削除された姜賢實(カン・ヒョンシル)姜先生の回顧録第二章

シャボン玉のブログより引用

姜賢實(カン・ヒョンシル)先生の回顧録

第二章

その1   第一号伝道師

私の証拠的生涯(=主を証しする私の生涯)
韓半島に降臨された再臨主
姜賢實(カン・ヒョンシル)

第二章 ■ 韓半島に来た再臨主を証しせよ
● 起きて叫ばん
 ▲ 第一号伝道師

1953年7月17日、お父様が私を呼ばれました。

「開拓に行かなければならない。開拓に出れるよう準備しなさい」
「どこに行けばいいですか?」
「韓国で一番キリスト教が強いところが大邱(テグ)だから、
そこから伝道を出発するのが良いだろう」
「わかりました」
「40日の間、大邱(テグ)に行って伝道をしなさい。必ず40日を満たして来ないといけない。もし39日目の夜に帰って来ることになったら家の中に入れもせず、門の外に追い出すだろう。そして、それからは食口として認めないだろうから、それを知っておきなさい」と言われました。
「わかりました」

お父様があまりにも深刻に言われるので、返事をしながら私の心もそれにあわせて悲壮になりました。決意と覚悟を誓って伝道に行くために、体と心の両方の準備を始めました。

その知らせを聞いて19日に李得三(イ・ドゥクサム)オンニ(お姉さん)がチマチョゴリ(韓服)二着を買ってきました。李得三(イ・ドゥクサム)オンニは信仰心が篤く、お父様に侍るのにいつも最善を尽くしていた方でした。経済的にも豊かだし、人柄が良く、心が広くて、いつも周りの人たちを取りまとめて配慮することが生活化していました。

そのときも、私一人で伝道に行くようになったという知らせを聞いて、あつらえてきましたが、夏に涼しく着ることができる襦袢(じゅばん=肌着)とチマ(韓服のスカート)一着、そして楽にすぐ洗って着ることができるチマチョゴリでした。

しかし、私が李得三(イ・ドゥクサム)オンニと話をしているときに、お父様が二着のうち一着をそっと隠されるのでした。「先生がその服を着るわけでもないのに、なぜ女性の服を隠されるのか」と怪訝(けげん)な思いがしました。不思議な気がしましたが、お父様が何のお言葉もおっしゃられないので、私も何も言いませんでした。

いよいよ20日の朝になりました。お父様に呼ばれて私は部屋に入りました。お父様は、私一人を座らせて祈祷をされました。

「アボジ・ハナニム!あなたの愛する幼い娘が、新しい御言葉と新しい知らせを持ってあの狼たちが蠢(うごめ)くサタン世界である大邱に発ちます。生きておられるアボジ・ハナニムが同行して同役(どうやく)して下さらなければなりません。神様はこの幼い娘の力になって下さり、山城(さんじょう)になって下さり、盾になって下さり、すべての事を主管して下さい。ハナニム!サタン世界で奪われたその恨(ハン)をこの幼い娘をして感じさせて下さらなければなりません。そうして、大邱(テグ)にお父様の御言葉の花を見事に咲かせるようにして下さい。大邱(テグ)に神様の体となる新しい教会を建てることができるようにして下さい」と泣き声混じりの祈祷をして下さいました。お父様の祈祷が私の心情を動かしました。

そして、お父様は、「本当は、若い姜賢實(カン・ヒョンシル)を、サタンたちが蠢(うごめ)く大邱(テグ)の地に送り出したいという思いは一つもない。しかし、送らなければならない私の心情を知ってくれることを願う。私の心はこんなに痛むのに、ましてや神の心情はどれほどより痛いだろうか。行けばつらく難しいことがたくさん起きるだろう。そのたびに、まず何よりもあなたの背後に生きておられる神様が共におられるという、これだけは一時も忘れずにいつでも記憶しながら働いてくれることを願う」と話して下さいました。

お父様は毎日、神の御旨に狂っておられ、神の創造目的を必ず実現させておくという固い意志で燃えておられました。そのような意志は平安な時や迫害が迫ってくる時も変わりがありませんでした。お父様の心情は常に一貫していました。

第一番目に立てられた伝道師として、お父様の心情を忘れずに、神様の御旨を成して差し上げなければならないという決意が、心の中でより固くなりました。

祈祷と御言葉を終えた後、お父様が旅費を下さいました。旅費は釜山から大邱(テグ)まで鈍行汽車の切符を買うと、お米一升を買えるお金にしかなりませんでした。率直に言って旅費が余りにも少なく、心の中で驚きました。そのときが困難な時代ではありましたが、お父様はたまに食口たちに洋服を作って着なさいと、二、三着作って着れるお金を下さるときもありました。ところが、40日の間伝道をして来いと言われながら、往復交通費にもならないお金を下さるので当惑しました。

▲当時の釜山駅

それでもいただく旅費を感謝して、白い風呂敷に荷物をまとめて家を出ました。後で知ったことですが、二千年前、イエス様が伝道に出て行った弟子たちに服二着を持って行くなと言われ、お金もわずかしか持たないようにされたので、お父様は私にもそのような道を行くべきだという基準を立てて下さったのでした。

送ってくれる人も誰もおらず、家を出てみると無性に心が憂鬱でした。振り返って見るとお父様が塀の上に手を置いて私を見ておられました。「お元気でいてください」とあいさつを差し上げたのですが、見るとお父様の表情は私に対する期待で満ちていました。お父様は塀の瓦屋根の上に手を置いて立たれ、最初の伝道師を派遣されながら、大邱(テグ)に必ず教会を開拓して帰って来いという表情で私を見られました。お顔の表情がそうであるなら、お父様の心情はどのくらい切実であられるだろうかという思いになりました。

「いくら人がいないからといって、何もない私にこのように大きな期待と願いをかけられるのか?」という思いがすると、お父様が凄絶(せいぜつ)でかわいそうで、神様に対する切実さがそのまま感じられました。それで私も思わず心の中で泣きながら新たな決意をしました。

「必ず戦って勝利いたします。先生が期待され願われる姜賢實(カン・ヒョンシル)になります」と誓いました。

お父様は、私が振り返るたびに手を振って励まして下さいました。少し行って振り返って見るとお父様は手を振られ、また少し行っては振り返って見ると、また手を振られました。私が見えなくなるまで、お父様は、そこに立ってそのように別れのあいさつをされました。

姜先生の回顧録

第二章

その2  私がお前とともにいる

第二章 ■ 韓半島に来た再臨主を証しせよ

● 起きて叫ばん

(その1のつづき)
▲私がお前とともにいる

鈍行汽車は商売をする商人や米や野菜を頭に載せて入って来る人々で満員でした。人々の隙間をくぐって中に入っても座る席がなくて片隅に立って大邱(テグ)まで行きました。汽車の中の人々は大変多かったのですが、みんな貧しい人たちでした。私はその人たちを見ながら汽車の中で祈りました。

「神様。あのように多くの人たちが大邱(テグ)に行こうとします。しかし天の新しい消息を知っている人は私しかいません。この御旨をあの人たちにみんな伝えて、神様の御旨が分かるようににすべきですが、どうすればいいですか?」と祈る心で大邱に向かいました。

大邱(テグ)駅で降りましたが行くところがありません。韓国銀行の前に立ってみると、教会の鐘つき堂がたくさん見えました。たくさんの人が往来するのですが、どこに足を進めるべきなのか途方にくれました。一人も御旨を知っている人がいないと思うと寂し思いがしました。それで、私は再び祈りました。
「神様。私はどこへ行くべきか分かりません。教会も多く、行ったり来たりする人がたくさんいますが、私はどこに足を運んで行くべきかがわかりません。神様、このしごとはこんなにも難しいのですか?」と祈ってただ立っていました。

すると、私の耳に声が聞こえてきました。「賢實(ヒョンシル)よ、お前はこれを難しいと言うのか?お前は一年余りこの道を歩んで難しいというのか?私はこの御旨を成す為に、少なくとも六千年間苦労してきた。しかしお前は一年ほどこの道を歩んだだけで、難しいと言うのか?」という神様のとてつもなく大きな声が聞こえてきたのです。

「神様、それでは私はどうすればいいですか?」
「私はお前に力と勇気を与えるので、強く大胆な心を持って、この大邱(テグ)城中に神の体なる教会を建てよ」

神様は、私と共にあるという約束を下さいました。それで私は、神様が私と共におられるので、どんな事でもすることができるという力と勇気を得ました。今も私に難しい問題が迫ってくるようになると、「父なる神様。昔その大邱(テグ)の路上で私に聞かせて下さった声が恋しいです。今も私にその声を聞かせて下さらなければなりません」と祈りを捧げます。

いつのまにか日は暮れて夜になりました。大邱(テグ)に到着したので、まず神様に祈祷を捧げる場所を探さなければなりませんでした。それで、大邱(テグ)で一番大きな西門(ソムン)教会を訪ねて行きました。徹夜祈祷をするためでした。大邱(テグ)にお父様の御旨と心情を知る人が私一人だけだと思うと、神様に頼らざるを得ませんでした。

次の日、早朝祈祷のために来たある執事(チプサ)に会いました。ド・キソン執事という方でしたが、その方が、「今日、私たちはいっしょに山へ祈りに行きましょう」と言いました。それでその執事に従ってかげろう山(今の大徳山)に登って行きました。ド執事はそのとき入教して食口になりました。天候は暑かったですが、上上峰(サンサンボン)まで上がって祈祷して歌を歌いました。

来なさい友よ 園の春はときを迎え花が咲き、
楽しいこの春を歌おう エデンの友たちよ
みんな集まり踊りを踊り 新しい歌を歌おう

礼拝に出たときにたくさん歌った歌が思い出されて歌いました。一番高い峰に登って歌う歌なので、山に声が響くように歌いました。三番まで歌って、また歌いました。
そのように歌に酔って歌っていると、「ここに人がいるよ!」と言いながら、十数人の婦人たちが上ってきました。彼らは南門(ナンムン)教会の勧士(クォンサ)と執事(チプサ)たちで、十日間山で祈祷をするために登って来てこの下で祈祷していると歌声が聞こえた、と言いました。深い山の中で女性の歌う声が聞こえてきて、「あそこに人がいるようだ」と言う人たちと「あれは人の声ではなく、天使の歌声だ」という人たちの二つに分かれることになったということでした。お互い話をしても結論が出ないので、どちらか賭けまでして、歌声に向かって登って来たのでした。

※ 勸士(권사・クォンサ) :信者を訪ねて信仰心を深めたり伝道したりすることをおもな任務とする布教師.

※ 執事(집사・しつじ) :礼拝の補助や会計管理などを行おこなう信徒。

※ 諸職會(ジェジクヘ・しょしょくかい) :改神教(=プロテスタント)で教会の職責を任された人たちが教会業務を議論する集まり。教会の長老、按手執事、勧士(クォンサ)、代理執事などが会員になる。(韓国語辞書より翻訳)

彼女らを見て、先生が私を送られて、どれほど祈祷され精誠を尽くされ霊的に共におられるのかを感じることができました。
彼女らは私を見て大変喜びました。

「どうしてここで歌を歌っているのですか?」
「私はこの山に祈祷をしに来ました。」
「そうですか?私たちも十日間山で祈祷をしに来ました。私たちと一緒に祈祷しましょう」と勧められました。

一行の中で少し年配に見える婦人が私を見て、「お顔を見ると、恵みをたくさん受けられた方のようです。ここにいる間、祈祷もして、聖書講解(こうかい)もして、お話もしていただければと思います」と請いました。
私は、「いいえ。私はそんな資格がない者です」と断りました。
「そう言わずに、恩恵を少し分けて下さいな」と言い、一行がみんな私に願うのでした。
しかたなく私は、「ではいっしょに恩恵を受けましょう」とその日の夕方から御言葉を伝えました。

役事は初日の夕方から起こりました。いっしょに賛美歌を歌うのですが、一人が立ち上がってひらひらと踊りを踊り始めました。その人が、「霊界の霊人たちがとても喜んで踊りを踊ります。なので、私はそれに答える為に踊りを踊ります」と言いました。そして、「霊人たちが、地上で生きて主に会うことができるあなたたちがとても羨(うらや)ましい、私たちは霊としてでも主に会えるのでとてもうれしい、と言っています」と伝えてくれました。

またある人は、かげろう山から曙光が照らし、その光があまりにも明るく熱い火になって大邱市をすべて焼きつくす幻を見たりもしました。
また別の人は、灰色のズボンにからむしで織ったシャツを着た体格の大きな方が、両手を高く上げては、祝福の祈りをしてくれる幻想を見たりもしました。その姿は当時のお父様の姿でした。お父様が霊的にその山にやってきて、私たちを祝福して下さるのだと思いました。

十日間役事が続いたので、時間がたつのも忘れて祈祷をしました。何も食べていなかったのですが、お腹がすきませんでした。そして不思議なことに、その十日の間、雨が降りませんでした。夜、岩の上に横になって休もうとすると、昼の間太陽熱にあたった熱気で、天然の石づくりのベッドができて背中が暖かかったです。

そのようにいっしょに精誠を尽くした勧士と執事たちは、私を「先生」と呼びました。私に、「先生、先生!」と言いながら、恋人を愛するように愛するのでした。三日ぐらいした時でした。休んで目を覚ますと、みんな私の体をつかんで眠っていました。ある人は右手をつかみ、またある人は左手、左腕、左足、右足を握っていました。
びっくりして、「暑いのにみんな何をされるのですか?眠れないのなら祈祷をもっとされたらどうですか?」と言うと、「祈ることよりも先生の横にいるのがもっと恵みです」と言うのです。「だったら少し寝たらどうですか?」と言うと、「寝るよりもこうして先生の隣にいると疲れが取れます」と言うのでした。
どれほど私について来るかというと、私が瞑想に行くと探しに来るし、一人で静かに祈祷しようとするとついてきて、トイレに行ってもついてくるのでした。それがあまりにも度が過ぎていて大変でした。

しかし、「私たちは20年の間、信仰生活をしましたが、このような御言葉は初めて聞きました。イエス様の事情と心情を私たちは知りませんでした」と言いながら、熱気が冷めなかったのでした。賛美歌を歌えば、みんな涙を流して悔い改めて痛哭(つうこく)しました。私のところに来て、これまで生きて来た人生を告白して悔い改めたりもしました。

十日目が過ぎて再臨論講義を始めました。するとある人が膝を叩いて、「姜先生、今解決しました」と言いました。「何が解決したのですか?」と言うと、「私たちが最初にここで祈祷するとき、私は黒い紙に白い文字で「韓国再臨」と書いたものを見ました。今日の御言葉を聞いて、その意味が何なのかがわかりました」と言いました。

さらにその人は、「私たちは下りて行って、教会を立てましょう。教会が立てられるように献金をしましょう」と提案しました。他の人々も皆、教会を建てるために寄付をしようということで志(こころざし)を集めました。そこで献金した金額で部屋一つを設けることができるようになりました。

第二章

その3  大邱教会の出発

第二章 ■ 韓半島に来た再臨主を証しせよ
  ● 起きて叫ばん
    ▲ 大邱(テグ)教会の出発

山から降りて家賃が安い鳳山洞(ボンサンドン)に部屋を一つ得て、礼拝を捧げました。
そこが最初の大邱教会でした。その教会が定着した後、8月末に李耀翰(イ・ヨハン/李ヨハネ)牧師が大邱に来ました。

