおられる所なら、そこはどこでも天の国。ハレルヤ賛美しよう。私のすべての罪の赦しを受け、主イエスと同行するのでそこはどこでも天の国」と小声で歌った父の声は私の心に今も残っています。この賛美歌には、「神様と共にある者はいつも真実であるべき」と言われていた父の言葉と生き方が込められているように感じます。父はいつも私的な場にも礼拝時間にもそのように話し、そのように生きようと努力しただけでなくそのごとくに生きました。

それなので、教会の中でも多くの人達から、姜錫祉(カンソクチ)長老は真実であり御旨のままに生きる人として尊敬を受けました。自然に私も父を尊敬し父の信仰に従って育ちました。

父母のおかげで私は正しい信仰の道を行こうと努力することができました。父が信仰の根本を私の心に植えてくれたとするなら、母は私に信仰の習慣を育ててくれました。幼い頃から私は父といっしょに早朝祈祷に通いました。夜明けに母と教会で祈祷をして一日を始めることが習慣になりました。早朝祈祷を終えて家に帰って来る道で私は、母のように着実に無言で神様を信じ侍り生きなければならないと心に誓いました。

しかし、日帝時代に信実な信仰をすることは易しいことではなかったのです。日本が韓国に神社をいたるところに建て、強制的に参拝をさせたからです。特に1930年代後半からは基督教団にも圧力をかけ、一般信徒たちにも神社に参拝することを強要しました。真実な信仰をしていた私たちの家庭に大きな試練が始まるようになりました。

そうする中、ある日、父の友達である一人の牧師が榮州(ヨンジュ)を訪ねて来ました。その日、父はその牧師と長い時間話しをしました。どんな話をしたのかは知ることはできませんでしたが、天皇を神として侍り参拝することはありえないということで意見を合わせたようです。

結局、父は神社参拝を拒否し警察に引っ張られ収監されてしまいました。その以後、私の家は風飛雹散(ふうひひょうさん=四方に飛び散ること)になりました。警察が家宅捜索をし、父が平素読んでいた宗教に関する本をいくつかに分けて持って行きました。その後、三日も経たずして家に来て母を怒鳴りつけ家の中をひっくり返しもしたりして、私が学校に行けない日もありました。警察は私たち家族を人として扱わず、大きな罪を犯した罪人として扱い監視をしたので、自由に気を落ち着けて暮らすことができませんでした。さらには神社参拝をしない家の娘だと周囲から憎まれました。

それでも私は毎日夜明けに教会に出て父のために懇切に祈祷を捧げました。「神様を信じない人たちの心の中に現れてその間違いを叱ってやって下さい。神様が分かるようにして下さり、彼らが留置場に閉じ込められている人たちを苦しめないようにして下さい」と熱心に祈祷を捧げました。

収監されたときには健康であった父は、獄中であまりにも多くの拷問を受けて病気になり回復が難しくなりました。日本の警察は父が獄中で死ぬかもしれないと心配になり、やっと出獄させてくれました。しかし、すでに重い病気になった父は、終戦(1945年8月)を迎えることができないまま1944年1月3日に亡くなりました。

それで榮州教会では父について、「姜錫祉(カンソクチ)長老は日帝時代に殉教したようなもの」と評していました。拷問で直接殉教したのではありませんが、神社参拝を拒否し収監されてから病気にさせられて亡くなったのですから、姜氏一族から殉教者が一人出たという話になりました。

母は生きている間は変わりなく長老教会で篤実(とくじつ)な信仰生活をしました。いつも「亡くなった父と霊界に行って会ったとき、恥ずかしくないように、申し訳もしないようにしないといけない」という言葉をよく言っていました。1996年に父と母は霊肉祝福を受けました。

神学の道を歩む

終戦以後、私は釜山(プサン)に行って高麗高等聖経学校を経て高麗神学校に入学しました。高麗神学校は父の友達である韓(ハン)サンドン牧師が設立した学校です。韓牧師は日帝時代に神社参拝を拒否し獄中生活をした牧師たちと共に信仰の正道を行くため多くの努力をしました。長老教会の牧師は、父と親しい友達である韓牧師が釜山に神学校を建てたのだから私に入学するのがいいと推薦してくれました。そのとき私は信仰面でも学業面でも模範生だったので、積極的に神学校入学を勧められました。

当時私の心の中には、父が出獄した後、終戦を迎えられないまま父が亡くなったことが一つの宿題として残っていました。父が行った道を受け継ぎ、父が果たせなかった仕事を私が継承しなければという考えになりました。私の氏族に対する神様の御旨、父が亡くなって成せなかったことを私が成して差し上げなければという思いが心から離れなかったのです。

父が成すことができなかった神様の御旨を成すためには、内外的な準備が必要でした。高麗神学校は神社参拝を拒否した教会関係者たちが中心になり建てた学校だったので、父が抱(いだ)いていた御旨を内外ともに準備するためにもっとも適した学校でした。

それで、1950年、高麗神学校に入学しました。神学校に通う間、韓牧師が私を大変可愛がって下さいました。その愛と期待に答えるため、私も最善を尽くして勉強しました。そして信仰生活にも精誠を尽くしました。高麗神学校は保守的な学校で、一日60ページ以上義務的に聖書を読まなければならず、3時間以上祈祷をしなければなりません。神学校に通う間、いつでもどこでも神様に祈祷を熱心にしました。母はそのように祈祷する私を見ながら、「いつもそんなに伏して長い間祈祷をしたら、背中が曲る病気になるのじゃないか心配」と言うほどでした。

高麗神学校は大変厳格に安息日である日曜日を守りました。例えをあげれば、日曜日にはどんな物も買ってはいけません。電車やバスの切符も買ってはいけません。仕事をしてもだめで、外れたボタンを縫うのもだめで、10里以上遠い道を歩いてもだめです。学校からはそのようにあれもだめ、これもだめだという教育を受けたので、どんな事も良心の呵責になり何もすることができなくなりました。

当時、私は聖書を生命視しその御言葉に従って正しく生きようと歯を食いしばって生活をしていました。そうしながら心の中では、「再び来ると約束された主はいつ来られるのだろうか?」という思いが火のように起こりました。

私はイエス様を本当に愛していたので、イエス様も私を必然的に愛して下さると信じました。その信仰は本当に絶対的でした。イエス様が来られる時が近づいたと考えたので、より心が懇切になりました。西暦2000年になる前に来られると聞いていたので、今、来られる時になったという思いになりました。月の明るい夜には縁側に座って月を見つめながら、「主よ、私は本当にあなたを愛します。私が愛するのと同じようにイエス様も私を愛されるでしょう?来られたら誰よりも一番最初に私に会って下さらないといけません。私に一番最初に会って下さると信じています」と祈祷しました。

そして神学校の授業が終われば路傍伝道をしました。普通の信者のようにある形式とかやり方に縛られて伝道するのではなく、私の血と肉と骨の中から湧き出る心情で叫びました。イエス様の事情と心情を体恤(たいじゅつ)した私は、「私が二千年前に生きておられたイエス様に慰労と所望(しょもう)の対象になるはずだから…」と、胸の中から痛哭(つうこく)の思いが湧き上がりました。「イエス様、私は不足ですが、私にはイエス様の切ない血が流れています。この地上に人類を救おうとする御旨が生きています」と叫びました。

当時は、主に会うためにいつも内的にも外的にも準備をしなければならないという考えが切実でした。イエス様が新郎として来られると言われたので、新婦の装いをしなければならない、内的にも外的にもイエス様を迎える準備をしながら暮らさなければならないという思いが心いっぱいに満ちていました。

第一章  成長と入教

その2 主が私の園に来られた

神学校に通いながらある伝道師と共に凡川(ボムチョン)教会を開拓しました。凡川(ボムチョン)教会は初めに天幕を張った天幕教会として始まりました。金ガプソク伝道師と二人で開拓したのですが、金ボンジョ長老が財政的に支援をたくさんして下さり100名余りの信徒が集まり礼拝を捧げました。

私は熱心に精誠を尽くして伝道をし、信者たちの信仰成長のために徹夜祈祷をたくさんしました。毎日三軒以上信者の家を訪問し、新しく三軒以上訪ねながら伝道をしました。私は神様がこの地域を私に任せて下さったので、ここに住んでいるこの人たちを私がかけた網にみんな引っかかるようにするべきですと真心こめて祈祷しました。神様が私の懇切な祈祷を必ず聞いて下さることと信じました。

また、毎日100名余りを超える信者たちの名前を一人一人呼んでいきながら彼らの事情を神様に報告しました。信者たちの心霊のため余りにも懇切に祈祷してみると、疲れて虚脱するときもありました。また、彼らに神霊の糧(かて)をあげようとすれば、まず私自身の心霊が生きて動いていなければならないのですが、あるときは冷たく感じるときもありました。神様が全的に私に来られて役事されることを感じられないときもありましたが、私の人生をイエス様の人類救援事業のために捧げようと大きな希望と抱負を持って生きました。

凡川(ボムチョン)教会の信者たちは私と一つになってよく従ってきてくれました。食事を作ってくれたり、水をくんできてくれたり、また、おいしい物を買ってくれるなど、たくさんの信者たちが協助してくれたので、活気を帯びて復興するようになりました。そのとき、凡川(ボムチョン)教会に出ていた青年一人を青年会会長に立てたのですが、ずっと後になってみたら監理教の大きな教会の監理士になっていました。

学校の休みの期間になれば、榮州(ヨンジュ)と豊基(プンギ)だけでなく、近くの地域の教会から私を招請して復興会をしたりもしました。そのとき、彼らの心霊が大きく復活しました。神様とイエス様が本当に役事して下さることを実感しました。歴代記16章9節の「神様の目は火花のようで、あまねく全地を見渡し、 その心が御自分に向かう者たちのために能力を与えてくださる」という御言葉の通り、全心を神様に向かわせられるかどうかが問題解決の鍵であると信じました。

変わった話をするというボムネッコルの青年

1952年5月初め、春の気配が寝ていた大地を起こし新緑の装いに衣替えをしていました。その日も私は伝道のため出ていく準備をしていました。そのときちょうど、李ヨンギュという一人の女子大生が訪ねて来ました。その学生は話したいことがあると言い、「ボンネッコルの谷に住むある青年が変わった話をしていました」と言いました。その学生が住んでいる家の近くにある青年が自分で家を建てて住んでいて、一度話をしてみたようです。「どんな変わった話をしたの?」と聞いたら、「人類が堕落する以前の世界を取り戻す方法というものを紹介するのですが、たいしたものです」と言いました。

その学生の言葉を聞いて心配する思いが先立ちました。「救いの方法?その人がどんな人でそういう話をするの?」と気がかりになり細かく聞くと、「私は何の話か聞いてもよくわかりませんが、大変熱心に自信を持って話をしました」と答えました。それで私は、「聖書を読むことにおいても私がその人よりたくさん読んだだろうし、聖書の知識も私がよりたくさん知っているでしょう。ですから私がいったん行って聞いてみた後に行くべきで、その前には行かないで」と頼みました。さらに、「マタイ福音書24章22節の御言葉を読めば、世の末には偽キリストがたくさん現れるが、ここにいるあそこにいると言っても、行ってもならず、追ってもならないとあるので、絶対行ってはいけません」と言いながら引き留めたのです。

そういう話はしましたが、いざ私がその青年を訪ねようとすると複雑な思いになりました。会いに行くべきか行かないべきか?私は神学校の学生であり、教会の伝道師として信者たちに影響を及ぼすことができるので、軽い振る舞いをすることはできないと思いました。結局、「この問題を解決するには、神様に報告して答を得なければ」という結論を得ました。それで、その問題について祈祷を始めました。「神様、ある青年がおかしな話をすると言うのですが、私がそこに行くことが御心ですか?行かないことが御心ですか?行くことが御心ならば、私がどんな方法でも行けるようにして下さい。行くことが御心でないならどんな方法でも行けないようにして下さい」という祈祷を一週間の間しました。

初めての出会い

その日は1952年5月10日土曜日でした。朝から雨が降っていて、私は教会で静かに祈祷を捧げていましたが、ボンネッコルに住むという変わった青年に会わなければという決心が立ちました。「会ってみて賢くて神様が用いることのできる者なら、伝道して神様の業(わざ)をなす働き人に作らなければならない。」という考えをもって、教会を出ました。

午後四時ごろ、道に出てみると雨はほとんどやみかけていました。しかし、青年の名前も知らず、顔も家も知りません。ただ女学生が住んでいる家の近くで、男たちだけで自炊して暮らしているらしいという話だけは覚えていたので、外に出ました。ボンネッコルの坂道を上って行きながら、男たちが自炊している家はどこですかと道行く人たちに聞いてみました。しかし知っている人はいませんでした。聞いてもその当時に自炊して暮らしていた男性が一人二人でしょうか。それでも、「神様、教えて下さい。会うべき人なら神様がその青年のいるところに導いて下さい。」という信仰を持ってずっと尋ねて回りました。

しばらく迷ったあげく、ある婦人が、「あのてっぺんに登れば井戸が一つありますが、その井戸の横に粗末な家が一つあります。その家に青年たちが住んでいるようです」と教えてくれましてた。坂道をずっと登っていくと、なるほど井戸が一つ現れました。鍋で汲み上げる泉のような井戸でした。井戸で手を洗っていたらきれいな一人のおばさんが水を汲むために井戸に出て来ました。歳は五十数歳ぐらいに見えますが、肌がきれいでしとやかな方でした。避難時代でしたからカーキ色のチマをはいていましたが、とても気品があるように見えました。

それでそのおばさんに、「この近くに青年たちが自炊している家があるということですが、もしかしてどこか知っていますか?」と言葉をかけました。そうしたらそのおばさんが、「あなたはどこの会社に通っていますか?」と聞きました。おそらく私の服の身なりを見て、ある会社に通う会社員と思ったようです。私はひざ下のスカートをはいて、男物のような靴を履き、聖書と賛美歌を脇に挟んでいました。

私は笑いながら、「違います。私はイエスを信じる者です」と答えました。そのころ私はイエス様を愛し、心からイエス様を伝えたくて誰に会っても、「私はイエスを信じる者」と言っていました。それほどイエス様を愛していたからです。

そうすると、そのおばさんは私の顔を再びまじまじと見て、「ああ、それなら私の家に入りましょう。」と言いました。「家はどこですか?」と聞くと、「これがその家です。」と言いながら、すぐ横の家に案内してくれました。その方がすなわち、玉世賢(オク・セヒョン)オモニでした。

左が玉世賢先生、右が姜賢實先生( 北鶴洞にあった最初の本部教会 )

その家は井戸のすぐ横にありました。土と石でこねて積み上げた家でしたが、粗野に見えました。人の手で土と石を混ぜて作った家なので、壁がなめらかでなく、でこぼこでひどく見えました。屋根は戦争中で米軍部隊で使う食料箱を広げて覆(おお)っておいたものでした。食料箱は雨が降っても漏れないので、屋根を覆っておくにはよかったようです。避難民たちがそんな家を建てていたのを見ることはあったのですが、そのように小さくみすぼらしい家は初めて見ました。田舎で塀(へい)を作るとき、土と石をおおざっぱに積みあげるのですが、ちょうどそれと似ていました。

中に入って見ると、たたみ二畳もないほどの狭い部屋でした。 入り口は、背の高い人だとかがんで入らなければならないほど低いものでした。壁には紙や新聞紙も貼ってなく、土塀そのままでした。天井は雨が漏ったのか、ところどころ染みがついていて、床は黒いビニールの切れ端が敷いてありました。それはちょうど、どこかの村の馬屋のようでした。その日はまた、雨が降った後だったので、部屋の中のようすがよりうっとうしいものみたく目に入ってきました。

部屋に入ってまず祈祷をして目を開けたとたん、「ああ、一体こんな家でも人が住めるんだなあ。」という思いが自然に湧いてきました。部屋の中には生活道具が一つもなく、服が一着掛かっていました。洋服でしたが、その家や部屋には似合わないほど良い服に見えました。後で知りましたが、その洋服は嚴德紋(オムドンムン)先生がお父さまに贈り物として捧げたものでした。

