“李相烈韓国会長がされた個人的考え” への6件のフィードバック

“李相烈韓国会長がされた個人的考え” への6件のフィードバック

  1. 正に、ハムレットの苦悩ですね。
    韓国が、ここまで緊迫しているということなんですね。by ロード

    いいね

  2. たいへんむつかしい決断を韓国の聖殿食口の方々は選択しなければならない局面に立っていると思います。

    韓国が赤化されればやがて日本も秒読み段階に立たされ、アジアは完全にサタンが主管してしまいます。
    韓国の聖殿食口が中心的に防波堤となってがんばって下さっているお陰で「しばらくの猶予期間が与えられている状態」と国進様は言われました。

    お父様のみ言は「韓国はもう希望がありません荷物を売って逃げなさい」とのことです。
    アダム国家が立った以上、もはや韓国と日本が問題ではなく血統が重要です。と王様は語られました。

    救国運動が盛り上がって韓国がアダム国家として再復帰する道が残されていると韓国会長はお考えなのでしょうか?殉教者精神で「死なんとするものは生きる」で、信仰的にご自身の信仰観で最後の決断で臨まれていると感じますが、今の韓国の局面は出エジプトをしなければならない局面なのではないでしょうか?

    SCのメンバーの一人一人は神様にとってたいへん貴重な存在です。
    艱難を生き残って一人でも多くの血統を残すことに方向性と使命感を持つべきと思います。

    殉教者精神で反対勢力に臨むのであればニューファンドランドで二代王様の元で、自分達が盾となって王様をお守りをする覚悟で王様に委ねていくのが神様の願いなのではと個人的には感じます。
    聖殿中心者はモーセの立場で聖殿食口を大移動させるべき立場と指名があるように思えます。

    いいね

  3. 摂理国家でないからそこを出ていけという発想が理解できないですね。摂理国家以外の国はなんなんでしょうか。意味がないのですか。そんな排他的発想で何をしようと言うのですか。結局統一教会だろうがサンクチュアリ教会だろうが同じですね。

    いいね

  4. なるほど、ご意見をいただき誠にありがとうございます。
    「摂理国家でないからそこを出ていけという発想が理解できないですね。」についてお答えてさせていただきます。
    では、「危険が来ても 私たちは最後までこの韓国を守らなければなりません。」という発想も理解できないですね。となります。あなたのおっしゃることは、間違いだから私の言っていることは正しいという相対論的発言ですよ。なぜ間違いか説明してください。
    よろしくお願いいたします。
    「結局統一教会だろうがサンクチュアリ教会だろうが同じですね。」について、
    はいおっしゃるとおりと存じます。私たちは、自らの意思でサンクチュアリ教会に来たのではなく真のお父様の愛と許しによって導かれてきました。
    間違った信仰感そのままでサンクチュアリ教会に来ております。
    未だに、組織がどうのこうの責任者がどうのこうの
    カイン・アベルは終わり子女の時代じだいであるにもかかわらず「韓氏オモニの代わりに私たちカインが、カインの代表」等の発言をされています。
    何ら変わりありません。責任者がそうであれば、組織の人みんながそうなります。
    だから責任者は、発言に気をつけていただきたいのです。
    カイン・アベルを未だに主張される方なので、・・・
    皆さんはカインだから「ここで最後まで死んで行きます 。」となります。
    総会長様に申し上げます。「素晴らしい信仰です。どうぞ頑張ってください。」
    子供たちとその子供の乳母達は、速やかに避難させてあげてください。
    どうぞよろしくお願い申し上げます。

     

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李相烈韓国会長がされた個人的考え

三代王権こころのサンクチュアリ教会より引用

以下の、韓国李相烈韓国会長がされた個人的考え

私が2015年度二代王のところに行った時、 アメリカに来なさいと私に言われるのです 。

「いいえ私は韓国にいなければなりません。 私は死んでも韓国で死ななければなりません。」

そのように答えました。

「危険が来ても 私たちは最後までこの韓国を守らなければなりません。

は、個人的発言であって、皆様の前であたかも

「危険が来ても 私たちは最後までこの韓国を守らなければなりません。
誰にしがみついて?神様と真のお父様に。そして二代王にしがみついて。
ここで最後まで死んで行きます 。皆様も死ななければなりません。」

 