ところが、南門(ナンモン)教会の重鎮であった勧士と執事たち10数人がいっぺんに南門教会に行かなくなって問題になりました。その勧士と執事たちが恩恵を受けた内容を周りに伝え始めたので、大邱にある教会全体に噂が広がっていきました。そこで、80名余りの長老教会の牧師たちが集まって対策会議をしたのです。そうして主日(=聖日)説教の時間に、「釜山から何でもない女の異端が入って来て南門教会が荒野(あらの)になりました。もし、誰かが新しい話をしても、絶対について行ってはいけません」と警戒令を出しました。

ある日、礼拝を捧げていると一人の人が息を切らして訪ねてきました。それで、「どのような事で来たのですか」と尋ねると、「南門教会でさっき礼拝に出てから来ました」と言い、一部始終を話しました。

「礼拝の時間に牧師が、『釜山から来た女性がいる所は異端であり地獄に行く所です。そこに行けば滅び、死に至ります』という話を聞きながら目を閉じていると、『そこは異端ではない。滅びて死んで地獄に行く所ではない』と神様の声が聞こえてきました。『今、この南門教会はよもぎ水を飲ませるが、そこは命の泉の水を飲ませる所である。今、そこで真の生命を救うことができる礼拝を捧げているので、白いゴム靴を履いて自転車に乗って早く行け』と教えてくれた」と言うのでした。それで、その人はこちらの礼拝が終わる前に到着しようと急いで啓示を受けた場所に来たと言いました。

その人が来たあと再び礼拝を続けたのですが、「私は今、地上で主に会うことになったのでどれほど嬉しいか分かりません」と言いながら、踊りを踊りました。その人のおかげで、周囲の迫害でつらい思いをしていた食口たちが力を得るようになりました。草創期の私たちの大邱教会ではそのような神霊役事がたくさん起こりました。

その恩恵が大きいほど迫害も多かったのです。だから引っ越しをたくさんしました。引越して来た家で礼拝を捧げると、数日したら近所から、狂った人々が引っ越して来たという噂が立ちました。結局、一週間にもならない前に、「教会に行って礼拝をしたらいいのに、家で礼拝をして『アイグ、アイグ!』と声を出して泣きながら祈祷をする。明らかに狂った人たちだ。縁起の悪い人たちがこの町に入って来てはだめだ」と言いながら追い出したりしました。

1953年9月17日、大邱駅でしばし、お父様にお会いすることができました。お父様がソウルを開拓するために発たれる途中に、大邱駅でお会いしたのです。

▲当時の大邱駅舎

韓国の首都ソウルは暗闇に沈んでいました。お父様が鍾路区(チョンノグ)清進洞(チョンジンドン)に下宿を定められ、訪ねてくる人々に接するたびに、精誠と物を惜しまずに与えられ、御言葉を伝えられました。

私はお父様に一週間に一度、活動した内容を手紙で報告を差し上げました。一カ月にも何度も引越しをしなければならないので、大邱の住所を南山洞(ナムサンドン)にあったある執事の家に決めました。先生も数通の手紙を書いて下さいました。その内容は、「生きておられる神は、まさに私たちの側に立っておられる。心細く、寂しく、もどかしいときに神様を呼べばいつでも、神様は賢實(ヒョンシル)を離れることなく、いつも共にいて下さるので、強く雄々しくあれ。神様が共にいてくださるという信念と確信を持って、神様の胸の中に隠された秘密を、願う者たちと神様が愛される者たちに植えてあげなさい」という懇切な付託でした。

「苦境と苦労が終わって、栄光と勝利を誇ることができるその日を早く迎える為には、私たちの犠牲と忠誠、そして精誠が伴うので、熱心にサタン主権の世界を神主権の世界に戻し立てよう」という大変な内容でありました。

蛇のように賢くあれ

1953年11月2日お父様が初めて大邱市内に来られました。我たちはその時、南山洞に小さな部屋二つを借りていたときでした。家の主人のおばさんが、お客さんが来られたと言うので、洗濯をしていたのですが飛び出してみたところ、お父様があまりにもみすぼらしい姿で立っておられました。

お父様の後ろには背負かごに荷物を背負った男がついて来ていました。私は心配になってお父様に、「どうして前もって知らせもなく来られたのですか」と尋ねたところ、お父様は何も言われず、ただ、「こういうことになった」とだけ言われました。その時刻が朝7時頃になった時でした。

食口たちにお父様が来られたと連絡をしました。あまりにも困難な生活をしている時だったので、あり合わせのもので精誠を尽くして、朝食を準備して差し上げました。

私は教会を開拓しながら、いつかはお父様が大邱教会に来られると思っていました。なので食口たちと相談して、布団と丸い座布団をあらかじめ用意しおいたのでした。布団の色は黄緑色の絹地に赤い羽根で囲み、座布団は赤でした。大邱(テグ)の開拓が大変でむずかしかったのですが、布団を新調するために、初期の食口たちは心を一つにして精誠もたくさん込めました。そのお金を作るためにも多くの困難がありましたが、あらかじめ準備しておいたのでした。

お父様は薄いそら色のスーツを着ておられましたが、あちらこちらに油汚れが付いていました。それで、私は食口たちが李耀翰(イ・ヨハン)先生に差し上げた韓国服のパジチョゴリをとりあえずお捧げし、その洋服は洗濯屋(=クリーニング屋)に預けました。李牧師のパジチョゴリはお父様に合いませんでした。袖が短く、チョゴリ(=上衣)も短かったし、特にパジ(=ズボン)は短すぎて見るに忍びないほどでした。

そんなお父様の姿を見ると心の奥底から悲しみが痛くこみ上げてきました。二千年前、イエス様が来られた時、服の一つでも準備しておいて待つ聖徒がいませんでしたが、今日(こんにち)も天宙の主人公になられる方が来られたのに、キリスト聖徒たちが知ることもできず迎えることができないことを考えたときに、熱い涙が私の顔を覆いました。

お父様が来られたという知らせを聞いた大邱食口たちが集まり始めました。瞬く間に下の部屋と上の部屋がいっぱいになりました。それまで大邱食口たちは、お父様についての話はたくさん聞いていたのですが、直接会ってお目にかかることはできなかったので、いつも思慕しながら待っていたのでした。

お父様は朝食が終わった後、御言葉を語り始められました。皆、御言葉に酔い時間の経つのも忘れていました。

そう時間が経って正午ごろになったときです。突然警察が来ました。おそらく、部屋の中で大きな声で話しておられる声が聞こえ、人々が集まっていたので家の主人がいぶかしがり警察署に通報をしたようすでした。

私は急いでお父様に勝手口から出て下さいと申し上げました。勝手口は女性だけが出入りするので、女性用のゴム靴しかありませんでした。仕方なくお父様は女性用のゴム靴を急いで履いて外に出られました。その家から出て、他人の家の玄関先に身を隠しました。

そこには幸いなことに道行く人々からは見えないところでした。お父様は体に合わないパジチョゴリを着ているうえ女性用のゴム靴を履いておられたので、人々の目には怪しく見られる状況でした。私はお父様の前に立ってチマ(スカート)を広げて立っていました。しかし、私の背が低いので、お父様を覆って差し上げることができませんでした。その路地に立って私は切実に祈りました。

「神が愛しておられる息子がこのように、サタン世界の人々から追われて侮辱を受けています。本当に神様が遣(つか)わされた方であるならば、もう少し穏やかに行くことができるようにして下さり、神が生きておられることを見せて下さらなければなりません。彼らの暗い目を明るく見えるようにして下さり、天宙の真の主人であられる父を分からせてやって下さい」と祈りながら立っていました。

お父様のお姿は、大変みすぼらしく哀れに見えました。お父様は、「聖書に、知恵は蛇のようにしろと、イエスは言われた。神の御心を成して差し上げるか成せないかは、人間がすることにかかっている。暗いサタン世界に神の高貴なる御旨を繰り広げようとするから、サタンがじっとしているはずがない。いかなる方法であれ御旨を成す事ができないよう妨害をしているが、私は刑務所や留置場を恐れはしない。ただし、もし何かの事件でも生じたなら、それだけ復帰摂理が延長されるので、知恵深く行動をしなければならない」と言われました。

そう言われながら、「賢實(ヒョンシル)が今食口たちの中で一番若いから、知恵深く敏捷(びんしょう)に囲いになって動いてくれ」と願われました。「どれほど人がいないので、私にこのような願いをされるのか」という気持ちで神様に対する切実なお父様の心情をより痛感しました。

お父様は、「国を探し求める為に独立軍が命を捧げて戦ってきた。私たちは、この地に全人類が共に良く住むことができる神の国を立てるべき責任があることを考えれば、何ができないことがあるか」と激励して下さりもしました。その時のお父様の立場とその姿、その切実さを今も忘れようとしても忘れることができません。

その家では休まれることができないので、すぐに大邱駅近くの旅館にご案内しました。スーツは取りに行けなかったので、お体に合わないパジチョゴリを着てタクシーに乗られました。いったん旅館の部屋をとり、洗濯屋に行って洋服を取って来ました。洋服を着られて、私の心がやっと楽になりました。

警察が来てから、近所の人たちの視線がいっそう厳しくなり、再び南山洞に引っ越しをしました。そして、隣に部屋を別に借りて、お父様をお迎えしました。私は食事のたびにその部屋に行って料理を作って差し上げました。その年の11月は天気がひときわ寒かったです。大邱(テグ)の冬の風に、手が腫れ裂けて血が出ました。そして、反対し迫害している群れのために悩まされ、つらく過ごしました。お父様は大邱で命をかけて伝道をしなければと言われましたが、なかなか伝道の炎が燃えませんでした。それだけ既成教会の信徒たちの反対と迫害、嘲笑が強かったからです。

第二章

その4  お父様の後ろ姿

第二章 ■ 韓半島に来た再臨主を証しせよ
 ● 起きて叫ばん
    お父様の後ろ姿

1953年11月20日頃、南山洞(ナムサンドン)の部屋を借りて、数日もしなかった頃でした。南山洞の路地の横の小さい部屋には、玉世賢(オク・セヒョン)オモニ、池承道(チ・スンド)オモニ、李耀翰(イ・ヨハン)牧師、そして私を含めて4人が寝起きしていました。

その日の午後4時になった頃でしょうか、どこかで聞き慣れた声が聞こえてきました。「南山洞31番地がどこですか?」というその声は、崔先吉(チェ・ソンギル)女史の声でした。

アイロンをかけていた私は大変驚き、靴も履かず外に飛び出し、木を積み上げておいた小屋に隠れました。主人のおばさんは、私がそのように驚く姿を見て不思議に思ったようです。玉世賢(オク・セヒョン)オモニ、池承道(チ・スンド)オモニ、李耀翰(イ・ヨハン)牧師は部屋の中で、門の取っ手をつかんで震えていました。家の主人が、「ここは南山洞31番地ではありません。もっと上がらなければなりません」と機転を利かして答えてくれました。

南山洞31番地は、任執事(イムチプサ)の家の住所でした。どうして崔(チェ)女史が大邱(テグ)にある任執事(イムチプサ)の住所を知っていたのでしょうか?大邱(テグ)にいるとき、私たちはあまりにも頻繁に引越しをすることになったので、お父様に手紙を送るとき、任執事(イムチプサ)の家を住所に定めました。お父様が報告を受けることをいつも喜んでおられたので、週一回報告の手紙を送りました。

おそらく崔(チェ)女史は、金元弼(キム・ウォンピル)先生を通じてお父様のソウルの住所を知ることになり、そのソウルの清進洞に行って私が送った手紙を見たようでした。大邱(テグ)に到着した崔(チェ)女史は、警察署にお父様を通報までしました。

私はすぐにお父様のところに行って、崔(チェ)女史が大邱に来たと報告しました。その報告を聞かれたお父様は、「今日(きょう)、私がここを離れることが大邱食口たちの為にも良いだろう」と言われました。しかし、上京する旅費がありませんでした。

私は他人に貧乏くさい話はできない性格ですが、仕方なく食口たちに事情を話し、旅費を準備して差し上げました。南山洞から大邱駅に向かわれたお父様の後ろ姿がとても哀れに見えました。夜11時30分に出発する夜汽車だったので、誰も駅までお見送りができない状況でした。その当時は夜間の通行禁止時間が厳守されていたので、お見送りした後、家まで帰ることができなかったからです。

その日に限って、大邱(テグ)の風は身を切るように冷たく、手と足が凍えて歩くことが難しいほど寒かったのでした。「復帰摂理の大志を抱(いだ)かれ、御旨を成して差し上げる為に神様と約束されたその日から、言葉では表すことの難しいいばらの道を十字架を背負って行かれるお父様、その道を同志もなく、お一人で行かれるのか!」という思いになり、自然に涙が出ました。そのようにお父様は、時にはつまずき倒れ、打ち倒されながらも、神様だけを考えながら人類救援の目標に向かって行かれるのでした。そうして、全人類の前にサタンと戦い勝利された見本を見せて下さいました。

その夜、私は眠れませんでした。お父様の後ろ姿がしきりに思い出されて涙だけがとめどなく流れました。

「先生は、このような苦難の中でも放棄しない姿を見せて下さった。そんな先生を見つめられる神様は慰安を受け、立派な私の息子だと微笑まれ喜ばれたであろう。先生は何十回、何百回も、もうこれ以上できないと言えるような機会が多かったけれども、一度も御心に背くことなく従順に生きてこられた。御自身の困難と苦労と苦痛を意に介されず、神の心配と苦衷(くちゅう)だけを心配され、恐れておられたからである。

70億人類の中でどこの誰が神様を心配し、自身よりももっと神様の為に生きようとするだろうか?どこの誰が神様のつらさを和らげて差し上げ、平安に休まれる日の為に努力するだろうか?神様の前にこのように親孝行する孝子は、人類の歴史以来ただ一人もいなかっただろう。私たちの先生のような方がどうしてこの地上に来られたのだろうか?もし来られなかったならば、誰が天と地に絡(から)む事情と因縁の糸口を解くことができるだろうか?先生が来られたので、神様が四千年の間準備をさせて送られたイエス様の御旨を継承され、成すようになったのである。

先生は、六千年間待ち焦がれ千年を一日のように待って来られた神様の目的を成し遂げられる責任を果たした方である。地上は暗闇につかって分からないが、霊界ははっきりと見て、また知って証ししている。いつか地上の全人類も先生が誰であられるかを知るようになるだろう」という考えをしながら、目を開けたまま夜を明かしました。

劉孝元(ユ・ヒョウォン)先生(初代協会長)の入教

それから一カ月ぐらい過ぎた後、1953年12月25日、釜山(プサン)でお父様にお会いすることができました。その日、お父様はソウルから釜山に来られました。劉孝元(ユ・ヒョウォン)前協会長、劉孝永氏と劉孝敏氏などが入教したという知らせを聞いて、釜山に来られたのです。私もお父様にお会いすることも兼ねて、釜山に下って行きました。

当時、釜山の水晶洞(スジョンドン)の家には崔(チェ)女史が住んでいたので、お父様をお迎えする家がありませんでした。一旦、劉孝元(ユ・ヒョウォン)氏のいとこで妹の劉(ユ)スニさんの家にお迎えしました。避難民たちが住んでいた影島(ヨンド)の小さな一室でした。その小さな部屋でお父様は、劉孝元(ユ・ヒョウォン)氏に熱心に原理講義をされました。