そして部屋の片隅には丸い食卓が一つありましたが、その上には鉛筆立てに短くなった鉛筆がたくさんさしてありました。生活道具もない部屋に鉛筆がたくさんさしてあるのを見て、私は心の中でおかしいなと思いました。「この家には小学生が多いのだろうか?なぜ鉛筆がこんなにたくさんさしてあるのか?」と思いました。金元弼(キムウォンピル)先生が絵を描くとき、線を引くために鉛筆がたくさん削ってあったものだと後から聞きました。

私はそのときまで、こんなにもみすぼらしい家と部屋を想像してみたこともありませんでした。ふと、「人がこの地上に生まれて、このような家で一生を生きたらどんなに多くの恨みが残るだろうか?」という思いになりました。

今も私は、その瞬間が思い出されるときがあります。再臨主として来られたお父様が、たたみ二畳にもならない狭い家で人類救援の役事を始められたということを考えると、お父様がどれほどひどい生活をされていたのか申し訳ない思いになります。昔、日本でだれかが証しをしながら、「この世に人が地上に生まれて、このような家で一生を生きて死ぬならどれほど多くの恨みが残るか?」と言った私の言葉が何度も胸に鳴り響くという話をしたと聞きました。

そのように苦しい状況で出発されたお父様がメシアであり、救世主であり、勝利された天地人真の父母様であり、万王の王として定着されるまでどれほど言い表すことのできない難しい路程を歩んで来られたかを考えれば、熱い涙が出てきもします。その家は台所もなく家の外でご飯を炊かなければなりませんでした。その上、雨が降れば部屋の中でご飯を作らなければなりません。それではどうしようもないので、後になり外にテントを張って炊事をするようにはなりました。

そんな家でしたが、お父様はその家を自分の手で建てられてどれほど幸福であったか忘れられないと言われました。お父様が釜山に避難をして家なく暮らしながら、多くの苦労をしたと言われました。日が暮れても帰って休むところがなく、どれほどつらい思いをされたでしょうか?それでボンネッコルに家を一つ建てることにされました。しかし、少し積み上げたら雨が降って崩れ、また少し積み上げて置くと雨が降ってまた崩れるということを三度もしたというのです。

真のお父様はその一つの部屋を作りながら多くの考えをされました。間違った歴史を正しく立てる復帰歴史に、神様がどれほど大きな期待をもっておられるかをご存知なので、エデンの園で失われた真の血統を新しく取り戻そうとされる神様の心情を感じ、興奮した心を持たれ、新しい歴史を取り戻す所望(しょもう)でいっぱいに満ちておられたのです。

やっと家が完成した日、壁も乾いていなかったのですが、入って横になったらこの上なく幸福だったと言われました。大理石で美しく建てた家ではなく、二坪にもならない土塀の家ですが、古代官室の王宮よりも価値有る美しい部屋一つの、足を伸ばして横になれる家があるということがどれほど良かったか忘れられないと言われた話を聞いたことがあります。

私はそのとき、その部屋の中に入って、「こういう家で一生を暮らしたらどれほど恨みがたくさん残るか?」と思っている矢先に、ある青年が入って来ました。カーキ色の韓国服のバジをはき、上には古い褐色のジャンパーを着ていて上下が合っていませんでした。靴下は分厚い米軍用のものを履いていて、バジのすそのひもを結ばないで、すそをまくりあげた姿でした。その青年がすなわちお父様でした。

お父様は部屋に入って来て私を見られると、「どこから来たのか?」と尋ねられました。それで私は、「下のほうに凡川(ボムチョン)教会があるでしょう?私はそこで女性伝道師として仕事をしています。」と答えました。

そうするとお父様は、「ああ、この部屋は冷たいですね。」と言われ、星の模様が描かれた緑色の布団を広げられて、「この上に座りなさい。部屋が冷たいから」と勧められました。私は、「ここで大丈夫です。」と遠慮しました。しかしお父様は部屋が冷たいからと、しきりに布団の上に上がって座るように勧められました。何度も勧められるので、仕方なくその上に座ると、お父様は、「今日は5月10日ですが、本当に意義深い良い日に来られました。」と言われました。私は心の中で、「今日は何の日であんなに今日は良い日だと言うのか?」とじっと考えてみましたが、何も思い当たるものはありませんでした。

そのとき、お父様は、「私が以北(北朝鮮)から以南(韓国)に避難して来ましたが、この家で貴重な本を書き始めました。しかし、今日はその本書きを終えた日です。」と語られました。そうして、「今日本書きを終えて、今から私が伝道しなければならないと心に決めて、山に登って祈祷をして下りてきたところです。」と言われたのでした。

後で聞いたことですが、お父様はその日、山に登って、「神様、私と約束されたことは、多くの人たちがこの貴い原理のみ言葉の下(もと)に集まるということでした。原理を中心とした一つの世界、善の世界、愛の世界、父の世界をこの地の上に成されると約束されました。しかし、以北から南に下って来て、まだ一人の生命も探し求めることができません。神様、私は人が恋しいのです。恋しい人の中でも、イエス様をよく信じる聖徒、正しく信じる聖徒が恋しいのです。神様、イエス様をよく信じる聖徒を送って下さい。」と祈祷をして下りて来たと言われました。しかし、招待もしていない既成教会の女性伝道師が部屋に入って待っていたので、どれほど喜ばれたでしょうか?お父様の龍顔(王の顔)には喜びの色がいっぱい満ちていました。

お父様は、座っている私に、「七年前から神様は姜(カン)伝道師を大変愛されました。」とただ一言言われました。私は大変驚いて顔を上げて青年を再び見つめました。「えっ?この青年は七年前私に会ったこともないのに、一体どこで私を見たと、七年前に神様が私を大変愛したなどという話をするのか?」という思いがわいたからです。

そうして、「七年前にどんな事があったかな?」とじっと考えてみました。振り返ってみると、七年前に韓国が解放(=終戦)を迎えながら、私はすべての人生を神様の御旨と福音事業のために捧げなければならないという決意をして本格的に出発したのでした。「神様の御旨のために一生を生きようと決心した七年前から神様が私を大変愛された。この青年は本当に、何かがわかる人だな」という思いになりました。

お父様はそれから楽な姿勢で座られ、話を始められました。しかし、原理講義を序論、創造原理、堕落論、終末論、復活論、予定論、基督論、復帰原理、再臨論という順序ではなく、結論である再臨論から話されました。まずお父様は紙を小さくいろいろな形に破り、はじめに小さい紙の切れ端に再臨論と書かれ、他の紙切れに各々イエス、アダム、エバと書かれました。そうしてみ言葉を語られながら、イエス様の話をするときは、イエスと書いた紙を前に置いてお話しされ、アダムの話をするときには、アダムと書いた紙を前に置いてお話しされました。

しかし私は講義を聞きながらも精神を集中することができませんでした。なぜなら、お父様は静かにただ座って講義をされるのではなく、紙を上げたり下ろしたりされながら、体で動作をしながら講義をされたからです。そしてどれくらい声が大きいか、私の鼓膜が破れるほどでした。「私はまだ若くて耳も遠くないのに、何のためにこの青年はこんなに大きな声で話すのか?」という思いになりました。

お父様は、「イエス様が雲に乗って来られると信じていますか?」と余りにも大きな声で質問をされました。それで、「私は聖書の言葉を信じます。聖書に記録されたことは神様のみ言葉であるので、一点一画も加えてもならず減じてもならないとあります。それで私は聖書に記録されたそのままを信じます。」と答えました。

するとお父様は、「雲に乗っては来ません」と言われました。
お父様は、御自分の読んでおられた聖書を開かれながら説明を始めました。その聖書をどれほど熱心に読まれたのか、赤い線でぎっしり埋まっていました。「イエス様は雲に乗って来られるのではありません。イエス様はエリヤが洗礼ヨハネとして来たのと同じように、肉身をもって来られます。」と話を続けられました。私は初めて聞く話なので理解できませんでした。「もしイエス様が人として来られるならば、同じ人間なのにどうして再臨されたイエス様だと信じられますか?」と反問したりもしました。お父様は熱っぽく私の疑問に答えて下さいました。

そして、「肉身をもって来られるならどこに足をつけられると思いますか?」と再び質問されました。イエス様が雲に乗って来られるのではなく、人として来られるが、韓国に来られると言われました。それで私は、「この世に国も多いのに、どうしてよりによって廃墟になった韓国の地にイエス様が来られますか?」と反問をしました。すると、「1950年に北韓上空にイエス様の顔の姿が現れたという話を聞きませんでしたか?」と言われたのです。もちろん、私もその話を聞いたことがあります。それで、「覚えています」と言いました。すると、「それがみんな意味があるのです。北韓上空になぜイエス様の顔の姿が現れるのでしょうか?みんな意味があるのです。」と話されました。

しかし、その質問に答えられる声がどれほど大きかったことか、私は集中することができませんでした。お父様がどれほど熱心にお話をされるかというと、話が絶頂に達すると山がゴーゴーと鳴り響くようにみ言葉を語られるのでした。「アイゴー、今日は静かに家に帰ることができず、何か事件に遭うのではないか?」という思いまでしました。

お父様は余りにも大きい声でみ言葉を語られながら体でも表現されるので、私は壁に背をあててできるだけ離れて座ろうとしました。しかし、お父様はみ言葉に酔い、ポンポンと飛びながら私の前まで迫って来て語られたりもしました。私は嫌気が差し、自分でも知らずにいらだつ表情になりました。小さな部屋に私一人をおいて踊ったり演劇するように話されるので、どうしたら良いかわかりませんでした。お父様は私のすぐ前にまで来られて話され、後ろに下がったかと思うと、またぱっと飛んで来るようにされながら、全身でみ言葉を語られました。

私はみ言葉を聞くどころか、お父様の表情と声、身振りに驚き、気が抜けてしまうようでした。そのとき、お父様は私一人を置いてみ言葉を語られたのではなく、全人類にみ言葉を伝えようとされたのだと、私は後で悟りました。全人類を生かして人類の生命を救援されることがお父様の使命であられるので、たとえお父様の目の前には私一人が座っていたとしても、お父様は全人類のすべての霊がその場に座っているものと考えられたのです。全世界人類の生命に向かってそのように大きな声で熱情を尽くしてみ言葉を語られたのでした。

それほど、その日お父様は死生決断をしながら大きな戦いをする人のように、生きるか死ぬかというそういう岐路に立ちみ言葉を語って下さりながら、「そうなるはずだ、そうであるだろう。そうなるようになっている。」というような言葉をたくさん使われました。そうしてお父様は、「これはこうです。あれはこうです」と結論を正確にお話しされるので、誰であっても聞けば頭を下げざるをえない信念と熱情があふれておられました。

み言葉を聞きながら、「本当にたいした方だなあ!という考えになり、お父様を見つめました。そうして見つめてみると、お父様の瞳がきらきら光っていました。「おかしい。この青年の瞳がきらきら光っている。光彩が出ている。」と思い、もしかして私の目に異常が起きたのではないかと思い、目をこすって再びお父様を見つめました。再び目を開けて見てもお父様の目には依然と曙光(しょこう)が照っていました。

それで、「どうしてこの青年の目に曙光が照っているのか?」と考えながらみ言葉を聞いていたのですが、お父様は、「今日はここまでにしましょう。」と言われました。そのとき、七時を少し越えていました。私が四時を少し過ぎてお父様のみ言葉を聴き始めたのですが、七時を越えたということは三時間み言葉を語られたことになります。初めて会った人に三時間も話すということは易しいことではありません。私もまた相当につらかったので、お父様が今日は終わりましょうと言われたとき、すっと立ち上がりました。「ああ、良かった。」と思いながら帰ろうと立ち上がったのですが、お父様は、「食べる物は何もないけど、食事をいっしょにして行きなさい。」と言われたのです。それで私は、「いいえ。私の家はすぐこの下にあるので、なぜ食事をして帰りますか。今日はこれで帰らなければなりません」と遠慮しました。

それでもお父様は、今日夕食は必ずここで食べて行かなければ、と何度も言われたのです。韓國語の「꼭(コク)」を日本語で「必ず」と言いますが、お父様は、「カナラズ」という日本語まで使われながら、「今日必ず、どうしてもここで食事をして行かなければならない。」と何度も言われるので、突然あきらめの気持ちになました。「꼭(コク)」というお父さまの言葉に深い情を感じ魅了されて結局食事をすることになりました。

当時は戦争中でもあり、みんな困難な生活をしていた時代でした。それで食膳を見ると、とてもみすぼらしい食事でした。玉世賢(オク・セヒョン)オモニが作ってきたのですが、松の木で作られた食卓に、へこんだ鍋の器に入れられたまっくろな麦ご飯が出されました。おかずも酸っぱくなったキムチに焼き豆腐何切れかが全部でした。そういう食事を前に置いて座っても、お父様の顔には喜びの色がいっぱいでした。私といっしょに食事を召し上がることが喜ばしいご様子でした。後で、お父様は何度も、「あのとき、私が一番寂しい時であった。最も孤独で寂しかった時だったので、神様が姜賢實(カンヒョンシル)を送ってくださったのである。」とお話しされました。

お父様は私に食事の祈祷をしなさいと言われました。私は、「え、私は祈祷しません。」と言葉を返しました。その日、三時間もみ言葉を聞きながら、お父様が余りにも強く力の限りに、大声で叱るように語られたので、自分でも知らないうちに力が抜けていたからです。私は26年間信仰生活をして来たので、どこででも自信に満ちた代表祈祷をしましたが、その日はまったく勇気が出ませんでした。「私は祈祷できません」と二度お断りすると、お父様が祈祷をされました。

お父様は泣かれながら祈祷されました。声が詰まり、しばらく途絶えて再び続けて祈祷されるのですが、骨肉から湧き出る心情に染みた祈祷でありました。「神様の御旨を私が成して差し上げるために今までこの道を歩んで来ましたが、私より神様がもっと苦労をされたことを知っております。神様の御旨を私が成して差し上げます。神様のその多く残された恨(ハン)を私が必ず解いて差し上げます。この地の上に神様の国と世界を私が探し建てて差し上げます。そうして神様を安息させ喜ばせて差し上げる私自身に必ずなりますので、神様、私を見られ慰労を受けて下さいませ。」

その祈祷の内容を聞いて、私は本当にびっくり驚きました。私も一日に三時間以上祈祷をしていましたが、私の祈祷とは次元がまったく違う祈祷であったからです。私は祈祷をするごとに、「病気になった者の病気が治り、試練に遭った者に試練に勝つことができるよう力を下さいませ。そして弱い者には勇気を下さいませ。」というように、一様に神様に何かをして下さいという祈祷をしていました。

しかし、「この先生は神様の悲しくつらい事情を言いながら、神様の恨(ハン)を解いて差し上げ、神様の所願(しょもう)を成して差し上げると祈祷をするのか!」という、そこに深い感動を受けました。私はそのときまで一度もそのような祈祷をしたことがなかったので、良心の呵責を感じもしました。

その祈祷の内容を聞くと、「ああ、ここに何かあるな!」という大きな悟りを受けました。その日、夕食をしないでそのまま家に帰っていたとしたら、おそらく私は統一教会の食口になっていなかったでしょう。その祈祷の内容を聞き、夕食を食べてから私が変わりました。

「私は不孝娘のごとく神様に頼って私のものを満たそうとしたのに、この青年は自身のものを差し上げながら神様に侍り、安らかにして差し上げようとするのだなあ。」という反省の思いになりました。そういう思いになるや、涙があふれました。私がすすり泣いていると、お父様は、「今日この幼い娘がここを訪ねて来ました。神様、どんな御心があられるのか本人はわかりませんが、この娘をして神様の真の御心を知り、感じ、行うことができるようにして下さいませ。」とむせび泣かれました。

そのようにむせび泣かれ、ときには声が詰まり祈祷を続けることができずに、じっとされた後に、再び祈祷をされ、またしゃくり上げながら祈祷をされました。その姿には形式もなく、飾り気もなく真の心だけがありました。その祈祷に私は大きな恩恵を受けたのです。