とはあきれた発言です。

その韓国会長の位置を利用して

個人の信仰の自由と責任をないがしろにするものです。

全くもって、賛同しかねる。

1世が起こした、お父様背信の罪を

青年たちに負わせる

物言いに賛同しかねる。

愚かな1世がまた再び過ちをしますよ。

青年たちよ、自らの自由と責任のもと、三代王権のもとに

結集する時が過ぎてしまいますよ。

サンクチュアリ教会大阪東大阪教会は、

青年の皆様、皆様の

連絡・ご意見をお待ちしています。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

日韓存亡・韓国ソウル戦線《トランプ天一国憲法アベル革命運動》◆ 統一聖殿韓国教会2017年2月17・18日

李相烈韓国会長

真のお父様は真のお父様がひどく叱責される時があります。問題がなければ見過ごされますが、助けないといけない時には蕩減をかけてひどく叱責されます。

今回神の日に、二代王は韓国はもう希望がありません荷物を売って逃げなさい、このように言われました。 その時皆さんは荷物を売って逃げないといけないと考えたと思います。

それで私が皆さんに申し上げたいことは韓国を救わなければならないということです。
韓国を救わなければなりません。

私が2015年度二代王のところに行った時、 アメリカに来なさいと私に言われるのです 。「いいえ私は韓国にいなければなりません。 私は死んでも韓国で死ななければなりません。」 そのように答えました。

そしてそれは今も同じです。


危険が来ても 私たちは最後までこの韓国を守らなければなりません。

誰にしがみついて? 神様と真のお父様に。そして二代王にしがみついて。

ここで最後まで死んで行きます 。


私たちはソドムとゴモラが10名の義人はいなかったゆえに滅んでしまったことを知っています 。私たちはその義人10名になりましょうということなのです。
その義人10名になりましょう!ここで死ぬという決意をいたしましょう!


死んでもやると決意すれば生き、生きようとすれば死ぬのです。

私たちは死ぬことを覚悟しましょう!

死ぬことを覚悟する1パーセントがあれば100%をなすことが出来るのです。

これがアメリカから帰ってきて心に決意したことです。


二代王はミクロコスモスとマクロコスモスがひとつになって進めなければならないということをたくさん言われました。

ミクロコスモスという小さい条件で全体を蕩減する出発をしたのです。


私たちは自分たち自ら立ち上がりました。
今回のマティス国防長官歓迎についていもアメリカの会長はどうして自分からそのようなことが出来るのかと、とても驚かれました。そのように私たちは自ら立ち上がれます。


韓国は今後どうすればいいか二代王にお伺いいたしました。

そうしたところ、二つの言葉を下さいました。

一つ目は保守政治家に天一国憲法を伝えトランプ大統領と一緒に最後まで犠牲の道を歩むことです

 トランプは善人ではありません。問題が多いのです。しかしお父様が選ばれたのは、今から自分は神様のために全財産を捧げ、神様の為に犠牲になる、そのために大統領になると決意したということなのです。

三代王権がトランプを支持したのです。ミクロがトランプを指示したので最後までトランプを支えないといけないのです 。

これが天の御意です。

保守層の中から天一憲法を理解できる人を探し教育し自分を犠牲にすることができる人を作ることができれば韓国を生かすことができるのです。


2つ目は市民たちが立ち上がることができるようにすることです。

片手には大極旗、片手には星条旗を持って立ち上がる市民運動です。
韓米同盟を強化する役割を市民たちがしないといけないのです。

これが私達が死を覚悟していかなければならない方向性です。

二代王はUPF (天宙平和連合)にサタンが入ってしまったので それに代わる愛国運動の機関を作らないといけないと申されました。

韓国に対する希望がなければそのようなことは言われないのです。

韓国に対する希望を無くしておられるのではありません、希望の紐を掴んでおられるのです。

誰がですか?お父様がです。


ですからどうなったとしても私たちが韓国を救わなければなりません。

今から死を覚悟して出発するならば 韓国を救うことができるのです。

私たちが率先して前に出て行けば多くの人たちが私たちと共に歩むようになる運勢があるのです 。

皆さん一人ひとりがこの国を救うという覚悟を持つのならば その信仰に神様が応えてくださり、この国を離すことはないでしょう!