私はお父様の食事の責任を任せられたので、御言葉を聞ける時間はありませんでしたが、お父様が朝から翌日の午前2時や3時まで話される姿を見ることができました。劉孝元(ユ・ヒョウォン)氏は、健康が良くなく斜めに横になり御言葉を聞きながら、何かをたくさん記録していました。お父様は食事するのも忘れて、御言葉に酔われた立場で精誠を尽くして話されました。木や石でない以上、誰もがその御言葉の前に感動を受けざるをえませんでした。

しかし、経済的にはまだ困難な時期だったので、朝と夕方にお父様に捧げる食事の心配が多かったのでした。

そんなとき、李得三(イ・ドゥクサム)お姉さんが経済的にとても助けてくれました。お姉さんはただ経済的な物質の後援をしただけではなく、心情がいつも生きていて、何が足りないかを言わなくても知って助けてくれたのです。

ある日の夜明けに、我々がまだ眠りから覚めていなかったとき、誰かが門を叩きました。眠りから覚めて戸を開けると李得三(イ・ドゥクサム)お姉さんでした。お父様に差し上げたいと一晩中白菜のキムチ、大根のキムチを漬けて瓶(かめ)に入れて頭に載せ、念珠洞(ヨムジュドン)から影島(ヨンド)まで歩いて来たのです。私は大きな感動を受けました。ちょうどキムチが切れて心配をしながら眠りについたからです。

その当時に御言葉を聞いていた人たちは、劉孝元(ユ・ヒョウォン)、劉孝永(ユ・ヒョヨン)、劉孝敏(ユ・ヒョミン)、金寛成(キム・グァンソン)、宋道旭(ソン・ドウク)氏などでした。

(前列)左から:金寛成 李耀翰   お父様 朴正華 劉孝敏
(後列)左から:劉孝元 姜少領 李漢城 李鳳雲 辛聖黙

宋道旭          玉世賢

その頃、金仁珠(キム・インジュ)勧士(クォンサ)が北韓から韓国に下って来て連絡がつき、初めて影島(ヨンド)でお父様にお会いしました。金仁珠勧士は、部屋に入って祈りをささげ話を少し聞くや、「アボジ!」と言い、お父様の膝の前にひれ伏して泣き始めました。その姿に私たちすべてが大きな感動を受けました。

釜山の影島(ヨンド)でひと月の間、御言葉を話されましたが、また問題が生じました。町内の班長が、「北韓の言葉を使う青年が来たが、周囲の人々が集まってくる。怪しい」と警察に通報したのです。その通報を受けた警察が訪ねてきたので、東大新洞(ドンデシンドン)に引っ越しをしましたが、また問題が生じて大邱に上がることになりました。

第二章

その5  暗闇の中のむせび泣き

第二章 ■ 韓半島に来た再臨主を証しせよ
 ● 起きて叫ばん
   ▲ 暗闇の中のむせび泣き

1954年1月末に大邱(テグ)に戻ってきましたが、依然としてお父様をお迎えする所がありませんでした。それで鳳山洞(ボンサンドン)に大変小さな部屋を借りました。

鳳山洞(ボンサンドン)のその部屋はとても寒かったです。部屋の中に置いた雑巾がかちかちに凍りつくほど寒さが厳しかったです。そんな寒さにもお父様は、毎晩手ぬぐいを一つ水に濡らして部屋の隅に置いておくようにと言われました。夜明け三時になると起きて、その手ぬぐいで顔を拭かれ、祈祷をされました。あまりにも寒かったので、布団を一つは敷いて、一つはかぶってひれ伏して祈祷されるのですが、いつもむせび泣きながら、「神様、あなたと約束した時、私ははっきりと御旨を成して差し上げますと言いました。しかし、まだ御旨が成されるにはほど遠いです。しかし、私は疲れず放棄せずに、神様に栄光を抱(いだ)かせて差し上げる日を備えます」と祈祷されました。

全身を震わせながら泣かれて布団がずり落ちるたびに、かぶられていました。そのように泣かれて祈祷されるお父様の声は、なぜか追われておられるように感じました。誰もお父様を叱ったり責めたりしませんが、お父様は神様との約束を守ることができず、心を痛くされておられました。神様と、いついつまで御旨を成して差し上げますと約束されましたが、その結果が現れないので追われる心を持って生きておられたのです。だから、「神様、どのようにすれば良いでしょうか?」という思いであることを感じることができました。

▲当時の大邱市内

その家は、今も私に生生しく思い出されるのですが、世界で最も貧しい人が住んでいる家のように古びていました。家の主人であるおばさんが野菜を頭に載せて出て、路上で売ってやっと生活していた家庭でした。そんな家でお父様に侍ろうとするのですから、言葉に表すことのできない切ない心情でした。

そんなある日、夕方にお米が切れました。それまで残っていたお米で夕飯はやっと作ることができたのですが、翌朝朝食を作って差し上げるお米がありませんでした。しかしお父様に、「お米がなくなりました」などと言うことができません。申し訳ない気持ちでとても口に出せませんでした。夜がふけ、寝ようと横になっても心配になって眠れませんでした。

ところが、翌日の朝早く外に出てみると、縁側に誰かわかりませんが米を一袋持ってきて、それが置いてあったのです。私は思わず米の袋をつかみ、声もなく泣きました。そして、昔、エリヤが食べるものがなくて心配した時、カラスが食べる物をくわえて持ってきてくれたことを思い、「神様、感謝します」と祈りました。

後でわかったことですが、御言葉を聞いて間もない食口が、早朝にお父様にお米を持って行って差し上げようという気持ちがなぜかわからず火のように起こって、持って来たと言いました。

▲当時の大邱・東山病院

私は毎日朝早くから早めに家事をしておいて、大邱(テグ)で神霊が高いことで有名な人たちに会いに行きました。その中で、今でも鮮明に思い出されるのは、東山(ドンサン)病院の下に住んでいた金(キム)夫人でした。金夫人は、小さな家に住みながら精誠を捧げる生活を長くしてきた人でした。神様が直接見せて教えてくれる啓示に絶対的に従いました。

ある日、神様が韓国を中心として新たな摂理を繰り広げておられて、すでに韓国の片隅で新たな役事が始まったという啓示を受けました。その啓示を受けた後、さらに熱心に精誠を込めているという噂を私が聞き、その夫人に御言葉を伝えました。数十回訪ねて行って原理の御言葉を伝えましたが、ある部分は理解をして感動を受けましたが、ある部分は全く理解ができませんでした。そうしながら、なかなか食口になりませんでした。

金夫人を見て、神様は神霊の高い人々にあらかじめ見せてあげ、準備できるようにして下さったことを確実に知ることができました。しかし、神様がそのように知らせてあげて準備された人でも、自己の観念や思考を捨てずに固執すれば、再臨主に会っても知ることができず、新しい真理を聞いても自身が受けた啓示にだけ執着するということを感じました。その人がするべき責任分担があったからです。

ある時は、大邱の三徳洞(サムドクドン)で牧会をしていたある牧師がお父様に会いに来たことがありました。彼は大邱(テグ)の大きな教会で牧会をしていた有名な洪(ホン)牧師でした。その牧師がお父様の御言葉を聞いて恩恵を受けたのか、数回御言葉を聞きに来ました。その牧師と縁があった他の既成教会の牧師や伝道師たちもお父様を訪ねて来て御言葉を聞いたことがあります。

お父様は神霊の高い人たちに新しい御言葉を伝えることを願っておられたので、いつも私に伝道に出なさいと催促されました。今も準備されている人がたくさん待っていると言われました。

なぜか朝ごとにお父様にお会いすることが難しく感じられました。早朝に起きて、神様の御旨をおいて祈祷されたお父様の龍顔(りゅうがん/王の顔)は、厳粛で悲壮で恐ろしく見えました。しかし、伝道に行って帰って来ると、まるで父親が娘を懐(なつ)かしがるように優しいお顔で対して下さいました。いつも私はその日に起こった事を素直にそのまま報告差し上げました。そんな時は肉身の父以上にお父様が近くに感じられました。

第二章

その6  迫害の連続

第二章  ■ 韓半島に来た再臨主を証しせよ
 ● 起きて叫ばん
  迫害の連続

1954年2月9日、陰暦の1月6日、お父様の生辰(せいしん=ご聖誕)を大邱(テグ)で過ごしました。大邱の食口たちが集まって、お父様の生辰の宴(うたげ)を催すのですが、劉孝元(ユ・ヒョウォン)、劉孝敏(ユ・ヒョヨン)、劉孝永(ユ・ヒョヨン)、李昌煥(イ・チャンファン)氏などが来ました。その時、私たちは大鳳洞(デボンドン)に住んでいました。

集まって話をしておられる最中に、家の主人のおばさんが私を呼びました。「外にお客さんが来ています」と言うので、私が見ると一人の男性が立っていました。顔を見たのですが知らない人でした。

「どなたですか?」
「私は文鮮明先生の友人です。面会をちょっとさせてください」と言いました。
面識のない人なので、どうしたらいいか迷ったのですが、お父様のお名前を言いながら友達と言うので無視することができませんでした。それでお父様に、「ある方が友人と言って、外に来ています」と報告を差し上げました。

お父様は、「そうか?」と言われ、立って外に出られました。部屋の中に人がいっぱいいたので、お父様が出て行って誰なのかを見られた方が良さそうな状況でした。

ところが、お父様が出られるやいなやその人は、お父様を殴り始めました。お父様の顔を見てすぐに腰ひもを手でぎゅっと掴み、揺らしながら殴るのでした。私たちが横で止めようとしてもどうしようもありませんでした。道でそんな事が起きたので、井戸端で洗濯をして水を汲んでいた奥さんたちがみな見つめました。「何のけんかが起こったのか?」という顔で見つめるので、全く困った状況でした。

一瞬に起こった事なので、食口たちが出てきてやめさせようとしたのですが、既にお父はたくさん殴られて、目も当てられない姿になりました。本当はお父様が力を使われればその人にやられるような方ではありません。ところが、お父様は一度も抵抗をせずに黙々と殴られていました。振り回されれば振り回されるままに、打たれれば打たれるままに、そのまま打たれて揺れました。

食口たちがやっとその人をなだめたところ、お父様はただ何の言葉も言われず、部屋に入って行かれました。部屋に入って行かれるその後ろ姿がどれだけ私の胸を痛くしたか分かりません。生辰(せいしん)に、すべての食口たちが集まった時、そのような事が起きたので、まるですべてのことが私が責任を果たせなくて起こったようで、ただただ恐れ多いのみでした。

いつかその話を私がある人にしたところ、その人が、「力がなくて打たれたのではないでしょう。何の言葉も言われず抵抗もされず、その侮辱に耐えられたお父様の心情がどれほど苦しく、どれほど気がふさがったか考えれば涙が出ます」と言ったことを聞いたことがあります。

後で分かってみれば、その打った人はある食口のお兄さんでした。家族の反対が激しい食口でしたが、その食口がお父様に会いに行くと言って家を出て行ったと言いました。それで怒ったお兄さんがお父様を探しに来て乱暴をふるったのでした。実際にはその妹はその場にいもしませんでした。その事実を確認したそのお兄さんという人は謝りましたが、すでにお父様の生辰の宴(うたげ)はできる状況ではありませんでした。

当時はそのようなことが多くありました。食口の家族がやってきてお父様に暴力を行使したり、罵倒したりする場合が多かったのでした。

そうであったので、大邱にいる間、あれやこれやの事件のために引っ越しをよくしました。ある時は、月に三回も引っ越しをしました。いつもこちらに追われあちらに追われの、追いまくられる立場でした。迫害も激しく、教会は頻繁に引越しをするので、大邱の食口たちが極度に過敏になっていました。ある日は一日に二度も引越しをしました。午前中に荷物を運んで礼拝をする姿を見て、午後には家の主人が礼拝をしてはいけないと言うので、新たな家を求めて引っ越したこともあります。

後は、食口たちに知らせずに静かに引っ越しをしたりもしました。しかし、食口たちが何とか調べて探して来ました。引越しをした翌日の朝にある勧士(クォンサ)が訪れて来たこともあります。びっくりして、「知らせもしないのにどうやって分かりましたか」と尋ねたところ、「神様がすべて教えて下さいました」と答えるのです。

その勧士は教会が引っ越したことを知って、徹夜祈祷をしたと言います。一晩中、「神様。どこに引っ越ししたのか教えて下さい」と懇切に祈祷をしたというのです。朝になると、「私が教えてあげよう!」という神様の声が聞こえてきました。「家を出なさい!」勧士は、神様の声に従い家を出ました。その声が導くままに歩きました。すると、ある家の前で足が自然に止まりました。「この家に入りなさい!」と教えてくれて訪ねて来たのです。

ある日の出来事です。引っ越しをした後、食口たちにおいおい知らせなければと思っていると、鄭泳秀(チョン・ヨンス)という人から電話が来ました。その人は、姜執事(カンチプサ)の夫で漢方薬の薬局をしていました。最初は、姜執事が私たちの教会に通う時ひどく反対をしたのですが、だんだん御言葉を聞いて一緒に教会に来始めて間もなかったのでした。

電話で、「引越しはどこにされましたか?」と聞かれたので、「お宅の近くに引っ越しています」と言って住所を教えてあげました。すると「ああ、本当に私たちの家から近いところですね。夕方に一度まいります」と言いました。

その日の夕方に食事をしていたところ、家の主人になるおばさんが来て、誰かが外で私を探していると言いました。「誰がこの時間に私を訪ねて来たのか?」と、外に出てみるとお父様がタクシーの中で座っておられました。任執事(イムチプサ)もお父様と一緒にタクシーの中に乗っていました。お父様は私を見てすぐに、タクシーに乗れと言われました。家にいた人々が気になって、「ちょっと家に入って、先生といっしょに出ると話をしてきます」と言いました。しかし、お父様はお急ぎなのか、「その人たちを心配しないで早く行こう!」と催促されました。結局、どこに行くという話もしないで、夕食を食べ残したままタクシーに乗りました。

到着した所は、大邱駅の近くのある旅館でした。お父様は任執事(イムチプサ)と私に、「復帰の道は難しく険しい道だ。この世を神の国に復帰する責任が私たちにある。したがって、ここには人間が想像できないこともあり、理解できないことも多くあるので協助してほしい」と言われました。また、「我々は御旨の中で因縁が結ばれ、また、御旨を立てる為に行く体であるから、命を差し出して戦って行かなければならない。死のうとする者は、生きるのであり、生きようとする者は死ぬので、死も感謝の気持ちで受けるという心情を持って進んでいこう!」と切実に願われました。

そして、お父様と別れる時は、「私が来たと言えば、また問題が生じるようになるから、できるだけ私が来たとは食口たちに話さないように」と指示されました。任執事(イムチプサ)と私は11時頃になって家に来ました。ところが、道で李耀翰(イ・ヨハン)牧師に会いました。

李牧師は大変怒った顔で、「どこかに行くならどこに行くと言わないと。なぜ何も言わないで出て行きましたか?家に帰ってみなさい。大騒動です」と私を責めました。私は申し訳ない気持ちで、顔を上げることができず何度も謝りました。李牧師は怒って、「家に早く帰ってみなさい」とだけ言うのでした。それから、「こんな遅くにどこに行くのですか?」と聞くと、「友達の家に行きます」とだけ言って李牧師はそのまま行ってしまいました。「とても怒っているようだ」と思いながら、すれ違う李牧師の顔を見て、私はびっくりしました。その顔には青いあざがあり、ひたいには誰かに殴られたのか、こぶができていたからです。