その祈祷を聞きながら私は、「ここには、神様が共におられる」ということを大変感じました。声を詰まらせ、ひくひくとしゃくり上げながら真実なる祈祷をされるその姿には何事も混ざらない真実、神様が安らかになられるように侍って差し上げる、孝子の心情を感じることができました。「私はこれまでイエス様を信じて来はしたが、間違って信じて来たんだな!」と感じました。私は毎日欲心だけを出して、神様に要求だけして生きてきたのだな。「神様、私を天堂でも良いところに送って下さい。イエス様に誰よりもまずはじめに会わせて下さい。」という祈祷を捧げる不孝をしました。

私が動機となり、欲心が中心になり、私を中心として信仰したことを悟りながら悔い改めの涙がとめどなく流れました。この世の父母も、自分のところに来て何かくれといってもらっていく子供よりも、服一着でも食べ物一つでも持って来てくれる子供が貴く愛らしいでしょう。つくづく考えてみると、神様は私よりこの青年をより愛しておられるだろうという思いになりました。そして、私の祈祷よりは青年の祈祷をもっとよく聞いて下さるだろうという考えにもなりました。

そういう感動の祈祷が終わった後に夕食を取りました。お父様は食事をおいしそうに召し上がりました。その日私は聞きたいことはたくさんありましたが、質問らしい質問はできませんでした。お父様が強く一方的に質問され、お話しされたので、質問をするすきもなく、口に出すこともできなかったからです。

「今日、こんなに三時間も話をして下さったのですが、お話はまだあるのですか? それとも終わったのですか?」とお聞きすると、「本当は私がですね、話をして聞けば、数日夜を通して話しても継続して新しい話ができるほどの内容があります」と答えられました。私は心の中で、「この青年は途方も無い大きな話のふろしきを持っているな。聖書についての新しい話をいくらでもすることができるとは大したものだ!」という思いになりました。

「ええっ?そんなにお話がたくさんおありなのですか?」と言うと、「この家は外から見たらみすぼらしいでしょう?そうではあるけれど、いつでも門は開かれていて人を待っています。」と言われました。それで私が、「また誰を待っておられるのですか?」と聞くと、「この地上には、人生の根本問題と宇宙の根本問題を解決できなくて彷徨(ほうこう)する人がどれほど多いかわかりません。その人たちに私は新しい天の知らせを伝えてあげるために、いつでも門を開いて人を待っています。」と言われました。

その日、別れるとき、お父様は、「姜伝道師。次にまた来て話を聞くことを願います。」と言われたので、「時間があれば来ます」と答えました。すると、お父様は断固とした語調で、「時間はいつもありません。時間は作らなければなりません。」と言われました。

あいさつをして別れて歩き出したのですが、後ろから足音が聞こえます。振り返って見ると、お父様が私の後について来ておられたのです。私は、「あいさつまでしたのに、またなぜ私について来るのか?本当に変だな!」と思いました。

そのように思いながら私の家の前に到着しました。私が後ろを振り返って、「ここが私の家です」と申し上げると、「また来て話を聞いて下さい」と言われました。さっき別れるときとまた同じ言葉を言われるので、「時間ができたら行きます」とだけ申し上げました。私の答えを聞いたお父様はまた、「時間ができて来るのではなく、作らなければならないのです」と言われました。結局私が、「それでは時間を作ってみます」と答えました。

私の答えを聞いたお父様は少年のようなほほ笑みを浮かべられ家に帰られました。お父様はそのとき、人の生命を探し求めるために御自分の立場や体面、威信のようなものは一つも考えられないのだなということを感じることができました。お父様の威信や体面を考えれば、若い女性の後をついて来ることなどできないでしょう。しかし復帰の道で一つの生命を救わなければならないという切迫した心情を持っておられるので、私の後をついて来て、「もう一度話を聞きに行きます」という答えを聞いてから御自分の家に帰られることができたのでした。

その日のお父様のほほ笑みは今も私の心の中に残っています。人が恋しく人が来ることを待っておられて、やっと会えたその嬉しさと喜びがお父様のお顔にそのまま出ていたからです。

第一章  成長と入教

その3 おし(唖)になる

  再び訪ねる

その日以後、神学校で学んだすべての神学の内容が一度に壊れたことを感じました。なぜかその青年の話を聞いた後から私の人生が無に返ったようで、祈祷をしても神様が答えて下さるようではありませんでした。お父様の祈祷は私が信仰生活をしてきたものとは相当に差異がありました。既成教会では祈祷をするとき、意識的に祈祷の形式と教会の制度に縛られて祈祷するときが多いのですが、お父様の祈祷は真心(しんしん)から湧き出て神様を思いながら血と肉と骨の中から自然に流れ出る祈祷でした。その祈祷を聞きながら、「この方は神様と近い因縁を結んでおられるのだな」という感嘆がおのずと起きました。そして七年前に私が決心したことを知っておられることを考えると、普通の人とは違うという思いもしました。

数日夜通しで話ができるほどの話があると言われたので、もう一度行ってみなければという思いになりました。次の週の月曜日以降にもう一度訪ねに行かなければという思いはしたのですが、まず三時間の間、聴いた話をじっくり吟味(ぎんみ)してみました。考えれば考えるほど余りにも論理的で確実な内容であったので、結局木曜日に再び訪ねました。

午前中は学校に行って、午後に話を聞くために訪ねると、青年は私を見て大変嬉しがりました。「どうぞ部屋に入りなさい。」というので、一瞬、私は疑いの思いが起こりました。「この方はなぜ私をこのように喜ぶのか?若い男性だから、もしかして私が若い女性だから喜ぶんじゃないのか?」という思いが浮かび、気持ちが良くなかったのでした。

そういう私の心を知っているのか知らないのかわかりませんが、青年は再び話を始めました。内容は、神様がどのように存在されるのかというもので、創造原理に関するものでした。その御言葉を伝えるお父様の姿に大変深い感銘を受けました。

「神様は果たして存在されるのか?存在されるのならどのように存在されるのか?」という問題は重要なものですが、事実、目に見えないので、百パーセント確信を持って伝えることが難しいものです。しかしお父様はあまりにも明確に絶対的に神様の実在を伝えられました。そういうお父様の姿を見ながら、私自身の信仰を振り返って見ざるをえませんでした。私は、「いつ神様について真正に信じて証したのか?イエス様について全力を尽くして伝えたことがあるのか?私が信じていることを伝えることができるのに、絶対的に信じることができないので、伝えるときにも相手の心に絶対的に伝えることができなかったな。私の信仰は本当に不足だった。こんな信仰で多くの生命を生かすことができるのか?」ということを感じました。そしてお父様が話される御言葉は頭で研究されて絞り出された御言葉ではなく、全世界人類を救うための神様の御旨であるということを自然に知ることができました。

そういう感動を受けながら心の片隅では、疑心と葛藤もありました。「この世の終わりには偽キリストが多く現れるというが、もしかして偽キリストではないのか?」という心配もしたのです。そのとき、神学校では、お父様が北韓でどんなことをされていたのか、そのうわさが立っていました。一言で言えばお父様は異端だということでした。そのうわさを考えながら、「偽キリストがここにいる、あそこにいると言っても行ってはならず追ってもいけないというが、これはつまらないことではないのか」という心配になりもしました。

そのときには、お父様が再臨主であるということは夢にも考えることができませんでした。ただ、「御言葉を条理よく話され、多くの体験を持っておられ、霊的に明るい方であるな」と思い、祈祷をたくさんされる神霊の高い方であるということだけ思っていました。

先生(=師)として侍る

二回目の御言葉を聴いた次の日の(1952年)5月16日金曜日、再びお父様を訪ねました。夕食を早く済ませて登って行ったら、お父様はその日はさらに喜んで迎えて下さいました。二日間御言葉を聴いた土台の上の三日目、私は完全に御言葉に酔って聴きました。
「ああ、これならできる。今、この時間にもこの世の人たちは戦い殺しあう暗闇の中でわめいているが、私は真の真理に出会ったから、これでできる」という考えになりました。私は新しい御言葉に酔い、精神が体の中にあるのか体の外にあるのかわからないほど、時間が過ぎることもわかりませんでした。御言葉を全部聴いた後にお父様に申し上げました。

「一つ、お願いがあります」
「何ですか?」
「これから先生として侍りたいので、先生(ソンセン)ニムとお呼びしてもいいでしょうか?」

みすぼらしい服を着た青年を私はそのときから、先生(ソンセン)ニムとお呼びすることにしました。横で肖像画を描いていた青年とおばさんも喜びの表情でした。その青年が金元弼(キムウォンピル)先生であり、おばさんは玉世賢(オク・セヒョン)オモニでした。そのときには、玉世賢(オ・クセヒョン)オモニや金元弼(キム・ウォンピル)先生などお父様に侍る人たちが、「アボニム(お父様)」と呼ばずに、「先生(ソンセン)ニム」とお呼びして侍っていました。

中央前:金元弼先生

この日のお話がほとんど終わる頃、時計を見たら夜明け4時を少し越えていました。4時30分には早朝祈祷を私が導かないといけないのに、4時15分ごろにになってやっとお話が終わったので、準備がまったくできませんでした。教会に下りて行って早朝祈祷会を導こうとしても準備が全然できていないので、心が苦しかったのでした。しかし、早朝祈祷をする途中に信徒たちの中で悔い改めをして頭をかきむしりもし、胸を叩き、礼拝堂の床を叩きながら痛哭をする者たちもいました。平素に祈祷会を導く準備をたくさんしても、こんなことがなかったので、おかしいなと思いました。「今まで三日の間聴いた内容を中心として話を伝えたので、こんな役事が起こったんだな」と考えました。

その日は土曜日でした。家庭訪問をするのですが、お父様についての思いが頭から離れませんでした。どうしても行って会いたくなり、我慢できなくなりました。それで一緒に家庭訪問をしていた執事(チプサ)に話しました。

「執事(チプサ)ニム。あのボンネッコルにある青年がいるのですが、イエスをよく信じているようです。しかし、教会に通っていません。私が教会に出て来るよう勧めなければなりません」
「どんな青年なの?」
「どんな青年なのかといえば、見たところ良く見える人ですが、悪いことに教会に通っていないのです」
「じゃあ、行って来なさい」

そう話を終えて、その執事を長老の家に待たせておいて、お父様のおられるところに登って行きました。ちょうどそのとき、お父様は家の外に出ておられ、私を喜んで迎えて下さりながら、中に入って御言葉を聴きましょうと言われました。
「今、家庭訪問をしているので、帰らなければなりません」
「20分でも御言葉を聴いてから行けばいいのですが」と言いながら御言葉を話されました。そして私に、「今まで御言葉をたくさん聞きましたが、この御言葉は神様からきたものなのか、人間の頭から絞り出したのかを知りたくはないですか?その出所を突き止めたくないですか?」と聞かれました。
「はい。知りたいです。どうすれば知ることができますか?」
「それなら祈祷をしてみなさい。神様は必ず教えて下さるでしょう」
お父様の答えを聞いて、私の心はうれしかったです。

もしその時、お父様が、「この御言葉は神様から来た御言葉であるので、この御言葉を信じなければ亡んで地獄に行きます。」としたなら、私はそのまま何の未練もなく去っていたでしょう。しかし、お父様は「直接祈祷してみなさい。」と言われたので、なぜか嬉しかったです。
「はい。祈祷してみます」
「自分の子がパンを求めるのに、石を与える父母があろうか。魚を求めるのに、へびを与える父母があろうか。神様も子女が懇切に祈祷すれば必ず応答して下さるのです」と言われたお父様の言葉に力がありました。

おし(唖)になる

次の日は主日(=日曜日)でした。それで教会で礼拝を捧げ信者たちと話をしました。次の日の月曜日に早朝からその言葉についての祈祷を始めました。祈祷をしている途中に神学校で学んだ理論が頭をずっとかすめました。こんなにりっぱな理論が多いのに、その理論を実践した人が少ないのがもどかしい。この世に多くの理論が実践に移されずにそのままになっている。お父様が話されたことも一つの理論として終わり、実践されるようでもない。そう考えると、頭が痛くなり、胸が重苦しくなりました。天のお父様と呼んでも舌が回らなくなり口も開かなくなり、祈祷ができないおしになりました。

私は心の中で祈祷しました。「主よ。私がどんな罪を犯したので父と私の間にこのような壁が生じたのですか?この壁のゆえに胸が重苦しく息が詰まるようですから、神様がこの壁を壊して下さい」と祈祷を捧げました。

そして私は悟りました。体が火の中に投げ入れられることだけが地獄ではなく、私が神様から離れるとき、すなわち神様が私の中におられないときが地獄であると悟ったのです。「私が神様の愛の主管圏にいることができず、神様の主管を受けることができない非原理圏が地獄である」ということです。そのとき私は地獄が何であるかを感じました。言葉も話せず、息もできず、心があせりました。

父よ。私にあるすべてをみんな持って行ってもいいです。しかし、父と通じることのできる祈祷の道だけは持っていかないで下さい。神様と私の間に心情的な内的な因縁だけは切らないで下さい」という思いでした。

言葉が話せないので余りにもつらかったです。そのように言葉が話せないおしになり、三日が過ぎました。その三日がどれほど飽き飽きし重苦しく苦しい時間だったか、三年の歳月が過ぎた気分でした。

四日目になった日に教会に出ました。教会で祈祷を捧げたのですが、「人の話も信じることができず、受け入れないおまえが、神様の御言葉をどれほど信じて受け入れられるのか?」という心の声が聞こえました。

「神を愛していると言いながら兄弟を憎む者は、偽り者である。現に見ている兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することはできない」と言われたヨハネの第一の手紙4章20節の言葉が思い出され悔い改めの祈祷を始めました。

「私は、人の言葉も信じることができず、受け入れることができない者になりました。私の不信の罪を許して下さい」と悔い改めの祈祷を捧げました。すると頭の痛みと胸の重苦しさが解かれ、心と体がすっきりしました。
そして口が開かれ、「父、神様、主よ!」と呼ぶことができるようになりました。

それで朝の食事をする前に喜びの思いでお父様のところへ走って行きました。三日の間、行かなかったので、お父様は、「なぜ三日も来なかったの」と言われました。私は三日の間、地獄に行って来ました。先生に出会う前にはこんなことはなかったのに、先生に会ってから後に頭が痛くなり、胸が重苦しくなり、祈祷ができず三日間おしになりました。その間、多くの時間を奪われ、神霊的にも多くの傷を受けたので、損害を受けたものを賠償して下さらなければなりません」と言いました。

そしたらお父様は、「祈祷をするとき、疑心の思いはなかったの?」と聞かれました。
「私も知らないうちに、疑心が生じました」
「おしになったのは疑心を抱いたからだね」

お父様は私にもっと話をして下さろうとされたのですが、私が賠償をしてもらわなければという言葉を言ったので相対基準が合いませんでした。お父様は結局、家の外に出てしまわれました。

そのとき、玉世賢(オクセヒョン)オモニが私に話しかけてきました。
「あの方は立派な方です。神が愛する方です」
「私に良い話をしていただけると思ったのに、なぜ先生は自慢だけをするのですか?
おばさんは先生にいつどのように出会ったのですか」
「私は啓示を受けて入って来ました」
「啓示が何ですか?」
「神様の声を聞きました」
「本当に聞きましたか?私は26年間、イエス様を信じてきましたが、神様の声を一度も聞いたことがありません。私も是非聞いてみたいのですがどうすればよいですか?」
「私心を捨てて真心から祈祷すればいいです。実にあの方は神が大変愛される方、再臨イエスです」
「あの方が再臨主ですか?再臨主は雲に乗って来られると言われているのですが、雲にも乗って来られないのに、再臨主と言われるのですか?」
「私は神様から啓示を受けました。神様が愛する方であり、世界的に大きく働く方との啓示を受けて出会った先生です」

そのように玉世賢オモニは伝道された時を回想しながら話を聞かせてくれました。
玉世賢オモニは長老教会の篤実(とくじつ)な長老の夫人として恵みをたくさん受けた勧士(クォンサ)ニムでした。