「本当に家に何か大変なことが起こったようだ」という思いで急いで家に行くと、修羅場になっていました。一部始終を聞いてみると、私が原因で起こったことでした。私が夕食を食べ終えずに誰かが訪ねて来たと言って戻って来なかったので、食口たちは心配になりました。心配の末、「もしかして大邱南部警察署から刑事が来て捕まったのではないか?」という結論に至りました。

姜賢實伝道師が捕まったので、この家にも刑事が来るという思いになり、いったん荷物を鄭(ジョン)執事の家に移そうという皆の意見になったと言うことでした。あたふたと荷物を運んでいるところに、よりによって鄭泳秀(チョン・ヨンス)さんが家に来ました。その人は引っ越ししているのを見て、「私が家の場所を知ったから、引越しをするのではないか?はっきりと夕方に訪れると言ったのに、このように泥棒のように引越しをするのはなぜか?かつては教会に反対していた者だとして、もしかしたら私を信じることができずに引越しをするのか?私がまだ教会に反対し、妨害すると考えているのか?」と誤解をしてしまいました。

そんな思いになって腹が立って引っ越しで荷物を運んでいた李牧師の胸ぐらをつかんで、「どこに引越しをするのか?」と言いながら殴り始めたのです。横から姜執事(カンチプサ)がとめようとしましたが無駄でした。李牧師がいったんこの場を離れようという思いで、隙を見つけた瞬間走って逃げました。そのような行動にさらに怒ったチョン長老は、「泥棒を捕まえろ!」と声をあげました。

その声を聞いて、近くにいた警察官が来ました。事が大きくなったので、姜執事が機転を利かせて警察官に、「夫婦喧嘩でこのようになったので介入しないでください。申し訳ありません」と言い、わけを話したと言うことでした。幸いなことに警察官には帰ってもらいましたが、李牧師には青あざができ、荷物はあちこちに壊れて散らばり、家が修羅場になってしまいました。

玉世賢(オク・セヒョン)お母さんと池承道お母さんは驚いて他の食口の家に行って泊まりました。次の日の朝、二人は家に帰ってきて私を責め始めました。

「どこかに行くなら行くと話をして行かなくては….昨日は李牧師が殺されるかと思った」
「どれほど驚いたか、私たちは昨日の夜は、体が震えてブルブル震えながら寝ました」という言葉に、顔をあげることができませんでした。
「それで、昨日はどこに行って来たのですか」と、池承道お母さんが尋ねました。お父様が誰にもお父様に会ったという話をするなと言われましたので、私は事実を申し上げることができませんでした。

「申し訳ありません。友人が突然訪ねてきて、その家に行ってきました」と答えました。そしたら池承道お母さんは火のように怒りました。
「きのう先生にお会いしたんじゃないですか。私はすでに神様から先生が大邱に来られるという啓示を受けました。姜伝道師は、きのう先生にお会いして来たはずでしょう?しかし、なぜ私たちに先生にお会いしたことを隠すのですか?私たちは、北韓のときから先生に従ってここまで来た者です。私たちにまで先生に会ったことを隠すなんて….どうしてそんなことができるのですか?」と言われながら、大変私を責めました。

申し訳ないという心の片隅では、「お二人はいつも変わりなく信念と確信に満ちて神様とお父様がどこにおられるのか、何をされるのかすべてを知っておられるのだな」という羨(うらや)ましさも感じました。神様とお父様をいつもまず考えて侍る生活をしていた方だったからです。

そんな生活の中でも李耀翰(イ・ヨハン)牧師は、いつも信仰的でした。毎日追われる生活をしながらも、部屋一つ、台所一つも備えられていない家に住みながらも、いつも肯定的でした。

▲お父様と李耀翰先生

我々は、このように追い回されていますが、もう少し時が経てば御旨が成され、私たちが住んでいたこの家の柱がどれほど貴い柱になり、この家がどれほど貴い家になるでしょうか?ずっと後になって、私たちの後輩たちや歴史家たちが私たちが経て行ったこの場所を探し求め、私たちの路程をたどる時が来るでしょう」と言いました。

大邱(テグ)に崔夫人が来て、お父様と私たち一行を警察に通報したため、私たちはいつも追われる人のように暮らしました。罪を犯した訳でもないのに、常にびくびくする生活でした。変わった人が現れたら、まず隠れ、後をつけられていると感じたら路地に入ってしばらくして出てきたりしました。間違ったことをした訳でもないのに間違ったように、罪がないにもかかわらず罪があるように、息も大きくできず追われながら暮らしました。

明日がどうなるかわからない生活の中でも、将来はこのような生活が歴史になるという李牧師の言葉が私に感動と力を与えました。それで私は、「李牧師は本当に信仰がありますね。どうしてこのような難関でもそのような考えが出てくるのかと、尊敬します」と申し上げたこともあります。それほど当時の私たちの生活が大変でした。そして、大変だとは思いながらも、「お父様に侍る私たちがいくら大変だといっても、お父様の困難に比較することができようか?お父様はどれほど困難か?」と思ったら、涙があふれました。

今、振り返って考えてみると李耀翰(イ・ヨハン)牧師の言葉のように昔の苦労が貴い歴史として残るようになりました。今、昔に帰ろうとしても帰ることができない過去の思い出です。

大邱(テグ)で苦労して暮らしましたが、お父様と一緒に食事もして家族のように過ごしました。夢のような日々でした。ある日、夕食の準備を始めようとしたら、外で、「カニ売り!…カニ売り!」という声が聞こえました。ちょうどその時、少し余裕があったので出て行ってカニを買ってきて夕食を一緒に食べました。お父様と李耀翰牧師が一緒に箸でカニの身を取り出しながら召し上がられたのですが、お父様が、「ああ、このカニが姜賢實の手ぐらい大きいな」と言われ、しばらく笑ったことがいまだに思い出されます。

第二章

その7  龍門山へ発つ

第二章  ■ 韓半島に来た再臨主を証しせよ
  ● 起きて叫ばん
     ▲  龍門山(ヨンムンサン)へ発つ

1954年3月25日、龍門山(ヨンムンサン)で羅雲夢(ナウンモン)長老が復興集会を開いているので、お父様が一緒に行こうと言われました。お父様のお供で、玉世賢(オク・セヒョン)お母さん、池承道(チ・スンド)お母さん、李耀翰(イ・ヨハン)牧師、金ジェゴン、ジョンドッキ、ジョン神父と、私の八人で出発しました。

▲ 龍門山

龍門山への道は舗装がされていません。それで、徒歩で登りました。羅雲夢(ナウンモン)長老が龍門山に大きなテントを張って復興会をしていました。私たちはまず、近くの村に部屋を二つ借りました。

お父様は家におられて、私たち一行はその夜、羅雲夢(ナウンモン)長老が開く集会に出席しました。私たちはその復興会に出かけながらお父様に、「もしかしたら羅(ナ)長老に先生と会う意思があるか尋ねてみましょうか」とお聞きしました。しかし、お父様は何かの予感があられたのか、「私が会うのはよくない」と言われました。

「なぜですか?」
「会って、彼がよく理解して感謝して受け入れるなら彼もいいし私たちもいいが、もし御言葉を受け入れず、反対をしながら間違った話をすれば、彼が一生の間に築いたすべての功績と期待が一夜にして崩れるようになる。だから、その人のためにもあなたたちが会うのが良いだろう。私が直接会って、その人が行く道を塞(ふさ)ぐような結果になると良くない」と言われました。

私たちを通して御言葉に接した後に、彼がお父様を訪ねて来るようになることを望んでおられることがわかりました。羅(ナ)長老は、何かの啓示を受けたのか、説教の時間に、「ここに心霊の盗賊たちが来ているので注意してください。心霊をよく保っていないと、盗賊たちに盗まれてしまいます」と言いました。

復興会の雰囲気には恩恵がありました。皆が手を叩き大声で祈るのですが、悔い改め、罪を告白し、痛哭の祈祷をする人々が多くいました。復興会を終えて出て行く時、私たちのことを知った青年がけんかをふっかけながら垂木(たるき)で叩こうとしました。青年たちから逃げて下りてくるのですが、ある人は垂木につまずいて倒れそうになることもありました。

※垂木(たるき/서까래):木造・鉄骨構造などの建築における小屋組構造材

その日の夜、お父様は私たちに多くの御言葉を下さいました。霊的な復興師や大復興師たちの使命は、長く続かないということでした。神様の摂理と一つになれないときは、7年を越えることが難しく、最終的にすべての恩恵の役事を終えてしまうと説明して下さいました。

彼らの使命が終わった後も自分たちの使命が終わったことを知らずに、なぜそうなったかも分からない場合が多く、韓国の有名な復興師たちも自分たちがしなければならない使命を果たせない時、いろいろな方法でその人が打たれて恩恵がさめて冷たくなるというのでした。

その日の夜のお父様の貴い御言葉を聞きながら、集会に参席していた人たちの事を考えてみました。「彼らも一緒にこの貴い御言葉を聞けば、どれほどいいだろうか」という思いになり、痛い心情で彼らのために祈りました。

翌日でした。まだ、日が薄暗い時、大邱(テグ)から任執事(イムチプサ)が龍門山(ヨンムンサン)にいた私たちを探しに来ました。任執事(イムチプサ)は来るやいなや、「先生、大変です。刑事たちが先生のおられる家を襲ってきました。無理やりドアを壊して入り、その部屋に「出入厳禁」と真っ赤な字を書いて、部屋の中にあったすべてのものを警察署に持って行きました。刑事たちが、どこへ行ったのかと聞いたので、龍門山(ヨンムンサン)に祈祷をしに行ったと言いました。おそらく今日の午前中に、ここに刑事が来るでしょう。さあ早く逃げなければなりません」と言いました。

その日の朝食後、私たち一行は、お父様を中心に礼拝を捧げました。私たちは賛美歌を歌いながら涙の海を成しました。その日、お父様は、「私が行くところは戦いであり、涙であり、迫害であり、苦痛である。このサタンの世界を神の国として建てようとするから、サタンがじっとしていない。どんな方法であっても成すことができないよう妨害工作をしているのである。神様の能力で一夜にしてサタンを屈伏させることもできるが、人間の責任分担があるからそれができず、人間がしてくれることを願っておられる」と言われました。御言葉の後、祈祷を捧げたのですが、再び涙の海を成しました。

「神様、私が行く道には険しい峠のような茨(いばら)の道が置かれています。行っても行っても、越えて越えても、また越えなければならない峠道です。父よ、韓国の宗教界と社会が反旗を翻して御旨を成せないように妨害しています。彼らが御旨を少しでも知っていたら反対はしないでしょう。分からなくて反対するので、彼らの過ちを過ちと思われずに許してやって下さい!お父様、私はどんなに苦しく難しくても、これを苦しいとか難しいとか思いません。心配することは、反対を受け迫害を受けている私を天のお父様が見て憂慮し心配されないかを恐れているのです。お父様、私は父と約束したその御旨を生前に成して差し上げます。お父様、私を見て心配の荷物を解いて安心して下さい!この息子がいるではありませんか!どんなに恐ろしい試験も、患難にも、痛みも、辛さも、私は感謝の気持ちで甘く受けて克服していきます。師匠に従っているこの不幸な群れを、父よ、記憶されて、強く大胆に共に勝つことができるようにしてやって下さい!御旨と愛が永遠に私たちを見守ってくださることをお願い申し上げながら、主の名で申し上げました。アーメン!」と言われてお父様が祈祷を捧げられたのですが、私たち一行は大声で泣きながら共に祈りました。

龍門山(용문산)から金泉(김천)までの徒歩の時間が分かります。
25분+45분+1시간20문+30분+20분+30분+1시간10분+1시간=360분(6時間)

祈りを終えて、龍門山(ヨンムンサン)を後(あと)にし金泉(キムチョン)まで歩いて来ました。歩きながら、「一つの国を独立させた独立軍も命を差し出して戦ったのに、6千年の間神様が願われた天の御旨を成すこの重大な事に、なぜ生命を捧げられないか?彼ら以上の心情と度胸を持って戦わなければならない。また、遠い後日、後世の人々が、『この御旨を成す為に犠牲の祭物になり、すべてのものを惜しまず捧げて戦ったあなた方のおかげで、このように私たちは良い世の中で幸せに住んでいます』と言えるようにしましょう!韓国だけでなく、全世界の人類が感謝しながら叫ぶことができるその日を必ず作らなければならない」と思いました。

みんな私のような思いであって、金泉(キムチョン)に到着したとき、我々は両方の拳を握り締めて堅い決意をしました。「この道から離れず、最後まで志(こころざし)を立てて戦い、神の栄光を取り戻そう!先生の手足となって一緒に苦難と喜びを共にしよう!」と決心を交わして別れました。

お父様と李耀翰(イ・ヨハン)牧師はソウルに、玉世賢(オク・セヒョン)お母さんと池承道(チ・スンド)お母さんは釜山に、私と金ジェゴン勧士(クォンサ)は大田(テジョン)に、そしてジョン勧士とジョン神父は大邱に散らばりました。私はその時、大田に行ったので大邱を離れることになりました。

警察が大邱にあったすべての荷物を押収して行ったので、歴史的な記録が失われたことは今でも残念です。警察がその部屋にあった荷物をすべて持って行って、それまでお父様が送ってくださった手紙、集めておいた写真、私が夢で見たことを受けて書いておいた手帳まですべて失われてしまいました。重要な歴史的な記録が失われたことがとても残念です。

 

第二章

その8  大田で御言葉を宣布せよ

第二章  ■ 韓半島に来た再臨主を証しせよ
  ● 御言葉を宣布する生活
   ▲ 大田(テジョン)で御言葉を宣布せよ

1954年3月26日、大田(テジョン)に到着しました。教会を開拓しようとして行ったのではありませんでした。大田教会開拓のために行ったのは2年後の1956年6月でした。お父様は私を大田に送られながら、「宣戦布告をせよ!」と言われました。私は、「お父様、戦争が起こったのでもないのに、何で宣戦布告をしますか?」とうかがいました。そうしたらお父様は、「伝道はしなくても大丈夫。新しい御言葉を受け入れよという宣戦布告をせよ。新しい時代が来たと、再臨主が来られたと宣伝をせよ!」と言われました。

お父様は私に神霊の高い牧師、長老、教主、信徒たちに新しい時代の御言葉を知らせよという使命を下さいました。その時から本格的に私はその使命を果たす為に、40日、60日、80日の間、御言葉を伝えてから帰ってきました。お金は一銭もなく、御言葉を宣布しに通うことは易しくありませんでした。地方のどこに行っても教会もなく、食口一人もいませんでした。さびしくつらい路程でした。食事はもらって食べ、寝る所は事情を話して寝る場所を借りて寝ました。そうして戻って来る時には、着ている服一着だけ残し、お世話になった人々に、すべてのものをあげて帰ってきました。

苦労をして80日出て行って、御言葉を伝えて戻って来ては、お父様に報告をしました。お父様はとてもとても興味津々に報告を聞かれました。そして報告をすべて終える前に、「そうか。また出て行かないとね!いつ出て行くの?」と言われました。そんな時には胸がどきっとしました。「苦労して帰ってきた弟子に、一日でも暖かい部屋で休んでから行きなさいとは言われないのか?」というさびしい気持ちになったりしました。「一日でも伝道ということ考えずに暮らせたらいいのに」という思いがしたりしました。

大田(テジョン)に到着して一番最初に中央長老教会に行きました。その教会の伝道師が私の知り合いだったからです。しかし、その人は私の言葉を聞きもしないで、はじめから怒り出しました。「私はイエスをよく信じている伝道師なのに、何の言いたいことがあると言って騒ぎ立てるのか」と言いながら、私が持っていった包みを床から庭に投げてしまいました。その日は雨が降って地面が濡れていました。雨に濡れた包みを拾うと、「早く出て行け!」という叫び声を聞いて追い出されました。

それ以来、行く道は順調ではありませんでした。行く所ごとに門前払いで、夜になれば寝る所を探すのも大変だったし、一日三食のご飯をもらって食べるのもきわめて難しい事でした。寝る所を探すことができず、既成教会に入って、冷たい床の上で徹夜祈祷をするのが常でした。

しかし、後になると教会で寝ることすら困難になりました。それで、大田長老教会で知り会ったある執事(チプサ)の家の小部屋で過ごすようになりました。その小部屋はお米を積んで置く所で、火がつかない冷たい部屋で足を伸ばして横になることもできないほど狭かったたのです。私はその部屋に座って夜を明かしたものです。

そんな中、大邱(テグ)第一教会の韓秉赫(ハン・ビョンヒョク)牧師が復興会をするという知らせを聞きました。韓秉赫(ハン・ビョンヒョク)牧師は、大邱で有名だったので、神様の摂理を少し分かるのではないかと思いました。御言葉を伝えたい切実な気持ちで私は夜通しで韓牧師に手紙を書きました。神の摂理がいつ、どこで、誰を中心として行われているのか、主はどのように来なければならず、いつどこに来られるのか、洗礼者ヨハネの使命は何だったのかなど、御言葉の核心を要約し、理解してもらえるように丁重に勧める内容でした。全部書き終わると15枚になりました。

家の主人である執事に、復興会が開かれる日の午後に韓牧師に手紙を渡してくれるようお願いしました。その日の夕方、私は緊張した気持ちで復興会に参席しました。

しかし、韓牧師は、「釜山(プサン)から大邱(テグ)に行って、信仰のある勧士(クォンサ)と執事(チプサ)をみんな奪った女の異端が大田(テジョン)にまた来ました。今、この場にもその女の異端が来ているかもしれません」と言いました。「さらに、その女の異端は、聖書にない教理を自分勝手に歪曲して説明します。皆さんも気を引き締めて信仰して下さい。そうしなければ異端に誘惑されやすいです」と付け加えました。それとともに、私が手紙に書いた内容をいちいち反論する説教をしました。

説教をじっと聞きながら、2千年前のイエス様が思い出されました。イエスを殺した彼らは一般のユダヤ人たちではなく、祭司長、律法学者、パリサイ人でした。同様に、お父様に一番反対する人も平信徒ではなく、指導層にいる者たちであり、羊の群れを率いる牧会者たちであることを考えれば、重苦しく切ない気持ちになりました。

結局、その復興会の後に、教会ごとに女の異端が来たという噂が伝わり、私が教会を訪れて祈ることすら容易ではなくなりました。見知らぬ若い女が教会を訪問して祈りをすると、「大田に来たというその女の異端ではないか?」という目つきで見たからです。しかし、私は休むことなく、強く大胆に御言葉を宣布しに通いました。

ある日、聖潔教会(=ホーリネス教会)を訪ねて牧師に会いました。教会はそんなに大きくはなかったのですが増築のために教会の前に垂木(たるき)がたくさん立てておかれてありました。私は強く心を決めて、牧師に御言葉を伝えました。

「牧師様も祈祷をたくさんされて精誠をたくさん込めれば、今日(こんにち)この時がどんな時であるのかをだいたい見当をつけることができるでしょう。実際に、ずっと昔にイエス様が来られた時、ユダヤ人がイエス様を自分の目で見ても知る事ができなかったではないですか?今もそのようなときです。牧師様が祈祷をたくさんされ、主に会おうと苦労をたくさんして来られたのに、来られた主を知る事ができなければどれほど残念でしょうか?今まで苦労してきたことが水泡(すいほう)に帰(き)してしまいませんか?それで私は、祈祷をたくさんして精誠をたくさん込める方たちに、このような時が来たことを伝えに来ました。昔の旧約時代から新約時代に移って来たときが信仰の転換期だったように、今が新約から新しい神の摂理の時代に転換される時代です。このような時代的転換期を知って信仰の焦点を合わすことができなければ、私たちも2千年前のユダヤ人たちのように不信の後裔となってしまうでしょう」

話をみんな聞いた彼はかっと怒りました。「いや、大田(テジョン)に女の異端が入って来たということだが、あんたがまさにその女の異端か?」と言いながら立ち上がってこぶしで私を殴ろうとしました。

私はとっさに外に飛び出しその場を避けました。すると、彼は工事のために立てて置いた垂木を持って私を叩こうとしました。思ったように叩けないので、逃げて行く私の後ろから垂木を投げたのでした。幸いなことに私には当たりませんでした。

2千年前、イエス様がどのくらい苦しく切なくて、「この蛇の子らよ、誰があなたを教えて差し迫った神の怒りを避けるのか?蛇の子らよ、あなたがたは悪だから、どうして良い話をすることができるのか?」と叱られ、「あなたがたは災いである」と言われて怒られたその心情が感じられて切なく思いました。

大田で40日間、苦労しながら御旨を成そうと努力をしたのですが、大きく得た物はありませんでした。

大田で一つ得たことは、ペク・シンミョンおばあさんに会ったことです。ペクおばあさんは霊通する方で、何十年も霊界と通じていることで有名でした。その方は私を見るやいなや、「あなたは天使長的ラッパの使命を持っています」とすぐに証しました。それまで私は、天使長が空中でラッパを吹いて降りてくるものとだけ考えていました。

後でお父様にその話を報告したところ、「姜賢實(カン・ヒョンシル)がしていることが天使長のラッパの使命だ。主が来られる前に、現れる前に、まず天使長がラッパを吹かなければならないんだ。そのラッパが何のラッパかと言えば、本当に新しい時代が来たという事、主がこの地に来られたことを知らせるんだ。そのようなことを、天のラッパを吹くこと、すなわち天使長のラッパの使命であると言うんだね。その人がそのことを言ったのだ」とおっしゃって下さいました。

私はペク・シンミョンおばあさんに、協会創立記念にお父様と数人の食口たちで撮った写真を見せてあげました。すると、お父様を指さしながら、「ここに宗教を統一される方がおられる」と喜びました。それで私は、「この方が誰なのか知っていますか」と尋ねました。ペクおばあさんは、「この方は、再臨主です」と答えました。そして、私に、「あなたは今行く道は無限に狭く険しい道であって、誰もが行くことをためらいます。しかし、遠くなく世界の人たちが皆行かなければならない道なので、つらくても難しくても、必ずこの道を行かなければならない」と励ましてくれました。

しかし、私は率直に言って、この方の言葉に半信半疑でした。韓国人一人でもこのように伝道するのが難しいのに、世界の人々が訪れて来るという言葉は百パーセントあっさりと信じられなかったのです。

今はその方のおっしゃったように、世界194カ国に宣教師が出て宣教活動を展開しています。60年余り前の予言が現実として現れて成されています。世界の各国で宣教活動をしている統一食口たちは、韓国を真理の祖国、信仰の母国として憧(あこが)れ慕(した)っています。生きている間に信仰の宗主国である韓国の地に足を踏み入れてみたい、という人が世界各国にたくさんいることを考える時、熱い涙があふれ出てきて、神に感謝を捧げるのです。

第二章

その9  一心教との出会い

第二章  ■ 韓半島に来た再臨主を証しせよ
● 御言葉を宣布する生活
▲ 一心教との出会い

大田(テジョン)からソウルに上がってきて、1954年5月3日協会創立行事に参席しました。協会創立行事は5月3日だったのですが、お父様が5月1日を創立記念日として定めようと言われ、今まで5月1日を創立記念日として記念してきています。


協会創立写真をよく見ると、笠をかぶった老人一人が中に入っています。その人は一心教代表として協会創立行事に参席しました。当時一心教の信徒たちは全羅北道(チョルラプクド)金堤(キムジェ)に集まって住みながら、ソウルに上がってきて白い帯を肩からかけて叫びました。帯には、「イエス再臨の便りが来た」と書いてありました。彼らは青瓦台(チョンワデ)、中央庁、官公署を訪ね回りながら、「イエスが韓国に来たという便りを伝える為に来た!」と大胆に叫びました。劉孝敏(ユヒョミン)氏が彼らのうちの一人を「西大門(ソデムン)の家」に連れて来て、一心教の内歴について聞くことになり、その人が創立行事にも参席することになったのです。

彼らの教主は姜大成(カン・デソン)という人でした。その教主は、1945年8月15日に韓国が日本から解放されるという啓示を受けて予言した人でした。お父様は協会創立行事の後、私に、彼らが一年に一回ずつ開く大祭(たいさい)に参席するように言われました。陰暦の4月8日には、彼らは神様に大祭を捧げます。大祭である陰暦の4月8日をひかえ、三日前にソウルを離れて金堤(キムジェ)に向かいました。

▲左写真は姜大成教主の肖像画。 右写真の中央が姜大成教主と、後ろは弟子たち

彼らは全羅北道金堤郡(キムジェグン)廣活面(グァンファルミョン)學堂里(ハクダンニ)というところに集まって住んでいました。私はその日の午後、真っ黒なビロードのチマに白いチョゴリを着て大門の中に入りました。姜大成(カン・デソン)教主は風采が非常に良い人で、白い韓服を着ていました。

姜教主は、私を見て、「この家は、神様を祀(まつ)った家なので、真っ黒なチマをはいては入ることができない」と言って入れてくれませんでした。それでそこの人たちが、「今すぐ出て行け!」と私を追い出そうとしたのですが、私はあわてずに、もっと大きな声で堂々と、「私は教主様に会うために遠いソウルからわざわざ訪ねてきた者です。このように薄情に対してはいけません」と言いました。すると彼はしぶしぶ、「本当にそうなら、部屋の中には入れないが、床にちょっと座りなさい」と言いました。

床に座ったら、彼はまた私を叱りました。「韓国人がなぜ髪を焼いて(パーマをして)いますか?韓国人は韓国人らしくかんざしを刺さないと」と言うのです。

私はいじけずに、「おじいさんはなぜ他人の私生活を心配しますか?私はすべてのことを神様に聞いて暮らしている者なので心配をしないで下さい」と答えました。

しかし、私の言葉が終わるやいなや、その教主はドシンと音を立ててそのまま後ろに倒れてしまいました。10分、20分しても起きません。すると、主だった弟子数人が声をあげながら、私に掴みかかりました。

「何やら狐みたいな女がソウルから来たと思ったら、私たちの先生を殺してしまった」と言いながら、彼らは慌てた様子でした。医者を呼んで来いと言いながら、私には自分たちの教主を生き返らせろと脅しました。私は心の中では驚きましたが大胆に、「ご覧のように私はこの床の隅に座っていただけで、手一つつけませんでした」と言いました。すると、「この女は妖術をするのか気合術をするのか分からないが、とにかく大変なことになった」と言いました。教主が意識を失ったので、家中がそれこそひっくり返ったのでした。

幸いなことに、しばらく後に教主が意識を取り戻して、起きて座りました。姜教主は、「私は入神して霊界に言って見たところ、この婦人の霊的な位置が自分の位置よりもはるかに高い」と言い、「この婦人がここにいる間、食事やすべてのおもてなしを私にするのと同じようによくしなさい」と指示したのです。

このような姜教主の指示に従って私は手厚いもてなしを受けました。お粥だけでも松の実のお粥や、ごまのお粥、いくつかの果物と蒸した鶏肉も用意してくれました。それは、苦労をして御言葉を宣布していた時代だったので、そのようなもてなしがめずらしくもあり驚きもしました。

いよいよ陰暦4月8日になりました。全国に散在している一心教信徒たちが集まりました。数百人が集まりましたが、大人は髷(まげ)を結(ゆ)い、独身男性は頭を長く編んで垂らしていたり、婦人たちは白い服にかんざしを刺していました。もちろん独身女性たちも髪を結って垂らしていました。大祭は、牛や豚を屠(ほふ)り、これ以上できないほど盛大に供えて過ごしました。

姜教主は大祭をしながら、私に、聴衆に一つ話をするように言いました。私は、「神の摂理と韓国」という主題で話しました。「選ばれた韓国の人々は、世界の前に一番になる民族です。したがって、すべての面で誇ることができる内容を持って暮らさなければならず、人倫的な面で万民の前に見本となる個人や家庭、民族にならなければなりません」と、40分余り御言葉を伝えたところ、聴衆は皆感銘を受けて喜びました。

しかし、奇妙なことは、私が訪ねて行ったその日から、そこに艱難の風が吹き始めたことです。まず、その家庭に大きな不和が起こりました。姜大成教主には夫人が二人いました。ところで、夫人と妾の他に18歳くらいの若い女性が付き添っていました。その若い娘が姜教主の付き添いをしながら、近い間柄であるようでした。私が到着した日から教主と夫人が、その若い娘が原因で夫婦喧嘩を始めました。

夫婦喧嘩をしたあげく、教主は自分の位置と状況をわきまえず、夫人を殴ろうとしました。夫人は教主から逃げ、教主は妻をつかまえようと後を追ったりしました。大祭の準備をしているのに全く笑うこともできない光景でした。

呆れてその光景を見ていると、不思議な幻が見えました。教主の姿が人は人ですが、頭がない人に見えました。その幻を見て、「ああ、この人は何か神様の御旨を知ってはいるが、人格修養が足らず中心がないのだな!中心のない内容を持ってやってきたな!」ということが感じられました。

大祭を執り行う前に、私は姜教主に神の二性性相を説明しました。しかし、私が言う話は納得せず、ただ自分の話だけが正しいというふうに話をし続けました。私は創造原理を中心に、神様に関する御言葉を伝えました。一心教は陰陽の調和を話している所であるので、神様が陰陽としておられるということを言ったのですが、私が言う言葉を全く聞かずに話をさえぎりながら自分の話だけするのでした。

教主が人格的に不足しているように見え、従う人々もそれなりの限界がありました。大祭の後に祭壇に供えておいた食べ物をお互いに分け合い、宴(えん)が繰り広げられのですが、宴の場ではなく、争いの場となってしまいました。信徒同士のけんかが起こって激高し、鎌を持って暴れる人までいました。私は、「人格修養が不足している人々だなあ」と切なさを感じながら、全羅北道全州(チョンジュ)に行きました。

後で聞いたところ、結局、姜教主が惑世誣民(わくせぶみん=世人を惑わしだます)という疑いを受けて留置場に入って死んだということでした。マスコミで、姜教主が死亡した後に18歳になる若い女性と霊魂結婚式をしたという報道がされたのも見ました。私が行った時に夫人と喧嘩が起こったときの、その若い女性ではないかとふと思ってみました。