「ある日、家で祈りを捧げていたら、天からの声が大きく聞こえてきました。『萬寿臺(マンスデ)の向かい側で若い青年を訪ねなさい』という啓示を受けました。

※萬寿臺(만수대/マンスデ):朝鮮民主主義人民共和国平壌市中区域の地名。大同江 西岸の丘陵地である

私も最初は聞き間違えたと思って探しませんでした。すると、目の病気になりました。病院にも行ってみて薬局で目薬を買ってさしてみましたが治りませんでした。それで、神様に祈ったところ、『なぜ訪ねよと言ったころに行かなかったのか』と叱る声が聞こえてきました。結局、行けというところに行ったら、先生がおられました。先生にお会いするやいなや目の病気が治りました。それ以来、先生を手厚く侍ることなりました。その時の先生は、平壌(ピョンヤン)で小さな部屋を持って礼拝をささげておられましたが、平壌市内の信仰心篤い勧士、執事、平信徒たちが啓示を受けて多く集まって来ました。神様から直接の声と啓示を受けた者が多かったです。

すると、平壌市内の牧師たちが、長老たちと会議を開いて、そのまま放って置いてはいけないと決議したのです。最初は教会でも問題となり、次には長老会議で問題になって総会で問題になって既成教会の信徒たちが警察に投書をしたのですが、80通以上もなったということです。社会秩序を乱し信徒を奪っていくと警察に投書をして、結局先生が平壌の獄中に収監されることになりました。私は、雑穀の粉と季節が変わるごとに服を作って、毎月一回ずつ面会に行きました。」

そう言いながら涙を流しました。賠償してもらわないという私の心の中に玉(オク)勧士(ウォンサ)ニムの涙が落ちてくるようで、「私が間違っていた」と思いました。

「夫が長老教会の長老だったので、面会に行くのがなかなか難しくなかったからでしょうか。月に一度、平壌(ピョンヤン)から興南(フンナム)まで通って来るのでなかなか行けませんでした。ある日、汽車の中で祈りました。「神様、私は文先生に面会に行くことを来月から止めなければなりません」と言ったら、白い服を着た老人が現れました。

「なぜ面会に行かないようにしようと思うのか?今は影の中に埋もれて臭い獄中にいるが、その先生は普通の方ではない。今後、全世界から無数の人々が山や海のように集まる時が来る。だから、どんなに難しくて大変でも続けなさい」と言うことでした。それ以後、続けて面会に通いました。」

その話を聞いて私は感動を受けた一方、驚きました。お父様に世界の人々が訪ねて来て、学び、頭を下げる時が来るという言葉に、私も祈ってみなければならないと思いました。しかし、私は私心を捨ててどんなに本心から祈ってもその声は聞こえてきませんでした。

第一章

その4  神の声

 

第一章 成長と入教 
神の声

そんなある日、教会に行って心からの祈りを捧げました。「生きておられる人類の親であられる父なる神様は、この重要な問題を解決しなければなりません。声であれ幻想であれ現れて教えて下さりお聞かせください」と祈りました。すると、本当に声が聞こえてきました。

その声は、ピリピ書3章20節の御言葉でした。
「私たちの国籍は天にある。そこから救世主イエス・キリストの来られるのを、
私たちは待ち望んでいる」という声が三度も聞こえてきました。
それで立って周囲と天井を見てみましたが、誰もいませんでした。その声を出せる人やその声の人がいるのかを見てみましたが、空っぽの教会堂に私一人だけでした。
まさに神様の生きた声を聞いたのです。

それで、再びお父様を訪ねました。
「先生、祈りの中で声が聞こえてきました」
「どんな声なの?」と言われたので、その内容を申し上げました。
すると、「伝道師さん、そんなことをしたら狂ってしまうね」と言って笑われました。
「私がイエス様をよく信じ正しく信じたいだけなのに狂ったらどうなりますか?」
「狂っても神様の為に、善の為に狂うならば良いことだから安心しなさい」と言って下さいました。

しかし、その声を聞いてからが問題でした。この道を行くべきか行かないべきかということが問題でした。その時の環境を見ると到底信じることができませんでした。部屋は畳二畳の広さにもならないうえ、雨漏りする土窟のようなところで礼拝を行い、礼拝人数も二、三人だけなので信じることが難しかったのです。

御言葉は途方もなく高い内容であって聞くとうなづくことができるのですが、少し経つと疑問が生じました。「このように変転する心なので、朝と夕で顔色を変えながら、神様が創って下さった本然の顔を一度も持つことのないまま残る人生の道を疑心の思いで生きていくのか?」と私の心は苦しくて辛かったのです。

「私がなぜ人と違った方法でイエスを信じようとするか?長老派教会に通いながら、イエスを信じてもいくらでも救いを受けることができるはずなのに…」という個人的な考えが先んじて悩むようになりました。そして、他の教会は礼拝を終えた後に信者が山のように溢れ出てくるが、ここでは二、三人だけなので、とても自分自身の信仰を保つことができないようでした。

同時に、長老派教会の信仰を守り続けていくことも難しく感じました。嘘偽りを真のことだと信じ、辛いことを楽しいことと思い、愚かな自分を賢いと思って嘘と虚飾で自分を偽装する愚かな人生を生きて来たようで、辛くなりました。

深刻な内的の葛藤の中にも、お父様に何か引力があるのでしょうか、毎日のように御言葉を聞くために訪ねて行きました。まるで磁石に引きつけられる鉄粉のようでした。

そのときは、あまりにも難しい時代でしたが、私は何でもして差し上げたくて、数日に一回づつキムチを作って差し上げることもしました。お父様は、私が漬けるキムチは美味しいと記憶しておられますが、おそらくその頃には、あまりにも食べるものが少なかったときだったので、そのように覚えておられるようです。なぜなら、その頃には私も余裕がない状況なので、調味料もまともに使うこともできずにキムチを漬けて差し上げたことも多かったからです。それでもお父様は、美味しいと言われるので、キムチやにしんなど、いくつかのおかずを作って差し上げました。

毎日お父様のところに行くので、凡川(ボムチョン)教会でも知られるようになり、神学校でも知られました。教会では、私がある若い青年を追いかけて通っていると色眼鏡で私を見るようになり、1952年8月から本格的に問題になりました。

選択の岐路

その後、私は続けて試練に遭いました。お父様は私に、他の人も話を聞くことができるように連れて来るように言われました。それで私はいつも尊敬していた伝道師、一緒に勉強していた神学生、教会で信仰心が深い執事など、たくさんの人をお父様に連れてきました。

しかし、奇妙なことは、その人たちは御言葉を聞いた後、「姜先生がおかしいです。これがなぜ真理ですか?聖書にもない話だけがよく作られてありますね!」と皆が不信しました。一人も肯定的な反応を見せた人がいなかったのです。なので私は、「本当に私が間違っているのか」と心配し始めました。御言葉を聞くときは、うなづき、力が出て良いと思っても、御言葉を聞き終わって家に行くときは、目の前が真っ暗になりました。

私が連れてきた人たちの中で信徒が数百人を超える教会の伝道師もいたし、神学校で秀才という評価を受けている学生もいました。凡川(ボムチョン)教会で信仰心が深いことで有名な人々もたくさん連れてきました。しかし、彼らの中で誰も、お父様の御言葉に共鳴する人がいなかったのです。みんな私がおかしいと言うので葛藤を感じざるを得ませんでした。「他の人たちはみんな違うと言うのに、私一人だけが正しいと言ってもいいのだろうか?私ももうやめるべきだ」という思いになりました。

しかし、そのような考えをすれば、お父様の私に対する目つきが変わりました。私が疑えば、お父様が私に距離を置いて対されました。そして不思議なことに、私が疑うその部分についての御言葉を話し始められました。まるで私の心の中を覗いておられるかのように私の思いを知られ話しをされました。

私は一度もお父様に私の心の葛藤についてお話ししたことがなかったのです。それでも疑がったりとか不信をする思いが生じたら、お父様はまるで心の目で見ているように私の思いを知っておられました。「神様のように私の心を見抜いておられる方だ」ということをよく感じました。

そんなある日、御言葉を聞いた後、家に帰りながら否定的な考えが湧きました。「みんな違うと言うのに、私だけが正しいと言うのは何かが間違っている。私よりも、イエス様を長く信じてきた人々、神学を長く勉強した人もみんな違うと言うのに、私が何で一人で正しいと言うのか?私一人が正しいと言って何か変わるものがあるのか?教会で悪口だけ言われて、神学校では、狂ったという言葉まで聞いた。もう本当にやめなければならない」という決心が立ちました。するとその後、汚れた水が流れる下水道に足がはまってしまいました。汚れた水に足がはまると、「私が疑がってやめようと決心したから罰を受けるんだなあ」と思いました。

その時はそんなことの連続でした。葛藤が最高潮に達して、到底これではだめだと決心すると、そのような予期せぬ事故が続いて起こりました。私は自分なりに、お父様から聴いた御言葉を分析もしてみて、御言葉どおりに成されるのだろうかと考えもしてみました。周りのみんなが私に気が狂った、おかしくなったと言ったので、私の心の中の葛藤はよりひどくなりました。

ある日の夜、夢を見ることもありました。鬼のような真っ黒なものが現れ、私を縛って暗い地獄のような場所に連れて行く夢でした。そんな夢を見た日には、私は鬼にだまされて間違った考えをしているのではないかと思ったりしました。
お父様に出会ってから夢で多くのことを見たりもしました。その内容を忘れないようにと、夢から覚めたときにすぐにメモをしようと枕元にノートと筆記用具を置いて、寝たりもしました。

そういう時が過ぎて8月になりました。もうこれ以上はだめだという思いになりました。「これで本当に私がやめなければならない。このように私は迫害を受け、人として扱われもしないので、これ以上は続けられない。周りの人が皆、私を浮気女、放蕩女として見るからこれではだめだ」という考えになったのです。そのような心を持ってお父様に会いに坂を登って行ったのでした。「今日は絶対に部屋に入らず、外から挨拶だけして帰らなければ!」と、固く心に決めました。部屋の中に入って話を聞くと、また御言葉に吸い込まれていくかも知れないから外で挨拶だけしようと思ったのです。

そう思って到着すると、お父様が家の外におられました。それで私はお父様に挨拶をして、「私は今からここで御言葉を聞くことをやめます。以前に信じていたイエス、長老教会で信じていたイエスを信じます」と言おうとしました。

そういう挨拶をしようとお父様を見たところ、昨日まで仁者(じんしゃ=情け深い人)のように見えていたお父様の顔が怒っている虎の顔のように見えました。いざお父様の顔を見ると自信が無くなって、「家に帰ろうか、どうしようか?」という思いがしました。そんな思いを一人でしているとお父様は何も言われず、部屋に入って行かれました。

挨拶も何の言葉も言われず、部屋に入ってしまわれたので、私はまた葛藤が起こりました。それでもどうせここまで来たので、別れの挨拶でもして帰りたくて、私もついて部屋に入りました。それでもお父様は何の言葉も話されませんでした。

無言で30秒程度経ってから、
「今日、ここまで登って来ながらどんな考えをしたのか」と尋ねられました。
「考えたことは何もありません」と言ったら、
「考えたことがあるんだけどね」と言われるのでした。
「覚えていることは特にありません」と言いました。
そう言うと、「若い人がなぜさっき思ったことを覚えていることができないの?今ここに登って来ながら、松の木の曲がり角を曲がりながら、次からはこの道を行かないと思ったんじゃないの?今日ここに来たのは、別れのあいさつをしに来たんじゃないの?」と言われました。

その言葉を聞いて、私の顔がにんじんのように真っ赤になりました。なぜなら、良心の呵責を感じたからです。私が思っていたことをその如くお話しされたので、どうすることもできなく頭を垂れていました。

そんな私にお父様は、「私は実際に力がある者であり、能力のある者です。商売をしても上手にしてお金を稼ぐことができ、また、就職しても、私は今よりいい生活ができる力があります。これもできなくて、波止場町で労働をしても、誰よりもいい暮らしができます。しかし、なぜこの若者が、夏でも冬服を着て畳二枚の広さにもならない部屋の隅に引きこもって座っているのだろうか?その理由は、神を愛することに狂った者だからです。神の御旨を成して差し上げるために、私は明らかに狂った者です」と言われました。

その言葉を聞いて、私の心は驚きました。「私は神様を愛することにまだ狂ってみたことはなかったし、神様の御旨を成して差し上げることに狂ってみたことがなかったが、この方はやはりたいした方だ。神様を愛するために狂った方、神の御旨を成して差し上げることに狂った方に従って、私もちょっと狂ってみなければならない」と心の中で思いました。

その後、お父様が私に、「信じられないと言って、荷物を包んで出て行くことはできます。しかし、いくらもしないうちに戻ってくるはずなのに、なぜ無駄な苦労をしようとするのですか」と言われました。その言葉を聞きながら、「これが真(まこと)であるな」と思いました。

しかし、人の心は、「朝変夕改(ちょうへんゆうかい)」と言われます。朝と夜で心が変わるので、自分の心を自分でどうすることもできませんでした。そのようなことが一度や二度ではありませんでした。そんな日には、多くの考えが湧きました。「五分後に何が起こるかもわからないで生きるのが人生だ。明日で終わりになるかもしれない命にもかかわらず、千年万年の設計を立てて、自分の為に足がすり減るほどあえぎながら走り回っても、いざ自分の大切な魂の為には一歩も動くことのない悲しい道、不幸な道を歩いて来なかったか」とじっくり考えてみました。嘘と虚飾で自分自身を偽装する悲しい人生の道を行っているのではないかを深刻に考えるようになりました。

疑心と役事の反復

ある日は、私が学んだ神学校の理論で、お父様がそれまでお話しされた原理と対比し討論するために訪ねました。

「先生、イエス様を信じるにおいて、どうして数字が必要ですか?40日、40年、400年、4000年と、4数を持って聖書を解釈されましたが、私は神様の摂理がそうなされたとは信じません」と言いました。

そしたら急に頭が痛く、胸が苦しくなりました。そして、口からは血まであふれ出ました。そんなことを自分の目で見ながらも信じられない不思議な出来事でした。そのとき、お父様が私のあごに手をあてられたのですが、嘘のように血が止まり、頭がすっきりしてきました。「痛いところをこんなに治して下さるので、私はこの道を行かなければならないのだが…」という思いになりました。

また、ある日、お父様を訪ねました。その日に限ってお父様の身なりと家があまりにも薄汚く見えました。途方もない御言葉を話されるのですが、みすぼらしい姿を見て、やはり理論であって実際に実現するのは難しいという気がしました。

私の顔をうかがったお父様は、「聖書をどこでもいいので広げて見なさい」と言われました。聖書を広げたところ、マタイ福音書14章でした。お父様は31節を読むように言われました。そこには、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と記録されていました。
お父様は聖書を持って、「これは私の言葉ではなく、神様の言葉です。神が、信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのかと言われても疑いますか?」と言われ、叱られました。

そう言われながら、「これから、この原理でキリスト教が統一される日が来るでしょう」と言われました。その言葉を聞いて、「キリスト教が統一されるには、各宗派の代表が集まって会議もして、その方法を模索しなければならないのに、ボンネッコルでわずか三人が統一を成功させることができるでしょうか?」という言葉が自然に出ました。

お父様は私の言葉を聞かれて笑われながら、「今は難しく見えるが間もなくそうなります。キリスト教だけでなく、宗教も統一され、世界も統一され、天宙も統一されるでしょう」と言われました。「ところで、天宙とは何ですか?」と尋ねると、「天宙は天と地を言う」と答えられました。

ある日は、光復洞(クァンボクドン)国際市場(クッチェシジャン・こくさいいちば)の前を歩いていると喧嘩している男と女を見ました。二人はいろいろな悪口を浴びせ、血だらけになりながら喧嘩していました。私は心の中で不平を言いました。「あんなに喧嘩している人が多いのに、いつ地上天国が成されるのだろうか?天国が成されるという話は到底信じがたい」と言うと、いくら歩こうとしても、両足が地面から離れませんでした。足がしびれたように痛くなって一歩も踏み出すことができませんでした。