その後、お父様が私に話して下さった言葉があります。「姜賢實、お前はいつも勇敢で、堂々と出るべきである。真理を宣布する者だからこそ、誰よりも大胆に出て戦わなければならない。この原理は、今まで隠されていた秘密であり、お父様を中心として出てきた御言葉をこの時代の人々が信じれば福を受けるが、反対すれば審判を受ける。だから御言葉を宣布する時は、信念と確信を持って堂々としなければならない。姜賢實が御言葉を伝える時、聞く者が疑ったり反対をするならば、必ずその人に良くない役事が起こるだろう」とおっしゃいました。

その後も伝道中に一心教の信者に時々会うことができました。一心教信者の家には旗が立っています。全羅道地域に多く住んでいますが、旗がある家に行けば、大祭の時に私を見た人々が多くいて、常に丁重(ていちょう)なもてなしを受けました。それで全羅道地域で伝道をするときは、大きな苦労はしませんでした。

第二章

その10 全羅道で出会った人々

第二章  ■ 韓半島に来た再臨主を証しせよ
● 御言葉を宣布する生活
全羅道(チョルラド)で出会った人々

大祭(たいさい)が終わった翌日から私は全羅北道(チョルラプクド)一帯を巡回しながら御言葉を伝えました。全羅北道の裡里(イリ)で起こったことは今でも忘れることができません。

その時、私は大田(テジョン)に行ってペク・シンミョンおばあさんにもう一度会わなければという思いがしました。しかし、大田に行く汽車の切符がなくて裡里(イリ)に行く切符を買いました。裡里(イリ)は予定になかった所でしたが、そのまま裡里(イリ)に行く汽車に乗りました。

夜行に乗って裡里(イリ)駅に到着すると、夜が明けようとしていました。裡里(イリ)駅に到着して、「神様、道を導いて下さらなければなりません」と祈りながら歩いて行くと、何人かの白い服を着たおばさんが私を見て、「先生、今来られましたか」と挨拶をするのでした。どんなに考えてみても知らない人なので、いつ、どこで私を見たことがあるのかと尋ねました。

するとその人は、「私もわかりませんが、今日早朝祈祷をしたのですが、先生の顔が幻で現れました。今日このような人がお前の家に来るはずだからというので待っていたのですが、お出迎えをするようにという言葉があって、今待っていた最中に先生が来られました」と答えながら大変喜びました。

その人は李順姫(イ・スニ)執事(チプサ)でその人の家に行ってみると貧しく暮らしていました。その人は化粧品の商売をするために普段は時間がほとんどありませんでした。しかし、今日は特別に啓示があって、商売に行かずに私を待っていたと言いました。

朝食に粟ご飯を作ってくれていっしょに食べながら、あれこれ話をしました。

「実は、私は聖潔教会に通っていた者です。ところが今は教会に行くことができないでいます」「なぜ教会に行くことができないのですか?」と聞くと、「啓示を受けた内容を話したところ、聖書にない話をすると言って教会から異端と呼ばれ、行かないようにしています」。

その時、どこからかハガキ一枚がきました。その人がハガキを見たところ、「真の父母様から来た手紙です」と言うのです。当時、私たちの教会でも、「真の父母」という言葉がなかった時代でした。お父様を「先生」と言って侍ったので、「お父様」と呼んでいなかったし、聖婚前だったので、「真の父母」という概念がありませんでした。

そうして、その人が手紙を読んだのですが、六千年間父と娘が別れて再会するという内容でした。ところがその内容は、とても切々と学識ある言葉になっていて素晴らしいものでした。六千年間、(別れていた)娘が父に会いたくてどれほど慕い、父がその娘をどれほど愛したか、お互いが相手を探す為に困難を耐えてきたという内容が大変感動的でした。私はその手紙に大きな恩恵を受けました。

それで、「私もそのハガキを一度読みたいです」と言ってハガキを見ました。すると、その内容はその執事が読んだ内容と全く異なるものでした。親戚からきた一般的な見舞いのハガキだったのです。私は心の中で、「本当に不思議だ。見舞いの手紙を真の父母様が下さった手紙だと、それほどまでに感動的に読むことができようか?」という気がしました。

後でお父様にその手紙についての話をして差し上げたところ、「今の時は、御旨も知らず意味もわからないまま真の父母様を証しする人が多く現れる時」と言われました。

この執事は私に、「先生、三日だけでもお泊まりになられて御言葉を話してください」と願いました。それで、私は、「アダムとエバがどのように堕落したのか祈祷してみて下さい」と言いました。その場に座ったままその話をすると、その執事は祈祷室に入って祈祷をし、答を受けて出て来ました。祈祷を終えて出て来た執事は、「アダムとエバが堕落したのは不倫な愛、淫乱のゆえだと言うことです」と言いました。それで、「復活はどのように成されるのか祈ってください」と言いました。「復活とは墓地から死体が起きるのではなく、私たちの心霊が最高の境地に至ることだと言います」と答えました。

その人は原理を知りませんでしたが、祈祷によって答えを得て原理を証ししました。それで再び、「主がいつ、どこで、どのように来られるのか祈ってください」と言うと、「どのように来られるのか祈祷したところ、匙(さじ)が一対現れました。匙が見えることを考えたら、私たちのように食事を召し上がる方のようです。そしてどこに来られるのか祈祷したところ、東方である私たちの韓国に来られると言うことです」と言いました。そのように覚めている人には、神様がすべてのことを教えてくださるということがわかりました。

▲ 光州の李鉉弼(イ・ヒョンピル)先生

全北一帯を経た後に、全羅南道(チョルラナムド)光州(クァンジュ/こうしゅう)に行くことになりました。光州に行っては、李鉉弼(イ・ヒョンピル)先生に会うことになりました。最初につながった人は、呉(オ)長老でしたが、この人が、李鉉弼(イ・ヒョンピル)先生を尊敬して従っていると言って紹介してくれました。呉長老は、自分の息子にも,「お食事を召し上がりましたか?」というふうに敬語を使う方でした。その共同体で生活する人たちは、呉長老だけでなく、自分の同僚同士、または父子の間でもみんなお互いに尊称を使い、敬語を使っていました。

この頃は子供の教育のためにそのような人々がいるようですが、1950年代には、そんな人はほとんどいなかったので大変驚きました。だから私は呉長老に、「なぜ自分の息子に敬語を使うのですか?」と尋ねたところ、「人間は、法ではなく霊がはるかに重要ですが、霊的な面で私の息子は私よりもはるかに高い位置にいるのかもしれないので、私たちはお互いに尊敬し、敬語を使っています」と答えました。山菜ご飯を食べて土を耕しながらも喜び、主が来られるのを切望しながら生活をしている人々として印象が深かったのでした。そんな呉長老の姿を通し、「ここに何かあるな!」と考えるようになりました。

▲李鉉弼(イ・ヒョンピル)先生

李鉉弼(イ・ヒョンピル)先生は90日間断食をした人で、「東光院」という看板をつけて、西洋人からもらった良い建物の中で数十人と一緒に共同生活をしていました。いつも神様のみこころに生きようと努力する人であると、近所では聖者として尊敬を受けていました。

▲東光院

その人は、イエス様が生活していたそのままの生活をしてみようと大変な努力をしながら暮らしていました。夫人が女性警察官を務めた家庭で、経済的に安定していました。しかしその夫人が夫のために新しい服を作って着せてあげると、その日のうちに出て行っては乞食の服に着替えて帰って来たといいます。しらみがうようよいるような乞食の服を着て来たので夫人が怒って何か言うと、これからは絶対にそうしないと夫人をなだめておいては、再び乞食たちのいるところに行って散髪をしてあげたり、お風呂に入れてあげたりまでしたのです。

そして白いご飯を作ってあげると大変驚いたと言います。なぜなら、罪人がどうしてご飯を安らかに食べることができるのかということでした。一日の食事は二食なのですが、朝は山菜のお粥、夕方には麦のお粥を食べて、直接農作業をしながら自立する生活をしていました。

ある日、その人は説教をしに壇上に上がったまま1時間の間、何も言わずに無言で立っていたそうです。何の話もせずに、じっと立っているだけなのに、10分が過ぎ、20分が過ぎ、30分が過ぎると、そこに座っていたすべての人々が痛哭(つうこく)をし悔い改める役事が起ったりしたと言うのでした。

朝鮮戦争が起こった時は、90日の断食をしている最中でしたが、その時、あるアメリカの宣教師がアメリカに帰れずに残っていました。それで、その宣教師を背負子(しょいこ)で背負って信徒たちと一緒に山に入ったのです。山の中でみんなで一緒に避難していたのですが、ご飯を炊くとき火が出て、山がみんな燃えてしまいました。やっと火を消した後に皆が集まって、悔い改めをしました。

集まった人々は皆、自分の過ちで火が出たと悔い改めをしたというのです。「私がご飯を炊くときに、関心を持って注意しなければならないのに誤った」「違います。この場所よりも石がある別の場所を選ぶべきでした」「違います。火が出た時に私が慌て驚いて、火を消さなかったのが問題でした」と言いながらお互い泣きながら悔い改めて一つになったというのです。

その話を聞いて感銘を受け、私も朝の礼拝の時間に参席しました。初めてその人を見たら、体は痩せていましたが、顔は輝いてました。熱心に説教する内容が全く恩恵深かったのでした。ところで、私の耳にはっきりと声が聞こえてきました。誰かが、「賢實(ヒョンシル)、賢實、賢實!」と私の名前を三回も呼ぶのです。お父様が私を呼んだような気もしました。

その声が余りにもはっきりしていたので、思わず座った席でむっくり立ち上がってしまいました。礼拝時間で真ん中に座っていたのですが、誰かが私を呼んだようなので周りを見回しました。すると、後ろに座っていた方が私のチマを引っ張りながら、「今は説教の時間です。なぜ立って礼拝を邪魔するのですか?」と私を叱りました。その時になって我に帰った私は、恥ずかしくてどうしていいかわかりませんでした。

ソウルに戻ってきてからそのことをお父様にご報告申しあげると、お父様は、「神様が姜賢實を本当に愛しておられるんだね。まちがった方に行かないかと、御旨を見捨ててしまわないかと、心配して名前を呼ばれたんだね」と言われました。そのお話を聞いて、神様はもしかしたら他の所へ心を奪われるかと思って、お父様の声で私を悟らせてくださったことに気付きました。それほど神様が私を保護して下さったことを感じ、感謝の祈祷が自然に出ました。何もない私に大きな期待をかけて直接的に導いて下さる神様の愛に頭(こうべ)を垂れざるをえなかったのです。

その礼拝の後、李鉉弼(イ・ヒョンピル)先生と一対一で向かい合って復帰原理について御言葉を話し合いました。その人の聖書を見ると、赤い線がたくさん引かれてありました。それで、「聖書をたくさん読まれるのですね」と言ったら、「いいえ、違います。これは私の聖書ではありません。私は本に赤い線を引くことはしない者です」と言いました。「本当に謙遜な人だな!」と思いながら対話を続けていきました。

しかし、対話をすればするほど、その人が謙遜でありながらも自分というものがありました。謙遜に私の話を聞いているようなのですが、自分の話だけを繰り返して言うのが息苦しく感じました。それで、「謙遜なふりをしているが、実際には自己への固執が強い方だな」と思いました。

すると突然、麦を収穫して脱穀をしようと積み重ねていた所から火が出ました。機械に何か間違いがあって火が出たということでした。しかし、偶然にも私がそのような失望をした瞬間に火が出たので、神妙な気がしました。それで、お父様に報告を差し上げると、「今は審判する時である。善と悪、真と偽を分ける役事をしているので、必ず覚えておきなさい」と言われました。

李鉉弼(イ・ヒョンピル)先生を見ながら、神様は四方で聖徒たちを準備をさせておかれることを知ることができたし、審判が直接的に行われることも感じることができました。

<参照>이현필  李鉉弼(イ・ヒョンピル)


호남의 성자 이현필_주님 가신 길  https://www.youtube.com/watch?v=NqHyM4AT1OM

(第2部)

その11  崔先吉女史と7.4事件

第2部  ■ 韓半島に来た再臨主を証しせよ
 ● 御言葉を宣布する生活
▲ ソウルでの生活


▲北鶴洞にあった最初の本部教会
(ソウル城東区北鶴洞の三大門教会で、世界基督教統一神霊協会が創立された)

ソウル城東区(ソンドング)北鶴洞(プッカクドン)391-6番地の三大門(セデムン)教会では劉孝敏(ユ・ヒョミン)氏を中心に、風景写真を撮って複写して売る事業を始めました。李秀卿(イ・スギョン)氏は、道端に座って絵に色を塗って売りながらお金を得ました。

その後、複写した写真がそれなりによく売れて生活の助けになりました。販売する写真を準備するために夜遅くまで写真を複写したあとには、その写真を洗わなければなりませんが、薬が強くて手が絵の具が染みついたように黄色くなってひび割れました。

ある日、お父様がコールドクリームの大きいものを買って来られました。お父様は、「大きいと言ってむやみに使わず節約して使いなさい」と言って笑われました。

その家には水道がなく、井戸だけがありました。しかし、その井戸水は飲み水として使えませんでした。それで、理髪店をしていた隣から飲み水を汲んで来て使いました。しかし、他人の家に朝から水を汲みに行くことができなくて、いつも気をつけて様子を見なければなりませんでした。

狭くてみすぼらしい家で服を着替える空間もありませんでした。いつかある時、三大門教会時代の食口が私に、「お姉さん、昔は着替える所もなく、台所で着替えて苦労していた時のことを思い出しますね」と言ったので、お互いに笑ったことがあります。

劉孝元(ユ・ヒョウォン)初代協会長は、御言葉を聞きに来る人々に斜めに横になって語られました。お父様が隣に座って話を聞かれる時もありました。時には御言葉を聞かれながらもどかしくなると、直接立ち上がって御言葉を話すこともされました。そんな時には、主にイエス様の心情、事情、立場、使命、そして神様の苦痛に対して清山流水のように御言葉を話されました。

※靑山流水(せいざんりゅうすい / 청산유수):弁舌(べんぜつ)がさわやかなこと

当時の生活は依然として厳しいものでした。お父様の食事を準備するのも大変なほどでした。すると米屋への借金が一日一日増えていきました。そんなある日、米屋がこれから掛け売りはできないと言いました。私はどうすればいいのか心配になりました。

そのようにしばらく心配ばかりしていると、李得三(イ・ドゥクサム)お姉さんが小麦粉を布袋2つ分、タクシーに乗せて来ました。その時、李得三(イ・ドゥクサム)お姉さんを見て、救い主に出会ったかのように嬉しかったです。突き当りにぶつかるたびに、難しいことが起こるたびに、誰かを通してでも神様が役事されていることがわかりました。

1955年初め、東大門(トンデムン)興仁洞(フンインドン)251-44番地に引っ越しをしました。小さな家にいてから大きな家に引っ越したので嬉しかったです。興仁洞(フンインドン)の家から新しい役事の炎が起こりました。女子大生がたくさん入ってきており、新しい食口たちが増え始めました。集会場所は広くはなく、ぎゅうぎゅう詰めになり、遅れてくる人たちは外で立って礼拝に参加しました。

お父様は血と汗と涙にまみれ、痛哭されながらお話しされました。御言葉が最高の境地に達したときは、息が止まったかのように切なく悲しまれました。心が正しく立っている真の人であれば、膝を屈して共に同化せざるをえない雰囲気でした。写真業でお金もたくさん集まり、人もたくさん集まり、本当に教会が興(おこ)りました。

三大門(セデムン)教会でつながっていた崔元福(チェ・ウォンボク)、金永雲(キム・ヨンウン)先生も興仁洞(フンインドン)で実を結び、黄煥寀(ファン・ファンチェ)氏など多くの食口たちが繋がりました。三大門(セデムン)教会では百人余りの人が御言葉を聞くことは聞きましたが、実を結ぶことはできていませんでした。

三大門(セデムン)教会にいたときには、劉孝元(ユ・ヒョウォン)協会長が御言葉をいくら伝えても実が結ばれなくて苦労しました。ある日、私を見て、「賢實(ヒョンシル)さん、なぜこのように伝道がうまくいかないのでしょうか?数カ月も御言葉を伝えたのに、食口になる人が一人もいないですね。どうすれば伝道ができるでしょうか?」と言い、残念がることもありました。そうだったので、興仁洞(フンインドン)で一人一人結実を成すたびに、お父様が大変喜ばれたのでした。

▲ 奨忠洞(チャンチュンドン)教会と7.4(ななよん)事件

※7.4事件:1955年7月4日、お父様の西大門刑務所収監


▲当時の西大門刑務所
そのように人が多く集まる興仁洞(フンインドン)から、奨忠洞(チャンチュンドン)に引っ越しをしました。ところが、引越ししてすぐに問題が起こり始めました。人々が集まると、キリスト教と社会が色メガネで見て、小さなことから大きなことまで問題になりました。毎日のように中部警察署の刑事たちが出入りしたのです。

ひとしきりごたごたしていた1955年7月2日、崔先吉(チェ・ソンギル)夫人が奨忠洞教会を探してやって来ました。来るやいなや、お父様がおられた部屋の中に入っていきました。お父様と話をしていた崔女史は、突然ゴムのはき物でお父様の顔を叩き始めました。誰にもわからないようにゴム靴を後ろに隠してもっていたのです。

お父様は何も言わずにただ打たれておられました。私と金仁珠(キム・インジュ)勧士が横にいたので、駆けつけてゴム靴を奪いましたが、その時のお父様の表情が今でも忘れられません。お父様は崔夫人を叱りもされないで、ただじっと耐えておられました。後になって私は、「どんな事でも起こる時には起こるのだな」と思いました。

二日後の7月4日、お父様が警察署に連行され、西大門(ソデムン)刑務所に収監されました。崔女史とキリスト教界が一つになって風紀紊乱(ふうきびんらん)などの疑いで告発したのですが、容疑は適用されず、兵役忌避(へいえききひ)の疑いで裁判を受けることになりました。その間新聞には、統一教に対する悪い記事は言い表すことができないほどたくさん載りました。顔を上げて歩くことができないほど恥ずかしい内容が多かったです。

それでも西大門刑務所に面会に行くたびに、お父様は伝道の話だけをされました。お父様は人の命を救うために狂っておられるようでした。その時私は、「今、外の状況は伝道をすることができる状況ではありません」ということを申し上げました。しかし、お父様は、「それが何の関係があるのか?真理は常に勝利するのである。だから休まず伝えなさい」と言われました。そして、教授の誰々、長老の誰々、牧師の誰々などと名前を挙げられ、会いに行くように催促されました。

その確固とされたお父様の姿を見ながら、私はまた深い感動を受けました。「普通の人であればそのような状況の中で落ちこみ、将来への不安と絶望を感じるのに、お父様は本当に神と共におられる方であるな!」という事を感じました。

お父様が西大門(ソデムン)刑務所におられる間、食口が一つに団結しました。主日(聖日)の説教は初めは安昌成(アン・チャンソン)先生がしましたが、徐々に私がするようになりました。師匠を失ってさびしく祭壇を立てた教会の姿は、本当に神様が来られて役事されざるを得ない雰囲気でした。

90日の間、お父様もおられないし、経済的にも過酷な状況でした。それで私たちは庭に植えておいたカボチャを毎日のように採って煮た味噌汁だけを飲んで暮らしました。

そうしていた中、ある日、崔先吉(チェ・ソンギル)女史が手押し車に引っ越しの荷物を運んで来ました。お父様が奨忠洞(チャンチュンドン)教会におられるので自分も奨忠洞教会に引っ越して来ると言って荷物を持って入ろうとしたのです。食口たちは、「ここは先生の家ではなく教会であり、教会に奉仕する食口たちが住んでいるので、入ることはできません」と言いました。すると崔女史は興奮しながら引っ越しの荷物を投げ始めるのでした。食口たちがこれを防ごうとしばらくもみ合いをしたこともあったのです。そのような写真が新聞に出たりしました。

食口たちが完全に門を閉め鍵をかけて受け入れてくれなかったため、崔女史は西大門刑務所におられたお父様を訪ねて行きました。「私はあなたの妻なのに、食口たちが教会に入れないようにします。あなたの家であり、私はあなたの妻なので、当然入って行くことができるのではないですか」と言いました。するとお父様は、「その教会は私のものではない。食口たちがお金を集めて準備したものだから権利があるなら信徒にあるのであって、私にはどのような権利もない。だから、教会に入るという考えは最初からしないように」と言われました。結局、崔女史は奨忠洞教会に引っ越してくるのをあきらめて帰って行きました。

苦痛も多かったですが、恩賜(おんし)も多かったです。金山(キムサン)長老と鶏龍山(ケリョンサン)の道人など、啓示を受けた人々が訪ねてきて、お父様をメシヤとして証ししました。

ある日、金山(キムサン)長老が霊的に啓示を受けて奨忠洞教会を訪ねて来ました。彼は祈祷の中で、「文鮮明先生は再臨主になられる方です。今は獄中で受難に遭っておられますが、遠い後日、いつかは人類の救世主として登場できる日が必ず来るでしょう」という啓示を受けて奨忠洞教会を訪ねて来たのです。

はじめは教会がどこにあるか分からず、路地で遊んでいた子供たちに、「統一教がどこにあるのか」と尋ねたそうです。すると子供たちが、「統一教って何?」と言ったので、「文鮮明先生が礼拝をする教会が統一教だ」と言うと、「そこに行けば地獄に行くんだって。そこは異端だって。そこはだめになったよ」と言いながら道を教えてくれたということです。

子供たちが教えてくれた道に従ってその人が教会に到着したとき、私たちは礼拝をささげている最中でした。彼は教会に到着するとすぐに中に入りました。そして、礼拝中に突然、「私がちょっと言うべき話があります」と言いながら前に出ました。最初、食口たちはびっくりして驚きましたが、お父様が人類の救世主だと証しますという彼の言葉に、食口たちみんな感動を受けました。師匠を失って寂しく礼拝を捧げていたので、神様は金山(キムサン)長老を送って、私たちに力を与えて下さったのです。そして、彼が教会を訪ねて来る時の話をしながら、「町内の路地で遊ぶ子供たちも分かるくらい統一教が有名になったとは、まことに奇異なことだ」と言って食口たちを笑わせました。

1955年7月初めのある日は、智異山(チリサン)で千日間修道した三人が訪ねて来ました。その三人は千日の間、智異山(チリサン)に登って祈祷をしました。祈祷を始めて千日になった日に答えが来ました。「お前たちが千日ここで祈祷したのは、統一教・文鮮明先生に会う為の準備だった。今、祈祷を終えて家に帰る前にソウルにいる文鮮明先生に会いに行け」という声が聞こえてきたというのです。そして、三人とも同じ啓示を受けました。

三人は千日祈祷を終えて、それまで長くした髪を結ってぐるっと巻きあげ、そのままの姿で奨忠洞教会を訪ねて来ました。早朝から急いでソウルに来て、統一教がどこなのかいろいろな人に聞いて探して来たのでしたが、その時は礼拝が終わる頃でした。

礼拝が終わってから三人のうちの一人が、「言うべき話があります」と言い、啓示を受けた内容を話しました。「今は、文鮮明先生が獄中で苦労しておられますが、この方は世界の人類の前に救世主として来られた方です。今日、我々は文鮮明先生が立てられた統一教を訪問したので、これがどれほどうれしい事でしょうか?」と言いながら三人は踵をあげて踊り始めたのです。かなり広い礼拝堂をぐるぐる回りながら踊りを踊った光景は壮観でした。

「私たちが沈んで、力を失ってしまって落胆しているとき、神様が外部の人を送って力を出すように証しをさせ、激励もして下さり、踊らせたりもされるんだ」と思いながら慰労を受けました。

(第2部)

その12  出監と青坡洞時代

第2部  ■ 韓半島に来た再臨主を証しせよ
● 御言葉を宣布する生活
▲  出監と青坡洞(チョンパドン)時代

1955年10月4日、西大門(ソデムン)刑務所からお父様が出監されました。私たちは3カ月の間、孤児のように過ごしてから父を取り戻した立場なので、その喜びは言い表すことができませんでした。


お父様は出るとすぐに奨忠洞(チャンチュンドン)から青坡洞(チョンパドン)に引っ越しされることを急がれました。それで出監されてから三日目の10月7日に青坡洞1街71-3番地に引っ越しをすることになりました。

青坡洞で過ごした時のお父様は、私に一日に三軒を通いながら証ししなければならないと言われました。私はお父様の指示どおりに一日に三軒以上訪ね回りながら御言葉を伝えました。

しかし、一日に三軒を訪ねることが思ったより難しかったです。昼食として食べるパンをかばんに入れ訪問伝道するのに、門も開けてくれない家が多かったです。門を開けても、「統一教から来ました」と挨拶をすると、ある家では、悪口を言い、またある家は棒を持って出て叩きもしました。さらには、バケツにあった水をかけながら、「この異端児!」と言って追い出しもしました。

ある日は、水の洗礼を受けて、全身がびしょびしょに濡れて他の家に行くことができませんでした。心まで力が抜け教会に戻って来ましたが、申し訳ない気持ちでお父様に報告も捧げることができず、部屋の隅に隠れてうずくまって座っていました。

ところが、お父様が、「姜賢實!どこへ行った?」と探されました。私の小さな声で、「ここにいます」と言ったら、「なぜそのように隅に隠れているの?」と聞かれました。私はさらに小さな声で、「今日は昼に伝道に行ったのですが、水の洗礼を受けたので、伝道は止めて三軒をみんな回れずに帰って来ました」と報告を差し上げました。するとお父様は、限りなく優しい声で、「今は難しいが、必ず栄光の日が来る」と慰労して下さり励ましの言葉を下さいました。

ある日には郊外に出て行きたくなり、道峰洞(ドボンドン)に行くことになりました。その日も、「神様、導いてください」と祈祷をして出発したのですが、ある家に入りたくなり入って行きました。

すると、綺麗な主人のおばさんがあまりにも嬉しそうに迎えるのでした。「どうして私をこのように喜ばれるのかな?」と思ったら、「私は教会に通う執事(チプサ)です。ところで、今朝、祈った中で大切なお客様が家に訪問するから食事のもてなしをよくするようにという声が聞こえてきました。それで食べ物を準備しました。しかし、今日大切なお客様が来なかったらどうしようかと思って、私たちの教会の信徒たちを呼びました。それで、ちょうど食べ物を食べようとしたのですが、先生が来られたのです」と言いました。

それで見てみると、信徒たち数人が来ていました。そして精誠を込めて準備した料理が食卓に並べられていました。そして食べ物を一緒に食べながら、今日(こんにち)の時についての御言葉を話したところ、みんなが感動を受けて喜びました。

「私たちが時を知らずに信じれば不幸な者になります。二千年前にイエス様の当時にもユダヤ民族がどれほど来られるメシアを待ちましたか?待ちましたが、時代を知ることができず、神様が願わない信仰の道を行ったので、イエス様を理解することができず失ってしまいました。私たちも再臨主を待っていますが、この時代に合わない信仰の道を行けば、主を迎えることができないかもしれません。どの雲から雨が降るか分からないように、主がどのように来られるか分かりません。もし乞食として再臨しても、我々は喜んで迎えることができる心構えを持つべきです。また、非常に卑賤(ひせん)な立場で来られても侍ることができる心構えが必要です。したがって、常に我々は穏(おだ)やかで謙遜な心を持って再臨のイエス様を迎え入れることができる心構えが必要です」。私が話している最中にも感動して、信徒たちが「アーメン、アーメン」と言いながら一つの心になりました。

帰ってきてお父様に報告差し上げたら、「今の時は心の扉を開いておけば、いくらでも新しい御言葉を受け入れることができ、道も開(ひら)ける時代になった。そんな恵沢を得ることができる時がきた」と言われました。そのように御言葉を伝える生活を8カ月ほどしました。

1956年6月10日、私はお父様の命(めい)を受けて大田(テジョン)に開拓伝道に発ちました。大田に発つ時には、私はやる気が充満して希望に燃えました。盧東輝(ノ・ドンフィ)先生が御言葉を聞いて感銘を受け、大田にあった自分の家を教会に捧げました。いつも泊まる所なしに伝道に出て行ったのに、すでに準備されている教会が私を待っていると思うと心がわくわくするほどでした。

ところが、その家に到着してみると盧東輝(ノ・ドンフィ)先生の友人がその空き家でダンスホールをしていました。その友達が簡単に家を空けてくれませんでした。仕方なく40日の間、下宿を定めておいて伝道しました。

そのように下宿に泊まりながら市内を歩き回って伝道しましたが、思うように伝道がうまくいきませんでした。より切ない神様の心情が体恤されました。神様が子女を失ってしまってどれほど切なく悲しまれたかを感じ、胸が締め付けられました。

私は毎日大田(テジョン)市内を七周回り大田復帰の為に祈りました。道を歩く時、「神様が行かれた道もこのように険しい道であり、私たちの真のお父様が行かれた道もこのように、険しく困難な道であられたな。神様はそれを知れと、私にこのような道を歩ませられるのだな」と思いました。「どれほど辛かったか、どれほど凄まじい事情が多かっただろうか?」という考えに涙もたくさん流しました。今も大田のことを思うと、神様の痛い心情を多く体恤した所であるという思いが浮かびます。

幸いなことに40日が過ぎると盧東輝(ノ・ドンフィ)先生の友人が家を空けてくれました。その後、毎日のように大学の正門前に立って、学生たちを伝道しようとしてある一人の人に会って原理講義をしてあげました。その人が別の大学生を連れてきて講義を聴くのですが、ある日は8時間一カ所に座って講義をしたこともありました。当時、お父様に捧げた手紙があり、ここに添付します。

****************************************************************************************************
先生に捧げます。

その間(かん)も、御旨の中で萬寿無疆(ばんじゅむきょう/ 健康でいつまでも長生きすること)であられることを願います。摂理なさるのに、大きな栄光の光が満天宙に照らされ、いつしか地上の全人類は再び新しい生を受ける喜びを心と体で表すことでしょう。

忘れられない7月、昨年7月4日に地上の悪魔たちが総動員され、天の役事を抑えようと侵入したその日が思い出されます。神がそのようにさせて任せられた、天の役事を誰が破綻させることができましょうか?