結局、神様に、「神様、どうして私の心のままに考えることもできなくして、心のままに歩くこともできなくされたのですか?」と言いながら祈りました。
すると、道で声が聞こえてきました。私の心と耳に神様の声が聞こえてきました。
お前に何度も現れて教えてやったのに、お前はそれでも不信し疑うのか?お前にはするべきことが多い。わめく人々の声が聞こえないのか?彼らの命を父の愛の中に導くべき伝道師であるということだ!」と言われる神様の声があまりにも鮮明に私の行くべき道を教えて下さいました。

結局、その場で、「父の御心のままに、お言葉の通りいたします」と誓い悔い改めたところ、痛かった足が地面から離れて歩くことができるようになりました。私が経験したことを嘘だと思う人もいるかもしれませんが、直接経験した私には今でも忘れられないことです。その後も、真の師は冷たく蹴飛ばしておいて私を狙うサタンには妙に笑いながら、その味方になろうとしていた不信の心を責めたものです。

疑問や啓示が繰り返されていたある日、私は談判祈祷をしました。その内容は、「私が行くべき道がどの道であり、神様の願われる道はどのようなものか?」ということでした。ある日、神様は祈りの答えを下さいました。
「私が六千年間摂理し、役事してきた道がすなわちこの道である」と教えて下さいました。それ以後神様は、私が勝手に考え暮らすことができないようにされました。ひたすら神様とだけ因縁を結んで生きることができるように懲戒し、導いて下さいました。

私が最後に談判祈祷をした時も、答えの恩賜(おんし)を下さいました。その時、私は断食をしながら談判祈祷をしました。「神様!私の生命は自分が貴いということを感じて知っています。どこの誰が地獄に行く事を喜び、どこの誰が自分が滅びる道を選択しますか?ですから、このように祈祷を捧げますので、本当にこの道が正しい道かどうか教えてください。私に正しく教えてください。そうすれば、私はその通りに従っていきます」と祈祷しました。

すると神様は、「文鮮明先生は、私が今まで地に対して苦労し、地で救いの摂理を役事してきたすべて全体を継承してくれた者である。彼はそのように貴く大きな役事をしている。二千年前、イエスが地で成し遂げなけれならなかった使命、私の六千年の間に導いてきた役事をしている。そのようなすべての使命を継承した者がすなわち文鮮明先生である」と教えてくれました

その答えの恩賜(おんし)のゆえに、私の行く道ははっきりと定まりました。そしてすべての生活の中心にお父様を置きました。この道を行って死のうと決心したのです。この方がまさに私が慕って待っていたメシア、救世主、再臨主であると信じ固く決意しました。

ある日、お父様が私に、「明日は誰々に会うはずだから、彼を伝道をしてみなさい」と言われました。次の日の早朝祈祷を終え、ある一人の勧士(クォンサ)を私たちの家に連れてきて話をしました。

「勧士(クォンサ)ニム、イエス様を信じる目的は何ですか?主に会って、救いを得ることではないでしょうか?その主がいつ、どのように、どの地に来られるのか、私たちは一緒にお祈りしてみましょう」と言いました。

後に夜明けごとに水垢離(みずごり)をして、その勧士(クォンサ)と祈祷の時間を持ちました。数日後、その勧士が幻想を見ました。最初は明かりのついた電球三つが見えて、その次には、ムクゲの花が三輪見えて、イエス様の顔がその上に出るという幻想でした。

その勧士は、幻想で見たものが何なのかについて再び祈祷をしました。その結果、「電球は明るい光を指し、ムクゲは韓国を意味し、イエス様の顔は再び来られる主を意味する」との答えが返ってきました。

その言葉を聞いて私は、「一度祈っただけですべて解決されたとみることができないので、もう一度祈祷してみてください」と言いました。

やはり同じ題目で祈祷をささげたところ、「伝道師様、今回の祈祷は失敗しました。何の関係もないことを示してくださったんです」と勧士が言いました。今回は変な山が一つ見えて、その次には背がすらりとした青年一人が見えたというのです。

その話を聞いて私は、その勧士を連れてお父様がおられるところに行ってみました。そこに行く途中で、その勧士が私に緊迫した声で、「伝道師様、変です」と言いました。
「何が変なのですか?」
「あそこに見えるあの山は、今日祈祷したときに見た山です」
お父様がいらっしゃる家の戸の前に着きました。
「本当におかしいです。この家は、私が祈祷したとき見た家と同じですよ」

このような話をしているときにお父様が戸を開けて出て来られました。お父様にお目にかかったところ、その勧士は幻想の中で見た方とまったく同じだと言いながら、とても喜んでお父様に丁寧にあいさつを捧げました。

その勧士が家に帰った後、お父様は、「勧士に幻想を見せてあげたのは、姜伝道師があまりにも信じることができないので、勧士の証しを通して信じるようにしたのです」と言われたのでした。

ある日、神学校の創設者である韓尙東(ハンサンドン)牧師が西面(ソミョン)で復興会をするという知らせをお父様に申し上げました。
お父様は、「それでは、姜伝道師が行って会ってみなさい!」と言われました。その人は、神学博士であり、神社参拝を拒否したという理由で七年も獄中生活した牧師でした。
私が平素尊敬していた人だったので、霊界で協助してくれれば問題はないだろうという気持ちを持って訪ねました。復興会が終わった後、その牧師に、「牧師様、最近、私がとても話が上手な先生に会いました。聖書66巻の疑問点を確実に解いてくれる方です。不思議なことに疑うと頭が痛く、胸が苦しく、おしになって、足が地面にくっついてしまったことがあります。ですので牧師様も行かれて、調べて見て下されれば良いのですが」と私の信仰体験を話しました。

私の話を聞いたその牧師は、顔色がすぐに変わりました。「長老教会のイエス様を信じて救われることが明らかなのに、なぜ他のところへ行きますか?すぐに関係を切って、行かないように」ということでした。結局、肯定的な答えを聞くことができずに帰ってきました。帰ってきてお父様に、「霊界で協力してくれることを信じて行ったのですが、通じませんでした」と報告を差し上げました。その後、私の心情は地獄でした。

私の報告を聞いたお父様は、「韓牧師が誰であろうと、彼も神の息子であるから、いつかわかる時が来ます」と言われ、賛美歌を歌おうと言われました。

大山を超え険しい谷に行っても
光の中に歩いていくと
主はいつも守ってくださると約束した言葉は変わらない。
天の栄光、天の栄光、私の心の中に満ちあふれ
ハレルヤを力強く歌って、永遠に主を賛美せん。
真っ暗な夜に歩くことがあっても
主は私の道になられ
私に明るい光になられるので
道に迷う心配がない。

お父様と玉世賢(オクセヒョン)オモニ、そして私の三人が賛美歌を歌って歌いながら涙の海になりました。そして、お父様が、「父なる神様、なぜ他の人々が違うという道を行かなければならないのですか?父と約束したその御旨を成して差し上げるためです。どんなに大変で難しいことがあるとしても、私は必ず神の御旨を成して差し上げます」という内容の祈祷をされました。多くの人が反対しますが、神の御旨であるから私は出発したし、この道を行くべできであり、必ず勝利して、神様を喜ばして差し上げようと何度も誓いました。

いつかお父様が、「姜賢實は、霊界で伝道されて来たのである」と言われましたが、おそらく当時、私が疑って心霊的に問題があるたびごとに、事件が生じて疑わないようにさせた役事が多かったのでそのように言われたようです。

第一章  成長と入教

その5  ボンネッコル生活

 

第一章 成長と入教 
土塀(どべい)の家での生活の始まり

結局、9月になって凡川(ボムチョン)教会の伝道師の職から追い出されました。伝道師としての務めは果たせず、毎日お父様に会いに通うので、凡川教会で当然良くない噂が立ちました。教会の仕事をおろそかにして、神学校の勉強も熱心にしていないことも問題になりました。

最後には、その教会の責任者が教理的な質問をしてきました。堂会(=教会)がお父様の話を教理的に間違っていると批判しました。その教会の牧師は、絶対的な予定説を主張しました。神は、人間が生まれてから死ぬときまで予定されるので、私たちはただ信じて従えば良いのだと言いました。

しかし、私は人間に責任分担があると言いました。私たちはただ信じて従うこともみな責任であり、神様が予定された通り、私たちが行わなければ神様の御旨を成すことができないと言いました。人間がするべき5パーセントの責任分担があるということを言うと、その牧師は、「教理的に姜伝道師が言うことは間違っています。私たちの神学校では、カルビンの予定論を絶対的に信じています。絶対予定論を信じないのならば、これ以上伝道師の職を遂行させることはできません。」と言いました。教会にこれ以上いることのできない状況になったのです。

凡川教会で伝道師の生活をやめたのは、風がいっそう冷たくなっていた頃でした。それまで私は教会の宿所で生活していたので、その任職していた教会と生活していた空間すべてを失ってしまいました。ですから行き場のない身になってしまいました。そんな私にお父様は、「荷物をまとめてこちらに来なさい」と言われました。結局、私はお父様がおられた土塀(どべい)の家に入って生活しました。

神学校の夏休みが終わって新学期が始まっていたのですが学校には行けませんでした。そのとき私は3年生でした。神様の仕事をするために入学した学校にこれ以上通うことができなくなったのは、残念なことでしたが仕方がありませんでした。

それで、玉世賢(オク・セヒョン)オモニが私にどこの学校に通っていたのかと尋ねました。それで高麗神学校に通っていたと言うと、笑うのです。「なぜ高麗神学校と言ったら笑うのですか?」と行ったら、「私の夫も高麗神学校で勉強をしています」と言うのでした。「本当ですか?どなたですか?」と言うと、「禹(ウ)ファソプ長老です」と言ったのでびっくりしました。

禹(ウ)長老は、私が神学校に通っていたとき、親しくした人でした。私は神学校で最も若い学生でしたし、禹長老は最も年輩だったのです。勉強をしてわからない漢字があるときは、禹長老のところに行って聞いたりしました。

「ああ、そうですか。私がよく知っている方ですよ」
「おやまあ、そうなの?どれほど夫が反対をしたかわかりません」と言って一緒に笑ったことがあります。

後で、ソウルの奨忠洞(チャンチュンドン)に教会があった時代に禹長老に一度会ったことがあります。禹長老は玉世賢オモニと離婚をするために訪ねてきました。それから禹長老は私に、「私は妻を愛していました。今も愛していますが、信仰的に合わないので、今から到底一緒に住むことができない状況なのでこのように離婚をすることにしました。」と言いながら、「それでも私の心が安らかのは、姜先生がこの道に入っているということです。ここでこのように会えたので、少し安心しました。」と言いました。

ボンネッコル生活

ボンネッコルの土塀小屋に住んでいた時に、最も長くおられた方は金元弼(キム・ウォンピル)先生でした。この方は毎日、午前中に米軍部隊に仕事に出て夜遅く帰ってきました。いつも同じ真っ黒なジャンパーを着て、表情も変えずに通っていた本当に静かな方でした。いつも無言で、自分の仕事を黙々と続けましたが、お父様には絶対的に従っていました。

数年の間、お会いしても一緒に話をしたことがあまりありません。いつも同じ姿で米軍部隊に通勤しながら精誠を尽くされていた誠実な方でした。そして帰宅して帰って来られて、米軍の家族の肖像画を描く仕事をしました。お父様は金元弼先生を助けるために人造絹糸(けんし)で織った布に糊を塗って枠に貼り付けることをされました。糊を塗って枠に貼り付けた後、陽に当てて乾燥させると平らになります。その後、お父様は顔を描き易くするため鉛筆で線を引いておかれます。私もお父様を助けるために、その作業をしましたが、金元弼先生とはあまり話はできませんでした。あまりにも言葉がなく、私には静かに目礼で挨拶だけしました。

そして、玉世賢オモニが一緒にいて、時々お母さんの娘さんたちが来たりしました。また嚴德紋(オム・ドンムン)先生が時々主日(=日曜日)に訪れて来ました。嚴德紋先生はボンネッコルの土塀の家のみすぼらしい部屋に似合わない洋服一着をお父様に捧げました。

その洋服は嚴(オム)先生がソウルから釜山に避難した時に持ってきたものでした。嚴(オム)先生は避難の時にやっと持って来た洋服をお父様に差し上げるほど、お父様を尊敬し大切に考えていた方でした。その洋服のおかげで部屋がきれいに見えました。薄い茶色地に赤い縞のある、洗練された洋服でした。

嚴(オム)先生は主日になれば、いつもお父様がおられる所を訪問しました。そして歌でお父様を慰労し喜ばせて差し上げました。澄んだ声で、「夢金浦打令(モングムポタリョン)」、「白鷺(しらさぎ)よ泣くな」、「園の春の歌」などを歌ったりしました。その歌を聞いたお父様の表情は大変喜ばれているようでした。

李奇完(イ・ギワン)勧士(クォンサ)も時々来ました。李奇完さんは、お父様が下宿されていた黒石洞(フクソクドン)の宿の主人の姉でした。この方は金百文(キム・ベンムン)氏に従っていた方でしたが、お父様の御言葉を初めて聞いた時、「この方は、韓国の偉大な復興師になるだろう」と思ったと言いました。

ところである日、お父様が祈っている姿を見て深い感動を受けました。お父様がどれほど涙をたくさん流しながら祈られたのか、その姿を見ても感動と恩恵を受けたとのことでした。そして、後で祈られた場所を見ると、雑巾で拭かなければならないほど涙が一面に溜まっているのを見たというのです。それで、自然に頭が下がり尊敬するようになったと言いました。

お父様は当時高校生だったので、学校に早く行かなければなりませんでした。それで李奇完(イ・ギワン)さんは、最初にお父様のご飯をよそって、それを持っていって差し上げたということです。夫が見ると誤解されやすいことでした。たとえ、お父様は十代後半の少年であり、李奇完さんは三十代の主婦だったとしても、格別に世話をし、侍ることはおかしなことだったのです。だから夫に虐待もたくさん受けて、棒で殴られた日もあったと言いました。

ボンネッコルの土塀の家の時代には主日(聖日)礼拝をしましたが、特別な形式はありませんでした。ある日は誰も訪ねて来なくて、お父様を中心に玉世賢(オクセヒョン)オモニと金元弼(キムウォンピル)先生そして私の四人で礼拝を捧げた日もありました。そんな日は我知らず力が抜けました。世界の人類を救う真理の御言葉であるなら訪ねて来る人が多くなくてはいけないのに、三、四人が座って礼拝を捧げるので、果たしてこの御言葉でキリスト教の統一、世界統一が成されるのだろうかという思いがする時もありました。

家庭的苦難の十字架

1952年11月中旬、秋の終わり頃でした。その日はひどく寒かったです。顔が白くて綺麗な30代の若い婦人が一人の男の子を連れてボンネッコルの土塀の家を訪ねて来ました。その若い婦人は、灰色の孔雀ニットのセーターに紺のズボンを着て運動靴を履いていて、男の子は、五色の服をきれいに着ていました。

包みを一つ持っていたのですが、とてもこわい雰囲気でした。来るやいなや、靴も脱がずに部屋の中に入って行き、お父様に向かって語調を高めながら自分が生きてきた恨みをぶちまけました。その方が崔先吉(チェ・ソンギル)夫人でした。7歳の息子を連れてお父様を訪ねて来たのでした。

崔先吉(チェ・ソンギル)女史

話す内容を聞いてみると、7年の間一人の息子を育てながら、いろいろな苦労を極めたようでした。大事な息子を良く育てようと商いまでしたという話を聞いて、私も心が痛みました。そうであってもお父様が無事に生きていながらも手紙を一通も出さなかったことがわかったので、同情されてあまりある状況でした。そんな様子だったので、誰もが崔(チェ)女史を落ち着かせることはできませんでした。

私は、お父様が、息子が一人ソウルにいると言われたことを聞いたことがありました。しかし、そのような状況が起こるとは想像もできませんでした。目の前が真っ暗になるような感じでした。