御言葉で語られ経綸されたので、完全に勝利されることと信じます。今では英国から来たヨホスア(ジョシュア)氏と共に全食口が喜び、私も喜んでいます。

大田で御言葉を聞いて食口になる方が10人余りいます。場所の問題で正式な集会はできていません。7月10日まで家を空けると言いましたが、まだ分かりません。統一教会が大田に教会を建てることが、すでに噂が広がって既成教会で騒いでいるようです。今後、興味深い結果が示されるものと信じ任せて、毎日外に出て御言葉を伝えて、夕方には訪ねて来る方々に講義しています。新しい御言葉が表われる所ごとに喜びがあり、希望があり、能力が共にあります。既成教会の信者たちの中には、イエス様を新しい心で信じなければならないと告白する人もいます。

明日は全食口たちが集まって7月4日に入監された日を記念し、新しい出発に拍車を加えながら新しい勇気をもって、地上に現れた再臨主を証しする真(しん)の姿を全世界に見せてやる日になることを祈ります。

今、私は一人で孤独な立場に処しているので、お父様が毎日現れて見せて下さり教えて下さり、同行・同事・同役しておられます。御旨と愛が共にあられることに感謝を捧げます。

同事:仏が重生と共に喜びと悲しみも共にして導く
同役: 宣教などの仕事を共に遂行すること

1956年7月3日、大田(テジョン)にて
姜賢實(カンヒョンシル)拝(はい)

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1957年7月20日、第1次公式40日開拓伝道期間に全羅南道(チョルラナムド)光州(クァンジュ/こうしゅう)に行くことになりました。朴ミンスクさんといっしょに発つことになりました。その時、李康七(イ・カンチル)勧士(クォンサ)が光州が自分の実家ですと言いながら、光州の復帰のための部屋を得なさいとお金を献金してくれました。それをもとに部屋を得て新たな心情で伝道を始めました。多くの人々が御言葉を聞いて喜んだし、困難でしたが少しずつ結実が生じました。

しかし、光州でも引っ越しを何度かしました。ある時は保証金もみんな踏み倒される場合もありました。その時はあまりにも驚きすぎて気絶をし、病院に運ばれたこともありました。

それでも、光州では学生が多く伝道されました。その中で一人の男子生徒が御言葉を聞いて、最初はこの道を行くと言いましたが、少し時間が過ぎると勉強もしなければならなくなり、忙しくて公的な道を行けないと言いました。まるで天が崩れるように心が痛みました。諭(さと)し励まし、また精誠を捧げて再び決心できるようにしました。その後、彼は御言葉どおりに生きようと努力し祝福も受けました。その学生を導き養いながら、神様が一人の人を育て導いて来られる事がどれほど大変なことかを感じることができました。

「一人の人の心さえも神様に向かわせる事が本当に難しい。六千年の復帰摂理の役事をして来られた神様は、どれほど多くの困難を経て来られたか?そして、肉身をまとい、神様を代身して現れたお父様は、どれほど大きな困難を耐えて来られただろうか?これらすべての困難を克服した先生を見本としなければならない」と思いながら、光州(クァンジュ)を開拓しました。光州には長くいて、木浦(モッポ)まで行って説教をしたりしました。

全羅南道(チョンラナムド)を巡回しながら、順天(スンチョン)に行ったことが思い出されます。順天は、教育都市であるうえ、水が綺麗であるのが良くて、印象が深かったです。手足を洗って座ってみると通り過ぎる人々は皆、顔が美人でした。整った顔の肌は真っ白に桃の花が咲いたように頬が赤く美しく見えました。ですから、通り過ぎる人々の顔を見ながら、「ここは水がいいので、他の地域の人々よりも人が綺麗なんだろう」と思いました。

後でお父様に、「順天(スンチョン)は水が良くてそうなのか、人々が皆綺麗で、美男美女が多かったです」と報告を捧げました。そうしたらお父様は、「何、水がいいからそうだと?姜賢實の心情が最高度に達したから、みんな美女に見えて美男子に見えるんだよ。心情が良ければ見るものすべてが美しく見えるんだね」とおっしゃいました。

(第2部)

その13  神とサタンが対決しているパゴタ公園で原理を伝える

2部最後となります。これとちょうど合う貴重なyoutubeがあったので、ご覧ください。
掲載する文を読んでくださっています。日本語翻訳が終わって製本の直前に、翻訳文原稿を弟子に読ませて最終確認をされる姜賢實先生です。はじめは交代で読むということで、姜先生とお弟子さん交代で読み始めましたが、姜先生が大変なのでお弟子さん一人で丸一日掛けて本一冊分を読まれたそうです。本当に汗と努力の結晶ですね。

この時点では、全訳された日本語版が出るものと思っておられたそうです。しかし、数ヶ月後に出版された日本語版は、題名が変わり、さらに成和出版社は姜先生に無断で、当時の真の母であった崔先吉女史に関連する部分を削除したそうです。
そのことに姜先生は失望されました。


「パゴダ公園で原理を伝える」姜賢實先生回顧録 

https://www.youtube.com/watch?v=kbW-AxDhBKo

https://www.youtube-nocookie.com/embed/kbW-AxDhBKo

パゴダ公園は、先日ご紹介した33人独立宣言書、3.1運動と非常に縁がある公園です。
民族の熱い思いが込められ、神とサタンが対決しているパゴダ公園。
さらに姜先生が精誠を込められたパゴダ公園です。

第2部  ■ 韓半島に来た再臨主を証しせよ
● 御言葉を宣布する生活
▲ パゴダ公園で原理を伝える

翌年の1959年7月から7年の間にタプコル公園で路傍伝道をしました。今のタプコル公園は、その時はパゴダ公園という名前でした。お父様は私に、「パゴダ公園で正式に講義をしなさい」と言われました。それで、伝道を始めましたが面白いことが多かったです。

お父様は多くの期待を持たれて、毎日、私の報告を聞かれました。毎日どんなことがあったのか興味を持たれて私を探されました。食事をされながらも、「姜賢實はどこにいるの?」と探される時もありました。食事を召し上がりながらさじをご飯の上に浮かせたまま、私の報告が終わるまで口を開けたままじっと聞くこともされました。「お食事を食べながら聞かれればいいのに…」と思ったこともあるほど、大変な関心を持たれました。

最初に講義を始めた時は真夏でした。当時タプコル公園は、全国の人々が訪ねて来ていた有名な所なので、講義を開始すると、ある時は千人を超える人波が集まりもしました。私は、神様がこの時代に向かって言おうとされる御言葉を代身で伝えるという心情で講義をしました。全国各地から来た人々の前で講義をしたら、地方巡回で回った時の私だと分かって、来て挨拶をする人もいました。

路上に黒板をかけておいて、まず題目を書きます。例えば、「堕落論」と書くと、男性たちが、「あの女、字を本当に綺麗に書くなあ」という言葉を言います。私は実際には字が下手です。字が下手なのにそう言われると不思議なので、お父様に報告を差し上げたことがあります。すると、お父様が笑われて、「姜賢實は、狂った人が踊りを踊るように字を書くのに、何、それで字が上手いだと?それは自分の心でそう言うんじゃないんだね」と言われました。

伝道のためにタプコル公園の近くに講義室を一つ借りておいて、毎日午前中に公園内での講義を一回して、その講義を聞いた人々を集めて、講義室に連れて行きました。「講義をもっと深く聞きたい方は、私について来なさい」と言ったら、四、五十人の人たちがついてきました。成り行きを知らない人が見たら、背の低い女性の後について人々が団体で歩いていくことを不思議に思ったでしょう。講義室では、毎日昼12時に講義をして、午後に再びタプコル公園で講義をした後、5時頃に講義をもう一度しました。

人々が集まって講義を聞けば、得意になって講義をしましたが、私の心ではないようでした。後では黒板に手書きではよく見えないので、掛け図を掛けておいて講義をしたりしました。その時、伝道された人が多かったです。

もちろん、反対も多かったです。まず警察から許可を受けてする講義ではないので、初期には警察に捕まっていかれることもありました。ある日、鍾路警察署に連行され、一晩警察署にいてから出てきたこともあります。警察が内容を聞いてみた後には、幸いなことに黙認してくれました。

たまにお酒を飲んで乱暴をふるう人もいました。黒板を倒して足で踏む人から黒板の字消しを投げる人までいて、騒ぎを起こされたりもしました。さらにゴムの履物で私の頬を叩く人までいました。そんな時、一緒にいた勧士たちと心を一つにして闘いました。

天気も問題でした。雨の日はそれでもましですが、雪の降る日は寒く雪が積もっていて人がほとんどいませんでした。そんなある日、「お父様、今日は雪が降るので出て行かずに休まなければなりません」と言いました。

「何でそんなことを言うのか?」
「雪がたくさん降って人がいません。雪が降る日は人が一人もいません」
「人がいなくても講義をしなければならない」
「誰もいないのに一人で講義をしていると、人々は私を狂った者だと思うでしょう」
「それでもしないと!今、パゴダ公園は、神様とサタンが決戦をする所だ。だから、本当に人がいなければ、祈祷でもして帰って来ないと、そこをそのまま空けておいてはいけない。昔のイスラエルの民がアマレクと戦った時、モーセが手を上げるとイスラエルは勝ち、手を下げるとアマレクが勝ったんじゃないの?
それと同じように韓国の中心はソウルであり、ソウルの中心部は鐘路(チョンノ)であり、その中心はパゴダ公園であるだから、パゴダ公園で今、神とサタンが対決している
そうなのにパゴダ公園で一日でも御言葉を伝えなければ、サタンがどれほど遊び騒いで喜ぶだろうか?だから、人がいなくても、そこで祈祷して講義するその心情を持ってパゴダ公園をひと回りしてでも来い」と言われました。

ある日は声がかれて言葉が出ませんでした。マイクもなしに屋外で御言葉を伝えるために、いつも喉がかれていました。それでも人が多く集まれば集まるほど、より得意になって講義をするようになりました。そうすれば喉がもっとかれてきて声がまったく出ません。

それでお父様に「先生、ご覧のように喉がかすれて声が出ません。三日間だけ休ませてください」と懇願しました。するとお父様は、「言葉が出なければ八角亭(=公園の真ん中にある休み場)の上に上がって、手振り、足振り、身振りでもして立っていろ」と言われました。「もし私がパゴダ公園の八角亭の上に立ってそうすれば、みんなが私が狂ったと言うでしょう」と言いました。

そう言うと、「姜賢實が本当に彼らを御言葉で生かしてあげないといけないという心、そのように命を救うという切実な心に狂っていれば、手振り足振り身振りを見て食口になることがある。今、たとえ食口となる者がいないとしても、蒔(ま)いておいた御言葉は、宇宙空間に残り、いつかは誰かに実を結ぶようになる」と言われました。

だから365日、一日も休まずにタプコル公園に行きました。そして鄭錫温(ジョン・ソゴン)おばあさんと金喜玉(キム・フィオク)勧士と一緒に精誠をたくさん込めました。そのような内容を知らない人たちは、ただ私がタプコル公園で講義を長くしたことだけを知っていますが、そのような精誠が土台になっています。毎日朝早くほうきで公園を掃(は)くことから始めました。神様とサタンの戦いで神様が勝利されることができるように祈祷と精誠を込めました。

特にタプコル公園で講義している間は私的な事をすることができませんでした。講義をする前に、必要なものを買おうとどこかに立ち寄っていくと、その日は講義が失敗に終わりました。誰かにちょっと会いに行っても言葉が出ませんでした。いつもしていた講義も考えが浮かばず頭が真っ暗になったりしました。人々もよく集まらず、講義室に行く人も特にいませんでした。精誠をどれほど込めて黒板の前に立つかによって、講義がよくでき反応も変わりました。

私がどんな思いを持っているかが、あまりにも敏感に現れたので、神様の摂理が機械よりも精密であることを感じました。その後、私は公的な人生を生きる人は、何を優先するべきかをよく選択するべきだと何度も話していました。お父様はその時、「講義をすることが問題ではない。講義をする心の姿勢が間違っている場合、神は受けることができず、サタンが受けるようになる。それを注意しなければならない」と再三強調されました。

私だけでなく、講義室で夕方の講義をしていた講師たちがたくさんいました。みんな熱い誠を尽くして講義をしたので、講義が終わったら疲れていました。ある日、講義を終えて帰ってくる電車の中である講師が、「姜先生、今日は寒くてお腹がすくし疲れますね」と言いました。体も弱い人だったので、そのような話をしたので、私の心が余りにも痛くて、お父様にそのことを話して差し上げたこともあります。

お父様は報告を聞いてすぐに、「そうなの?体が病気になったらだめだ!」と言われながら金一封を下さり、「これを持って行って明日あげなさい」と言われました。それで翌日、お父様が漢方薬を作って飲みなさいと言われましたと、そのお金を渡してあげたこともあります。

タプコル公園で講義していた7年の間、伝道活動と復興団活動など多くの活動がありましたが、私はタプコル公園の講義だけ7年間休まずにしました。私はお父様がいつも一つの命でも救って、天の側に立てようと努力されていることを感じました。人を探し求め、命を生かして救う為にすべてを捨てて全力投球して出て行かれることを切実に感じました。

講義の途中で時間が少しできれば統和堂に行って祈りを捧げました。統和堂とは金寛成(キム・グァンソン)長老の薬局でしたが、鍾路2街(チョンノイ-ガ)に位置しており、タプコル公園から近かったです。そこにお父様の祈祷室が準備されていて、そこで講義の準備をし祈祷を捧げました。

ある日、祈祷中に、「昔、ペテロに与えた倍の恩賜(おんし)をあなたにやろう」という大きな声が聞こえました。しかし、私はそのような恩賜を受けるに限りなく不足している者でした。だから、「違います。私たちの教会には私よりも立派な人がたくさんいます。彼らにそのような恩賜をあげて下さい」と言いました。すると、三度そのような声が聞こえました。私は続けて、「できません。私はそれを受ける資格のない者です」と答えました。

夜、お父様に報告を差し上げたらとても怒られました。「ペテロは一日に三千人を悔い改めさせて救ったが、その二倍なら六千人を悔い改めさせて救うことができる恩賜だ。そのような恩賜を与えるというのに馬鹿のように受けないと言ったのか?その与えられた恩賜に逆らって、どうするのか?」と言われながら叱られました。私は資格もなく、そのような恩賜を受ける立場でもなかったのでできないと言ったのですが、お父様のお話を聞いて私が間違っていたことを反省したこともあります。

1966年には公園講義を終え、慶尚南道(キョンサンナムド)に下って行き、勝共講義を熱心にしました。釜山(プサン)では、主に大学や高校で精誠を尽くして勝共講義をして表彰状をもらいました。馬山(マサン)でも勝共講義をした功労で表彰状を二度もらいました。面と村を回りながら勝共講演をし、学校の先生たちにも教育しました。

そして、1967年に馬山(マサン)地域長として2年間活動しました。馬山にいるときに事業的な面でも大きな功績を立てて表彰を受けもして、1969年には部屋が二つある家を得て釜山鎮(プサンジン)教会を開拓しました。

1971年には全国特別巡回師の任命を受けて、京畿道(キョンギド)を中心に巡回しました。京畿道地域は広いので、全体を回ろうとすれば一カ月かかりました。一カ所に一日ずつ行って一泊して信仰指導をして回ると時間がいっぺんに過ぎました。行く所ごとに活動していた婦人たちを激励し相談することが主な私の仕事でした。

(第2部終わり)

続けて訪問してくださってありがとうございました。^^
貴重な姜先生の回顧録なので、続けて掲載していきたいと思います。

 

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