崔女史が来たので、私はもはや小さな土塀の家でいっしょに過ごすことができなくなりました。私はその日のうちに近くに住んでいた食口のおばあさんの家に行って寝ました。

しかしその家でも長くお世話になることはできないので、故郷の家に帰ることになりました。当時家は榮州(ヨンジュ)から店村(ジョムチョン)に引っ越しをしたので、店村の田舎の家に帰りました。しかし、どこに行って誰に会っても、神の御心を知っている人に会うことができず、探すこともできませんでした。寂しく苦しい日々を過ごしました。

その後、お父様から何回か手紙をいただきました。内容は、二千年前にイエス様も家庭的に困難な問題を負って言葉に言い表せない苦衷(くちゅう)を経験したのですが、お父様もそのような道を歩んでおられるという内容であり、神の御旨は必ず成されるので、遠い後日を思いながら我慢して行こうという内容で、励ましの手紙でした。そして釜山に来ないで熱心に伝道するようという内容でした。

しかし、封筒の住所がボンネッコルではなく、水晶洞(スジョンドン)になっていました。私がいない間に、明らかに何かあったという思いになり、これ以上じっとしていることができなくなりました。お父様がどれほど多くの苦衷(くちゅう)の中におられるのかが心配にもなり、お会いしてお話を聞けば、詰まった心が少し安らかになるだろうと思いました。

1953年1月にお父様にとても会いたくなり、店村(ジョムチョン)から尚州(サンジュ)までバスに乗って行きました。尚州(サンジュ)から汽車に乗ろうとすると、第二次緊急通貨金融措置(そち)、すなわち、第二次貨幣改革が起こりました。戦争中に乱発された通貨による物価上昇を抑えるために100ウォンを1ファンに改革するというもので、汽車の切符を買うことができませんでした。それで、家に再び戻ってきました。

旧暦の1月6日(陽暦2月19日)、お父様の誕生日のときは必ず行かなければならないと考え、餅を前もって準備してその前日に釜山へと発ちました。2月なので気候がとても寒かったです。そのときは店村(ジョムチョン)から金泉(クムチョン)までバスに乗って行って、金泉(クムチョン)から釜山(プサン)行きの汽車に乗りました。

しかし、汽車が遅れて釜山に到着した時はすでに夜12時が過ぎた時刻でした。通行禁止時間だったので、駅員が手のひらに大き目の判子を押してくれました。釜山鎮(プサンジン)駅からボンネッコルまではかなり遠い距離でした。

水晶洞(スジョンドン)は初めて行くところなので、地理も分からず、既に通行禁止時間だったので仕方なくボンネッコルに向かいました。釜山鎮駅から凡一洞(ボムイルドン)までかなり遠い距離でした。トランクを一つ持って徒歩でやっと土塀の家に到着しました。お父様がひょっとしておられないかと思って行ったのですが、おられませんでした。

行ってみると土塀の家は崔女史だけが住んでいました。部屋に入ることができなくて、部屋の前に張ってあったテントに入りました。台所として使用するところでしたが、そこでその夜を過ごして朝に水晶洞(スジョンドン)に行かなければならないと思っていました。ところが、その夜はとても寒くて、足が凍えて耐えることができませんでした。結局足をばたばた踏みならし、その夜を明かしました。

そしてその夜はまた、生まれて初めて、口にすることもできないひどい悪口をたくさん言われました。私が店村(ジョムチョン)に帰った後の崔先吉(チェソンギル)夫人は心が穏やかでなかったようでした。7年間苦労の末に探した夫でしたが、お父様は家庭を顧みられるよりも神を愛し、神の御心を成すことに狂っておられたので、さらに多くの苦衷を味わったようでした。お父様を夫として、また子供の父親としてのみ考えようとしていた崔(チェ)女史でしたから、その凶悪さは時間が経つにつれ、ひどくなるばかりでした。結局、お父様は水晶洞(スジョンドン)に身を避けられ、崔(チェ)女史はお父様がどこにおられるのかも知らずにいる状況でした。

そのような状況に私がお父様にお会いしようと訪ねて来たのですから、どれほど怒りがこみ上げたでしょうか。私はキリスト教の家庭で育ったので一度もののしられたことがありませんでした。親が私を育てるとき、「このアマ!」というような言葉を一度も聞いたことがありませんでした。しかし、崔女史は私に、ボンネッコルに到着して早朝四時に通行止めが解除されてそこを離れるまで、四時間あまりずっと絶えることなく罵倒を浴びせました。

崔女史は、お父様がどこにおられるのか分からずもどかしいので、なおさらそのようでした。私にお父様をどこに隠しておいたかと、いくら探してもどこにいるか知ることができないと、すべての悪口という悪口を言い尽くしました。

私はマタイの福音書5章10節「義の為に迫害を受ける者は、さいわいである、天国は彼らのものであるからである。わたしの為にあなたがたをののしり、また迫害して偽りであなたがたを逆らって、すべての悪の話をするときには、あなたがたにさいわいである、うれしがり喜べ。天からほうびを受けるものが大きい」という言葉を思い出しながら何も答えず、ひどい罵倒に堪(た)えつつ、黙々とテントの中で夜を明かしたのでした。

通行禁止解除時間である四時に、そこを去って凡一洞(ボムイルドン)バス停で水晶洞(スジョンドン)行のバスに乗りました。ところが、早朝に若い女性が大きなトランクを持って降りてくるのを派出所の警察官が見つけて、後をついてきました。水晶洞(スジョンドン)で降りたときに、その警察官は私を見て派出所に行こうと言いました。仕方なく警察官の後について派出所に行きました。

その後、警察官は私の身分を知ろうとカバンをひっくり返しました。私はそのときとっさに、お父様が送ってくださった手紙をコートのポケットから取り出し、袖の中に隠しました。もしかしたらコートのポケットから手紙が見つかった場合、何か面倒なことが起こるかもしれないと思ったからでした。警察官は神学校の学生証、住民登録証を見て疑いを解きました。荷物をひっくり返しても聖書と賛美歌しかないので、これで帰りなさいと解放してくれました。
派出所を出て水晶洞の住所を持って家を探しましたが、到底見つけることができませんでした。仮屋住所だけなので見つけること自体があまりにも困難でした。この路地、あの路地と、通りながら聞いてみたのですが、みな知らないと言いました。

ホサナ、新しい主が来られる

切ない気持ちでしばらく歩き回っていたのでしたが、李耀翰(イ・ヨハン/李ヨハネ)牧師が現れました。李牧師は私を見て大変喜びました。
李牧師が私をお父様がおられる家に案内してくれました。その家の近くを何度も行ったり来たりしたのですが見つからなかったところでした。到着してみると朝10時頃でした。

そこもやはり二坪にも満たない粗末な部屋でした。水晶洞(スジョンドン)の裏山の下に位置しており、多くの避難民と貧民が住んでいる町でした。その家には、お父様と金元弼(キム・ウォンピル)先生、玉世賢(オク・セヒョン)オモニ、李耀翰(イ・ヨハン)牧師そして李スッキさんという食口が一緒に住んでいました。李スッキ食口が朝食を作ってくれて、それをいただきました。お父様の誕生日を祝賀するために持って行った餅を差し上げるとお父様はおいしいと言われながらたくさん召し上がりました。

私はお父様にその間伝道しながら起こった出来事と書いておいた文を報告しました。1953年2月8日の主日に、私一人で御旨を知っていることがあまりにも切なく、このように書いておいたのです。

「私の生きるすべての中心と目的は、御旨の為の生活を願います。
神様の御旨が地に現れ、父が望まれるその世界、今日も目の前に描いてみると
望みはさらに大きくなります。ああ、遠くおられる栄光の主が今日も慕わしくなります。他の人が知ることのできないこの道、栄光の勝利を願って歩いて行く私自身が
もっと力強い歩みをして御旨を実現しなければなりません。
宇宙の万民たちが私の知っている世界を求めて信じるときには、
それはどれほど喜び、嬉しがるだろうか?
今、私は本当に孤独で寂しいです。
しかし、真のお父様を私が見てみると、ハレルヤ、栄光だ!
私の願う望みを、天の父よ、成して下さい。
父よ、私から離れたら、私は生きることができません。
この世の汚い人間的愛、また世俗的な愛を私は望んでいません。
神様の愛を味わい、天の一筋の命ある愛を受けようとしますので、
この愛が私の命となり、私の所望(しょもう)となっていく将来に
光明(こうみょう)の光になってください!
険山峻嶺(けんざんしゅんれい)のような困難な十字架の苦痛を
感謝することで克服することができるようにして下さい!
十字架で勝利された主よ!十字架の苦難に私も同参させて下さい。アーメン!」

私はあまりにも切なくてこのように一人で文を書きながら、神様に訴えましたとお父様に報告しました。
そして烏川(オチョン)に住んでいたある勧士(クォンサ)の話もしました。

慶尚北道(キョンサンプクド)山陽面(サニャンミョン)烏川(オチョン)に住んでいる勧士(クォンサ)が一人がいました。私はその方を烏川(オチョン)オモニと呼びました。私はその方に神の摂理がどこで、誰を中心として、どのように成されるのかを話しました。すると、烏川(オチョン)オモニが祈りの中で直接、「ホサナ、韓国の地に主が来られる。天が低くなり、地が湧き、ホサナ、新しいエルサレムが韓国でなされますように」との啓示を受けました。烏川(オチョン)オモニはこのような内容を話しながら、「神様は私だけを愛してくださっていると思ったのですが、私より姜伝道師をより愛して下さるようです」と私のことを証ししてくれました。

その話をお父様にご報告するととても喜ばれました。「賢實(ヒョンシル)があまりにも寂しがるから、神様が証ししてくれる役事をされたんだな」と言われました。そうして、「神霊の高い人、また、霊通した者たちは私達の側であり、私たちを証しするだろう」と激励してくれました。

また、私は烏川(オチョン)オモニに、主がどのように来られるのか祈祷してみなさいと言いました。祈祷の後、烏川(オチョン)オモニが答えるには、「主は既に来ておられるが、このことを姜伝道師は既に知っているのである。韓国の地に主は既に来られ、闇の谷に主の明るい光がさしてくるだろう、と答えがきました」と自信を持って「既に来られた」と言われました。

この報告を受けたお父様の表情が非常に明るかったです。このような報告を、午後四時まで六時間ご報告しました。報告をすべて聞いた後、お父様は、「この世は暗く、知ることができないが、霊界はみな知っている。特に霊通する人々は自分でもわからず、また何を意味するのかも分からないが、この御旨を認めているので勇気を失わずに戦おう!」と話してくださいました。

第一章  成長と入教

その6  崔先吉女史と痛哭のアリラン峠

迫害と嘲笑を耐え

午後4時頃でした。お父様が、「私は裏山に登り、風にちょっとあたってくる」と言われて家を出られました。李スッキさんと私は夕食の準備をしようと、米を洗っていました。そのとき、憲兵隊の軍人二人と玉世賢(オク・セヒョン)オモニの息子、そして崔(チェ)女史たちが突然やって来ました。

憲兵隊の軍人二人はカーキ色の服を着ていました。彼ら一行は、入るとすぐに命令調の言葉で私たちを部屋に押し入れました。玉世賢(オク・セヒョン)オモニ、スッキさん、そして私が部屋に押されて入りました。その部屋に火をつけてやると言う崔(チェ)女史の声も聞こえてきました。また、ある人はお父様の聖書をビリビリに引き裂きもしました。

その部屋の中はあっという間に修羅場になってしまいました。そして崔女史は台所道具を全部投げ出しました。茶碗、米びつ、さじ、おけなどを投げて、声を出して騒ぎました。

その声を聞いて丘の下に住んでいた多くの人が見物をしようと集まってきました。私は心臓が弱いのか、あるいは信仰が心の中心に立っていないからか、とても震えました。そして、いろいろな考えをしました。「これですべてが終わるのではないか」とまで考えました。

私は、憲兵隊の軍人にトイレに言って来ると言ってこっそり外に出ました。お父様はどこにおられるのか、山を見上げてみましたが見えませんでした。それで、山に少し上ったのですが、周囲が暗くなって怖くなったということもあり、そのまま下りてきました。水晶洞(スジョンドン)の道を下って行くのですが、足がとても震えて、まともに歩くことができませんでした。

私はその時、イエスを信じる道がこんなに難しいならば、誰がこの道を行くことができるだろうかという思いになったりしました。ちょうど橋を渡ったところで、金元弼(キム・ウォンピル)先生が現れました。金先生は私の手をぎゅっと握りながら、「いつ来ましたか」と尋ねました。「きのうの夜に来ました」と言ったら、「玉世賢(オク・セヒョン)オモニが水晶洞(スジョンドン)電車停留所で待っているのでいっしょに行きましょう」と言いました。

そして、「私たちはしばらく身を避けるためにお金が必要になるでしょう。集めたドルを戸の枠の上に隠しておいたので、私が家にしばらく立ち寄って、そのお金を取って来ます」と言ってボンネッコルの家に向かって上がっていきました。金先生を待っている間も、私はもしかしたら憲兵隊と遭いはしないか胸が震えました。しばらくして、金元弼先(キム・ウォンピル)生が手ぶらで帰ってきました。その家の周りは憲兵隊たちが守っていて、中に入ることができなかったと言いました。

結局私と金先生は電車の停留所に歩いて下りました。そこには、玉世賢(オク・セヒョン)オモニが一人で哀れに立っていました。10分ぐらいして李耀翰(イ・ヨハン)牧師が伝道から帰って来ました。私たち一行四人は、どこに行こうか迷いました。行くところが何処にもなかったからです。

しばらく考えた末に、金ソンシルさんの家に行くことにしました。その金ソンシルさんは李耀翰(イ・ヨハン)牧師から御言葉を聞いていたのでした。ソンシルさんの家はヨムジュドンにあったので、私たちは電車に乗ってソンシルさんの家を訪ねました。その時は避難時代だったので厳しい生活をしているときでした。ソンシルさんの家は日本式の家の一部屋で、横に細長い廊下がありました。

私たち一行は、そこで一夜を過ごしました。狭い廊下だったので、足を伸ばすこともできないところでした。そこで私たちはうずくまって夜を明かしたのです。夜を明かしながら私は、「お父様が本当に再臨主として来られたのなら、遠い後日になれば今日の出来事を歴史が証しするだろう。お父様がどれだけひどい反対と迫害を受けたのか歴史は知っている」と思いました。その夜、私たち一行の心情と表情は憔悴(しょうすい)するだけでした。

一方、お父様は山でその日の午後の状況をすべて見ておられたと言われました。状況を見ながら、「(彼らの探している)張本人が私なのだから、私が下りて行かなければならない」と考えられ、山から下りて来られました。家の中はお化け屋敷のように多くの物が散らばって壊されていました。憲兵隊要員たちは、お父様を引っ張って水晶洞(スジョンドン)の近くにある東部警察署に行きました。

そのとき、李スッキさんが一緒にその後を追って行ったのですが、崔(チェ)女史が歩いておられるお父様の横で、お父様に向かって大声でひどい罵倒を浴びせたということでした。道を歩いていた人々も、その声に驚いて足を止めて振り返るほどだったといいます。その声を聞いた人なら誰でも、「あの男がどんな罪をどれほどたくさん犯して、あの女性にあのようにひどい悪口を浴びせられるのだろうか?」と思ったことでしょう。お父様は何も言わず、その侮辱をそのまま耐えられました。

人類を救うために来られたお父様がそのように嘲笑を受けられたということを考えると、遠い後日に人類は痛哭(つうこく)しなければならないでしょう。そのとき、お父様は家庭的な十字架によりひどい迫害を受けておられ、社会から嘲弄(ちょうろう)を受け、悪口を聞かなければならないのでした。

東部警察署に到着して取り調べを受けましたが、ちょうどそのとき、警察署に金ウォンドゥクさんが勤務していました。金ウォンドゥクさんはお父様が興南監獄におられた時、いっしょに収監されていた囚人だったのですが、お父様の御言葉を聞いて伝道された人でした。金ウォンドゥクさんは、お父様が普通の方ではないことを知っていたので、事件の本質を正しく知り、うまく処理してくれました。その事件を家庭的な問題だと整理し、お父様を警察署の宿直室に迎えて一晩寝させて差し上げた後、次の日に帰られることができるようしたのです。

翌朝、金元弼(キム・ウォンピル)先生は職場に出かけ、李耀翰(イ・ヨハン)牧師は伝道に出かけました。私は再び水晶洞(スジョンドン)へ行きました。「家がどうなったか、事件がどのように結末が出たのか行って見なければ」という気がしたからです。

午前11時ごろ、水晶洞に到着すると、お父様が家におられました。家に入ろうとする私を見て、お父様は聖進(ソンジン)母子がここに来ることになっているから、この場を早く避けるようにと言われました。その言葉にとても驚いた私は、他の所に逃げなければならないと思い、その家を出ました。

その瞬間に家に入って来る崔(チェ)女史と出くわしてしまいました。崔(チェ)女史はいきなり私の頬を叩きました。「この気違い女がここまでついて来たか!」と言いながら、口にすることができないひどい悪口を浴びせ始めました。それとともに全身を叩き始めました。

私はその場所からやっと逃げて、水晶洞(スジョンドン)の家の裏にある丘の上に上がっていきました。心臓が震えてめまいがしました。やっとのことで丘の上に登って見ると、下の方の麦畑に麦が青くつんつんと伸びているのが見えました。冷たい風が吹き、私の心はあまりにも苦しくて重かったのでした。

私は、「神様は、これが神様の御意志であれば私をして度胸と勇気を持たせて下さり、これよりもっと大きな試練が私にやって来たとしても、喜びの心で勝利するようにさせて下さい。御心でないならば、行く道をふさいでください」と神様に祈りを捧げました。

12時をはるかに過ぎて金元弼(キム・ウォンピル)先生が私を訪ねてきました。「賢實(ヒョンシル)さん、家に行きましょう。崔(チェ)女史が悔い改めましたよ」と言いました。しかし、その言葉を信じられなくてしばらくそのまま座っていました。どのくらいの時間が経ったでしょうか、心が落ち着いた後、金先生について下っていきました。到着してみるとお父様は崔(チェ)女史にたくさんの御言葉を語っておられました。その貴い御言葉に崔(チェ)女史も感動し悔い改めながら、「私も今から一食口になり、この道を行きます」と屈服するようになりました。

痛哭(つうこく)のアリラン峠

お父様は私が帰って来たことを見られるや崔(チェ)女史に向い、玉(オク)オモニと私に、「申し訳なかった」と許しを乞うように言われました。崔(チェ)女史は自尊心のせいでためらうようすでしたが、結局、私たちに申し訳なかったと言いました。

お父様は、「聖進(ソンジン)オンマは玉世賢(オク・セヒョン)オモニに対し、娘の立場でよく仕え、姜賢實を妹のように対しなさい。玉世賢(オク・セヒョン)オモニは、聖進(ソンジン)オンマを娘のように考え、姜賢實は聖進オンマを姉のように思わなければならない」と言われました。その時私には、さまざまな考えがよぎりました。「崔(チェ)女史は本当に哀れな方であられる。夫であるけれど夫として考えることができず、一食口の立場で師匠として仕えなければならないので、ある面で本当にけなげな方だなあ」という思いになり、私は崔(チェ)女史に頭を下げました。

そして、お父様は祈られました。「神様、復帰の道は恨(ハン)の多い道であり、血と汗と涙で綴(つづ)られている道であることをまた今更のように感じています。この御旨を成しておかれるために、父は六千年を一度も休まずに痛哭しておられ、切なく探し求めて来られた道であることを、この小子(しょうし/自分をへりくだっていう語)はあまりにもよく知っています。この小子に多くの期待をかけられ御旨を成してくれと願われたその御言葉を、私は記憶だけするのではなく、きっときっと成して差し上げます。その昔、この小子をつかんで哀願され付託された言葉を私は忘れずに守りますので、父よ、慰労を受けられ、私を信じて下さい」と心からこみ上げる懇切な祈祷を捧げられました。

その祈りは、お父様の血と汗と涙で染まった心から湧き出る痛哭の祈祷でした。私もそのとき、痛哭して泣きました。私だけではありません。玉世賢(オク・セヒョン)オモニと金元弼(キム・ウォンピル)先生も泣いて、涙が川を成すようでした。

台所には、まともな器一つ残っていませんでした。金元弼(キム・ウォンピル)先生が弁当を包んで持って行くときの弁当箱だけがまともでした。それで、弁当箱の蓋にパンを入れて祈った後、新たな出発を記念して分けて食べました。そのときのことが今でも生生しく思い出されます。

お父様はそのとき崔(チェ)女史に、この道を共に行くと心から決心しなければならないと強調されましたそして、一番重要なことは、崔(チェ)女史も食口としてお父様を信じて侍り、敬い、仕えるという気持ちを持つべきだと言われました。それは、崔女史に最も越えにくい峠であったし、責任分担であり宿題でした

後で聞いたらボンネッコルの家にいた時、近くに別の家を借りて礼拝をしていると、崔(チェ)女史が便所で人粪を汲み上げて撒いたこともあったということです。その話を聞いて、「この方が反対をしたけれども、それが普通のやり方ではなかった。それほどひどくお父様を愛したのだなあ」と思いました。お父様がその方の愛に応えてあげたなら問題がなかっただろうに、神を愛し神の御旨を成し遂げるために生きられる方なので問題が続けて生じたのでした。

しかし、その瞬間には、崔(チェ)女史も確かにこの道を行くと、三人以上の証人の前ではっきりと約束をしました。お父様は、誰よりも崔(チェ)女史が天の御旨を成すために一食口になると誓ったのを見て、あまりにも感心され満足されているかのように見えました。その後、崔(チェ)女史は、ソウルに荷物を取りに上がってから二週間後には帰って来ると約束して上京しました。

崔(チェ)女史はソウルから荷物をもって釜山に来ました。しかし、長い年月の間一人で息子を育てながら不安で憂鬱だったのか、朝に夕に心が変わりました。お父様が少しよく対して下さると少しばかり良くなるのですが、お父様が誰かに会いに外に出られて食口たちと長い時間過ごされたり、自分が疎かにされているという感じがしてくると一人であれこれ考えながら、心が180度変わってしまうようでした。

詳しい話は全部できませんが、あるときには、崔(チェ)女史自身の心ではないかのような常識以外のこともしました。お父様は私に姉と妹のように過ごせと言われたので、崔(チェ)女史の洗濯もしてあげ、親しく過ごそうと努力しました。しかし、崔(チェ)女史は私たちの教会の食口になるということが難しいようでした。礼拝に出ても、常に隅に一人で座っていて、誰とも話をすることもなかったのでした。

その年の冬に、私は大邱(テグ)の開拓に行ってから、12月に釜山に一時帰ったのですが、その時も私を見るやいなや台所にあった薪で私を叩き始めました。私はあちらこちらに逃げてみようとしましたが、仕方なく何度か打たれました。さらに私を見て、「不倫女」と言いながらひどい罵倒をたくさん浴びせました。

そのため、「この方はなかなか心が安定できずに、まだこうしているんだな」という思いをしました。朝には悔い改め、夜はまた人々に乱暴を振るうというように心が変わりました。おそらく、自分の心ではないようでした。特に若い女性たち、自分より年齢が低い女性にはよりその傾向がありました。私はボンネッコルの家のときから知っていただけに、見るたびごとにより腹が立ったようです。

その後は、長い歳月が経って1970年代に一度会ったことがありますが、そのときは心がとても安定していて、お互いに和解をしました。

第一章 成長と入教

その7 お父様からの試験

水晶洞(スジョンドン)教会の出発

水晶洞(スジョンドン)の家は裏山のふもと、貧民が住んでいたところにありました。路地から出てくる人の姿もみすぼらしくて、私の心まで憂鬱になったりしました。その事件以来、近所の人の視線が常に私たちに集中していました。近所の奥さんたちが、私たちの家のことを「けんかする家」と通り過ぎながら指を指しました。なので家を出るときは頭を下げて出て、人々が集まっている所は避けて通っていました。私を知っている人がいない市内に出ると、心が楽になりました。

(しかし)たとえ生活は困難であっても、「釜山の水晶洞の谷間に、神様の六千年摂理の御旨と目的を成すために来られたメシヤがおられる。人類の生命を救う根本であられるメシアが避難民の中で一緒に苦労するのは、天宙の恨(ハン)を解くためであり、神様に真の孝子の道理を尽くして神様を慰労するためである。このような貴い御旨を先に知ることになってどれほど感謝なことか!」という思いをもちました。

ある日は、伝道をしに市内に行って帰って来たら、お父様が非常に沈鬱(ちんうつ)な表情で座っておられました。顔色がとても良くないので心配をしていたところ、隣の部屋の家主の婦人が昼間に起こったことを話してくれました。玉世賢(オク・セヒョン)オモニの夫であった禹(ウ)長老と息子がここにやって来たと言うのです。父子の二人はお父様に向かってあらゆる罵詈雑言をすべて浴びせ、お父様の胸ぐらをつかんで頭を壁に叩きつけたと言いました。お父様がその父子にさんざん殴られたと、家の部屋の主人が教えてくれて、涙があふれました。

当時のお父様は、神の御心を成すために、あまりにも悔しい仕打ちをたくさん受けられ、数多くムチ打たれました。なにせ従う食口が少なく、力なく、孤独で寂しいときだったので、口があっても話すことができず、耳があっても聞くことができず、目があっても見えないような生活をされたのです。お父様は誰かがやってきて乱暴を振るい暴力を行使しても何の言葉も話されず、黙ってその悪口を聞きながらじっとそのむちをすべて受けられました。いかなる弁明もされずに座っておられるお父様を見たとき、私は心が痛く、心臓が張り裂けるようでした。

お父様の心臓も焼け焦げていたはずです。返したいお言葉がなぜなかったでしょうか。
しかし、何の言葉も言われず、静かに首をうな垂れて座っておられるのでした。

しばらくして崔(チェ)女史がソウルから荷物をまとめて釜山に下りてきました。家が狭すぎて生活しにくかったので、水晶洞(スジョンドン)に部屋二つの家を一つ買いました。金元弼(キム・ウォンピル)先生が絵を描いて貯めたお金で工事をして、部屋をもう一つ増築しました。

そういう仕事は李ボンウン長老が主に任されてしました。李ボンウン長老は、済州島(チェジュド/さいしゅうとう)にいるときに精誠を尽くす生活をして霊的に啓示をたくさん受けた方です。その後、霊的に、「姜長老の娘」という若い女性が前掛けを着て台所で働くのを見たと言い、後で釜山に来てみたら、その姜長老の娘という若い女性がまさに私だったと話してくれたことがあります。

引越した水晶洞(スジョンドン)の新しい家から復帰の歴史が始まりました。主日(=日曜日)の昼の礼拝を行ったとき、意外に多くの人々が集まって礼拝をささげました。たくさん集まるときには20人余りも集まりました。お父様は賛美歌に酔いながら歌われ、説教の御言葉にも酔いながら話されました。神様が話されたかった内容をお父様が代わりに伝達されたので、礼拝の雰囲気はいつでも恩恵があふれました。本当に生きておられる神様に心と精誠を捧げて行う礼拝でした。深い境地に到達したときには、食口たちが立ち上がって踊りを踊りました。時折、「エデン復帰!」と大きく叫ぶ食口もいました。皆が神様に喜びで応じる礼拝の雰囲気でした。

そんな雰囲気だったので、ある食口は異言を語り、ある人は幻想を見、ある人は直接的に啓示を受けたりしました。自分を忘れて無我の境地で礼拝を捧げました。

試験に落第を重ねる

1953年3月の末ごろに引越しをした後、私は7月19日までその家で生活しました。その家は水晶洞(スジョンドン)の裏山のふもとの丘の上に建っていました。そこは高い所なので、水道の水が出なかったし、水道施設もありません。それで井戸水を使わなければなりませんでした。その時私は、台所家事のすべてを任された仕事をしており、またほぼ毎日釜山市内に霊的な人やよく信じる人々を訪ねて御言葉を証しする生活をしました。その生活はあまりにも重荷でした。

毎日夜12時になると水がめで水を汲み始めました。夜でなければ、水を汲むことができなかったからです。夜も多くの人々が水がめを並ばせておいて立って待っていました。その時に水晶洞の家に住んでいた食口が十五人ほどでした。また、御言葉を聞くために訪ねてくる人もいました。それで、水がたくさん必要でした。普通、夕方に水を汲み始めると、20回は汲まなければなりませんでした。20回汲もうとすると3時間かかりました。ある時は水がめを頭に載せて坂道を上りながら、滑って水を全部こぼしてしまう時もありました。するとチマ、チョゴリ、下着まで全部濡れました。どれくらい大変だったか、私の体は痩せていきました。自分の力をもっては耐えることができないことをしたからです。

ある日は、市場に行ってお米を二俵買いました。昔は米の籾殻(もみがら)があまりにも多く混ざっていたため、ざるで籾殻をあおって取らなければならなかったのでした。二つの米俵をそのようにするには、朝から夕方まで時間がかかりました。そんな日の夜には腕がとても痛くて、髪にも櫛(くし)を入れることができないほどでした。

それでもお父様は私にあまりにも多くのことをさせられました。そのとき、お父様が私を叱られたことはいまだに生生しく思い出されます。「この家は、父なる神様に侍る家である。寺に仏を祀(まつ)っておく家も、ほこり一つ見つけることができないほど綺麗ではないのか?父なる神に侍る家がなぜこのように綺麗でないのか!」と叱られました。

ある日は、私をトイレに連れて行き、トイレの上に蜘蛛の巣とほこりがたくさんたまっているので綺麗にするように言われながら、「どうしてこんな家に神様が訪ねて来られるか」と心配されたりもしました。他の食口たちに向かっては何のお言葉もないのに、ただ私さえ見られればそんな心配をされ叱ったりされました。

ある日はお客様のゴム靴を全部洗って置くように命令されたりしました。私は心の中で、「水を汲むことがどれほど大変でつらいか、なぜあのように命令されるのだろうか?再臨主に侍ることが全くつらい道であるな」という思いもしました。

その当時のお父様は何回か私を試験されました。しかし、私はそのつど試験であることがわからず、すべての試験に落第をしてしまいました

あるとき布団を縫う大きな針を持って来られ、私に手を伸ばしていなさいと言われました。私は「もし、お父様がこの針で私を刺したら痛くてどうしようか?」という考えが先んじて手のひらを開いたりすぼめたりを何回かしました。するとお父様は、「私がおまえを刺すと思うか?私が命令することにどれほど従うかを試験してみようしたのだが、またこの試験にすべったな」と言われました。

またあるときは、洞内(=町内)の班長が砂利敷きに出て来なさいと言いました。するとお父様は、私に籠(かご)とスコップを持って外に出て砂利敷きをしてこいと言われました。砂利敷きは男だけがすることでしたが、私をして砂利敷きに出て行けと言われて、私はその時びっくりしました。当時の私は27歳の若さでした。だから、「男たちがすることを私がどうしてすることができるでしょうか」と従えませんでした。

すると、「本当に出て行かないのか?」と尋ねられました。私は出かけることもいやだし臆する気持ちで、「私は出られません」と台所に行って隠れました。するとお父様は台所まで付いて来られ怒られながら、「本当に出られないのか?」と再度尋ねられました。そのときになってやっと私は、「それでは出ます」と答えました。お父様はそして、「賢實(ヒョンシル)が砂利敷きに出て行くといっても私は行かせない。どれほど御言葉に従順であるかを試験したのに、また落第したんだなあ」と言われました。

私はお父様が私を試験されるとは夢にも思いませんでした。現実だけ考えたので、私の立場だけを先立たせ、御言葉に従順になりませんでした。あまりにも分別がなかった生活でした。ふと考えると、不信し不従順で生きてきた過去が恥ずかしく、限りなく後悔だらけです。

絶対従順の標本であった鄭達玉(ジョン・ダルオク)ヒョンニム(夫の兄嫁や姉に対する呼称。ここでは単純にお姉さんの別称)

それに比べて、当時私と一緒に生活していた鄭達玉(ジョン・ダルオク)ヒョンニムは絶対従順の標本でした。お父様もいつも達玉(ダルオク)ヒョンニムがお父様に侍って仕え従うことに絶対従順の標本人物だと言われました。達玉ヒョンニムはお父様が北韓におられた時、御言葉に初めて接しました。しかし、父と兄二人が牧師として務めるほど篤実(とくじつ)なキリスト教の家だったので、親が極度に反対しました。その家では、家の威信もあって達玉ヒョンニムにお父様のお話を聞かせまいと家の中に閉じ込めました。

いくら閉じ込めておいても達玉ヒョンニムの意地が折れなかったため、怒った父親が刀を前において「止めるか、死ぬか」と尋ねたそうです。そのように脅迫をしても行かせまいとする考えではなかったかと思います。しかし達玉ヒョンニムは刀を持って指の一節を切ってしまいました。「今、私が指を切りましたが、私をずっと閉じ込めておけば、これで死んでしまいます」と言ったということです。だから、親と兄弟が両手を上げて、勝手にしろと降伏してしまったということでした。

お父様はその話を聞いて、「鄭達玉はひどく徹した人だ」と言われました。

その年の5月でした。私は風呂に入って来て、座って頭を乾かしていました。その後、お父様が言われたのは、「達玉(ダルオク)氏。賢實(ヒョンシル)のところに行って耳をつかんでキスをしてみろ」でした。普通の人であればそのような話を聞いて笑ってしまうでしょう。ところが達玉ヒョンニムはその言葉が終わる前に私のところに来て、私の耳をつかんで口を合わせました。私はそのような状況が面白すぎてしばらく声を出して笑いました。お父様もまたいっしょに笑いました。

ある日、お父様が、「達玉(ダルオク)氏、踊りを一度踊ってみなさい」と言われました。すると達玉ヒョンニムはためらう様子もなく立ってひらひら踊りを踊りました。我たちは皆笑い袋が裂けて笑うのですが、達玉ヒョンニムは本当に真剣にお父様の言葉に従順になって踊りを踊るのでした。

あるときは、ある食口が達玉ヒョンニムにスカートの生地を買ってきました。達玉ヒョンニムはそれをお父様に持って行って、「お父様!これで外スカートにしますか、それとも内スカートにして着ますか?」と聞いてみたりしました。お父様は、「何でそんなことまで私に聞くのか?」と叱りながらも、「あのように絶対的な信仰をしている人の前に私は何をどのようにするべきか?」という考えをたくさんしたと言われました。

またいつだったか、達玉ヒョンニムの手の指先に腫れ物ができました。それで、ある日、お父様が冗談で、「どうして腫れ物がそんなに長くできているのか?その指を切ってしまえ」と笑いながら言われました。しかし、本当に達玉ヒョンニムははさみを持って来て、「どれだけ切ればいいですか」と尋ねました。お父様は結局、「達玉の前では冗談もできない」と言われながら、「達玉氏は、親よりも、子女よりも、夫よりも、兄弟よりも、財産よりも、自分の命よりも先生をより重く考え、信じて侍る者」と言われながら、満足しておられました。

水晶洞教会時代に私は達玉ヒョンニムと短い期間でしたが一緒に生活しながら、絶対的に心から神様を信じて、お父様に侍り奉る方だということを多く感じて学びました。当時の私は達玉ヒョンニムと一緒に台所でお父様の食事を準備しました。そのとき、達玉ヒョンニムの精誠は到底いい表わせません。祈りと精誠でおかずを作るのですが、おかず一つを作って食膳に置くたびに、「先生、これをおいしく召し上がって下さい」と祈りをしていたその表情は、今でも目に鮮やかに残っています。

時々、そのような達玉ヒョンニムの姿がじれったく見えるときもありました。そして、あまりにも純真なので、ちょっと柔軟性がないように見えたりしました。

達玉ヒョンニムがいつも胸に抱いていたハンカチがありました。そのハンカチを見ると時間がたっていて古びていました。しかし達玉ヒョンニムはそのハンカチをどんな宝石や宝物よりも貴く考え、いつも抱いて身につけていました。それで、私は何のハンカチですかと聞いたことがありました。そしたら達玉ヒョンニムは、「北韓で先生がくれたハンカチ」と言いながら、大変貴く思っていました。そのように絶対的にお父様を信じて侍り、仕え従うことのできた達玉ヒョンニムを大変尊敬しました。そして達玉ヒョンニムの事を思うたびに、我知らず元気が出てうれしくなり、また自分自身が恩恵を受けました。

第一章   成長と入教

その8  信仰者の十二峠

  信仰者の十二峠

▲水晶山 アンチャンマウル 統一教聖地

6月のある日でした。私は10人余りの食口たちが脱いでおいた洗濯物を持って水晶洞(スジョンドン)の裏山に登りました。干ばつが終わる頃だったので、山から出てくる水はちょろちょろと出ていました。大きな洗濯おけに鍋で水を汲みあげて洗濯をしていると長い時間がかかりました。洗濯をすべて終わって下りてくる時には、暗くなり始めていました。

ところが家に降りて来てみると、多くの食口たちがいるのにご飯を炊かないで、私が来ることだけを待っていました。その時に私は、この世で言うところのお手伝いさんのように働きました。急いで洗濯おけを置いて、薪を斧で割ってご飯を炊きました。

心は急いでいるのに、薪が濡れていて火がよく付きません。濡れた薪なので煙が出て、涙がとめどなく出ました。最終的には火が強くないのでご飯が生煮えになりました。食口たちがご飯を食べながら、「なぜご飯がこんなに水っぽいのか?米に水の味がする。おかずも美味しくないし」と一言ずつ小言を言いました。ある食口は、「ほうれん草を和える時には手でよく揉んで和えれば美味しいのに、さじでかき混ぜたのか全然美味しくない」と料理をけなしました。

そんな言葉を聞くと、私は本当に我慢できませんでした。「私がイエス様をよく信じようとここに入ってきたのに、お手伝いの役割をするのも大変なのに、横からみんな私を女中扱いして、けなすことまでするんですね。私を天国の一番いいてっぺんに座らせてくれるとしても私はもう行きません。こんなことは辞めなければならない」と言う思いになりました。

それでお父様に食膳を持って行き、「私はイエスを正しく信じ、良く信じるためにここに来ました。そして、この苦労をしながらも、神様の御旨を成して差し上げる同役者(どうやくしゃ=御旨を共にする人)になろうとしました。すべてが大変難しいですが耐えて忍びました。しかし、もう本当にこれ以上できません。一緒にこの道を行くと言いながらも、周りの多くの食口たちが私を食口として見ずに女中扱いをします。私の心を針でチクチク刺す以上に痛い思いをさせるので、私はもうこの道を行けません。今から荷物を包んで私の親が信じてきた長老派教会に戻ります」と言いました。

するとお父様は、「荷物を包んで出て行くなら包んで出て行きなさい。姜賢實がいたとして御旨が成されるわけでもなく、姜賢實がいないと御旨が成されないことでもないので、行くなら行きなさい」と言われました。私はその時、とても興奮した状態だったので、「後で私がどうなろうと、これ以上は到底私は耐えられません。先生のお言葉通り荷物をまとめます」と言いました。

すると、突然お父様がにっこり笑って、「神様は本当に姜賢實を愛しておられるんだなあ」と言われました。「周りのすべての人たちが賢實をいじめるのは自分の心ではなく、神様がさせてそのように心を痛めつけているのだ」とおっしゃいました。また、「賢實が先生に会って信じて仕えてきたその信仰の結実を成すためには、このような試験を通過しなければならない」と言われました。

神様がとても愛するのでこのような貴い贈り物を下さったのであれば、それを喜び感謝して受け取るべきで、我慢できずに不平を言うとか不満を持ったり心の中で苦しげに戦うことになれば、次にはそれよりももっと辛く難しいものが来る。誰が何をどのようにしたとしても、そのようなことがあるときは無条件にありがたく感謝する心で、神がさせたことだと理解し従うようにしなさい。そうすれば、信仰の道を行くのにすべてのことが教訓の材料となるんだよ」と言われ、「荷物をまとめて出て行くのなら出て行きなさい。いつかは包んで持って行ったその荷物をまた包んでここを訪ねて来るだろう」と言われながら、慰労して下さいました。

その日の夕方に食事を終えて、お父様はある食口にあめ玉を買って来るようにさせました。あめ一袋を前において、部屋で丸くなって座った食口一人一人に歌を歌わせました。歌を歌った後、あめを分けて下さいました。そして最後に私に祈祷しなさいと言われました。その時私は心の中で積もっていたすべてのものをみな解いて祈祷をしました。

祈りが終わった後、お父様は、「万事に感謝することができなければならない。万事に感謝するということはとても大変なことだ。人はありがたい時に感謝し、いい時に感謝するが、困難な苦境に処したときに感謝する事はとても難しい事であるから、ここにいる君たちは皆、万事に感謝することができる心を持つようにしなさい」と言われました。

私はその時お父様のお話を聞いて、「信仰の正道を求めて歩むには、こんな難しい坂や峠を感謝することで越えなければならないんだ!」と思いました。お父様は、「このような難しい峠は一つ二つではなく、越えたらより大きな峠がまた待っているので、目を覚まして祈り、精誠を込めなければ、鬼も知らないうちにサタンの餌食になってしまう」と言われながら、「アリラン峠は十二峠だというが、この時代に真の信仰者が越えなければならない峠は十二峠よりもっと多いことを知って行かなければならない」とお話して下さいました。

私たちが生きていれば、常に私は善なる立場、正しい立場だと思う時があります。しかし、実際には是非を分けない方がいい場合もあります。私は他の人たちに、その場で是非を分けるよりも三日の間祈祷をしてみろと言います。祈祷をすれば、いつも問題は自分自身にあるということがわかるようになります。私が相手におかしな思いを抱いていたことが問題だということを悟るようになるのです。私が悔い改めをしてみると、相手には何の問題もありません。

その時、お父様は私をたしなめながらも憐れんで、心情的に収めて下さろうとあめ玉の宴(うたげ)を開き、より高い信仰の段階へと導いて下さいました。そのようなお父様の御言葉により、私は悟ったのでした。

水晶洞(スジョンドン)教会時代、私は有名な牧師と霊的な人たちに会いました。お父様は、霊的に啓示を受ける人たちにお父様がしておられることについて伝える事を望んでおられたからです。

当時のお父様は、多くの人々に御言葉を伝えなければならないという考えを非常に切実に持っておられました。それで、霊的に啓示を受ける人がいるという噂を聞くと、私に訪ねてみなさいと言いました。チャ・ヨンウン先生にも会い、金ダルヒャン伝道師にも会いました。金ダルヒャン氏は私とお父様が一緒に訪ねて行って御言葉を伝えた時に非常に喜びました。御言葉をすべて聞いた後、彼はお父様を食事に招待したいと言いました。それでお父様と私は彼の家に行って、非常に良い接待を受け、また、御言葉を伝えることもしました。

韓ミョンドン牧師も訪ねました。お父様も一緒に行かれ、お父様と韓牧師の二人が直接会いました。しかし、お互いに話が合いません。韓ミョンドン牧師は、殉教的信仰生活をし、釜山で最も尊敬される牧師でしたが、保守的で伝統的な神学観に立脚して語りました。なのでお父様が原理を持って話をすることを一つも受け入れることができませんでした。お父様が情熱を尽くして神様の御旨を伝えられたのですが、韓牧師は、お父様を話にもならない異端であるとだけ言いました。

最も記憶に残ることはチャ・ヨンウン氏に会ったことです。チャ・ヨンウン氏は、終戦後、北側から韓国に下りてきた人で、南下するときに神様の直接的な導きを受けたと言いました。昼は雲の柱、夜は火の柱で導きを受けた特別な心霊の持ち主で有名でしたが、当時は釜山の草場洞(チョジャンドン)に来ていました。

お父様はチャ・ヨンウン氏を何回か訪ねて話をされました。そのうちの三回は私も一緒に同行しました。お父様が一度、三時間御言葉を語られたのですが、清山の流水のように心に溜めていた御旨を広げて見せられました。しかしチャ・ヨンウン氏は、大きな反応がありませんでした。私は、「チャ・ヨンウン氏にも神様が役事して下さって、天の御旨が分かるようにして下さい」と心で祈りました。

「どのような意味があるのかはわかりませんが、先生が直接訪ねて行ってお話されるのを見ると、神様が愛しておられる娘であると分かります。この方に直接現れて、神様の真の御旨を示してくださり、教えてやってください」と言いながら熱心に祈りました。

三回も訪ねて御言葉を語られた後、お父様は、「これで私のするべき責任は果たした」と言われ、それ以後は訪ねられませんでした。

お父様は、「神霊的な生活の中で、神様の直接的な導きを受けて生きてきた彼らには重要な責任がある。終わりの日に彼らがするべき責任を果たさない時は、何十年の恩恵の生活をして来たことが、一日で水泡(すいほう)に帰(き)する」と言われて、一人の命を宇宙よりもより貴く思いながら、恩恵を受けた人々を探し求められました。貴い恩恵の中で生活してきた人々が、最後の時に信仰生活の有終の美をよく刈り取れるように、至誠(しせい)を尽くされたのです。そのようにお父様は、何十年、彼らが積んできた功績を神の側で刈り取ってあげるため努力されました。

水晶洞(スジョンドン)のお父様の生活は祈祷と精誠の連続でした。食口たちが訪ねて来ない日は遠くの山を眺められながら、小さくは私たちの国と私たち民族の為に、それからキリスト教界の為に祈祷され、大きくは人類の救いと神様の御旨の為に祈祷されました。神様の染み付いた恨(ハン)を考え、どのようにすれば御旨を成事(せいじ)させることができるのかを考えられ、その重い荷物を一人で耐える為に祈祷された生活の連続でした。

お父様は、神様に向かった精誠では、世界のどの誰にも負けない、世界のどこにも見ることのできない精誠を込められた方です。いつもお父様の主体であり、為に生きる主人は神様であられました。もしかして神様を寂しくさせはしなかったかと心配され、いつも薄氷を歩いて行かれるような慎重な生活をしておられた姿を横で確然と見ることができました。

そして食口たちや新しい人たちが訪ねて来るときは、全力を注いで話されました。お父様は食口たちを御自身の命のように貴く思われ、愛され誇られる情の所有者であられました。

第1部「成長と入教」終わり
第2部へとつづく

・・・・・

偶然見つけました。水晶山の統一教聖地への道のりの写真です。
All about Hiking : 네이버 블로그

http://blog.naver.com/idid0486/220793727712

부산 등산*트레킹 코스 #안창마을#통일교성지#수정산#씽씽로드#할매국밥

2016.08.22. 15:02

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http://blog.naver.com/idid0486/220793727712

연일 폭염에 산 정상은 엄두도 안 나고, 살살 다니고 있습니다.
제일 만만한 안창~금수사 or 민주공원까지의 동구 “씽씽로드”로 고고우~!

안창마을 입구로 갑니다. 좌측 골목으로.
통일교범내전기념관
부산광역시 동구 범일동

상세보기

“구도의길” 이정표를 따라 올라갑니다.

안창마을의 풍광

올라올라~

20분 정도의 거리를 40분이나 걸렸습니다.

안창마을, 통일교성지

부산의 흔한 해발 300M 풍광

다시 내려가요~

숲길 따라

아스팔트 길이 나오면 우측 씽씽로드로

좋아요!

“아란야사”가 나오면 우측 1시 방향으로 올라요.

숲길을 따라

동구 체육시설이 나오면 좌측으로

조금 내려가다

우측 씽씽로드를 따라

수정산 가족 체육공원 쪽으로

구. 동구 “포부대”

수정산 가족체육공원, 주차장을 지나

나무뎈을 따라

뒤돌아 보고

미러볼을 두고 금수사 방향으로

수정동의 흔한 주택가 풍광

산책로 따라

건너편 숲길로

씽씽로드 전망대

금수사 방향으로

약수터에서 물을 보충하고

편백림을 지나

도로가 나오면 1시 방향으로 오름

멋집니다.

철조망 너머의 부산항을 보며

아래로 모교인, 부산중 부산고교

금수사가 나옵니다.

아래로 내려서면

금수사를 지나

동구 스카이워크가 있는 버스정류장으로 퇴근.

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