お父様が最後まで愛してくださったこの民族 、この二つを持って全国に拡散しなければなりません 。
韓氏オモニの間違った考えの故にこのような結果となってしまいました。

韓氏オモニの代わりに私たちカインが、カインの代表が悔い改めの心を持ち責任を持つという心を持って出て行かないといけないのです。

二代王は心痛いことをたくさん言われますが私たちが韓お母様の代身として、家庭連合の代わりに悔い改めればその基台の上に神様は大きな役事をくださります。

善と悪を二つに分けるそのような精誠と心を持って出ていけば 天は私たちに大きな役事を許諾してくださると信じます。

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姜賢實先生の自叙伝

シャボン玉のブログさんより引用

姜賢實先生の自叙伝

・ 第三章・その1 死んでも統一教会の鬼神

▲ ペンシルベニアを訪問した韓日の食口たちにお話しされる姜先生

第三章 超教派の最前線で
宗教和合の道、超教派
 死んでも統一教会の鬼神(きじん)
※鬼神(귀신):死者の霊、人に福や災いをもたらすという神霊

私は1952年にお父様にお会いして、60年以上公的な生活をしてきました。静かに考えてみると公的な生活を確かに長くしました。そのせいか公的な生活をしている牧師や公職者や献身者を見ると胸が詰まることが多いのです。その方を見るといつも頭が下がります。なぜなら、献身しながら生きてきたこの道がどれほど大変で難しく寂しいかを、誰よりも私がよく知っているからです。

彼らは父母を後に残し兄弟を後に残して友達と故郷を離れて献身して生きてきたはずです。今も彼らの父母は風の便りに誰かのうわさでも聞こえてきたら、家を出て行った息子や娘が帰ってくると思って耳を傾けるのです。外的には相変わらず統一教会に通う子に反対するのですが、内心では、いつも子供を待ちながら、愛しているのです。

私も彼らと同じく公的な生活をしてきました。平凡で弱い者なので、実際一人では何もできなかったのに、お父様が公的な道を行くことができるようにして下さいました。そして、いつも神様が共にいて下さって、今までこの道を来ることができました。私のように統一家の食口たちは皆、神様が共におられることを確信せねばなりません。生活のために形式的に儀式的に生きてきた人々ではないことを信じます。制度に縛られて、この道をしぶしぶ行っている人は誰もいないでしょう。私もまた長い歳月の間、一瞬たりともそのような心構えで公的な生活をしたことがありません。

私が入教して13年になった時、お父様は、「姜賢実、あと三年だけしたら少し休まなくちゃならないだろう?」と言われました。私は、タプコル公園で渾身(こんしん)を尽くして講義をしていたところだったので、その言葉が嬉しく感じられました。それで、三年待ちました。しかし、四年が過ぎてもお父様は何も言われませんでした。「お父様、あの時私に三年だけしたら休ませてやると言われましたが、これで四年近くになります。どうされますか?」と尋ねました。

すると、お父様が、「世界で最も悲惨な人は仕事がない人だ。することが多いということ自体がどれだけ福があることか知らねばならない。一度遊んでみなさい。じっと家の中に入って座っていてみると、どれだけ退屈して息苦しくて意欲もでず悲惨かわからない。
だから、公的に仕事ができること 、仕事をすることが幸せだ」と言われました。

その御言葉を聞いて、「お父様!健康が許す限り、できる力がある限り、御旨のために生きていきます」と答えました。するとお父様は、「そうだとも。それでこそ姜賢実だ!」ととても喜ばれました。だから、御旨の中に身を投じて生きてきた私の人生を考えたときに、「私は死んだら鬼神(きじん)になったとしても、統一教会の鬼神になろう」と思いました。

姜賢實先生の自叙伝

・ 第三章・その2 閉ざされた心を開く超教派の道

■ 復帰されたエデンの苑 天宙清平修錬苑 より一部抜粋

清平聖地の由来

清平聖地は、真のお父様が1965年、漢江(ハンガン)を遡(さかのぼ)られながらテントを張り、精誠を尽くし始められることから始まりました。

真のお父様は当時、坂になった桑の木畑だった現在の天宙清平修錬苑の敷地を買いとられ、1971年6月17日、初めてツルハシを入れられ建築工事が始まりました。元聖殿の工事は当時、キリスト教牧師招請原理公聴会を開くため、急ピッチで着工されました。

真のお父様は当時、キリスト教牧師を清平修錬所に招待し、神様が創造された原理と摂理を伝えるために計画され、まだ発令の出ていない教会長と共に、1971年6月17日、元聖殿の建築工事が始められました。

当時建設された元聖殿は真のお父様の指揮のもと、悪天候にも関わらず基礎工事後わずか2週間で完工され、キリスト教牧師招請原理公聴会は計画通り成功裏に行われて、神様の御言を伝えることができました。

・・・・

今となっては、荒稼ぎの代名詞と共に、独生女王国と化してしまった清平の姿をご覧になり、 神様とお父様の心情はいかばかりであろうかと、胸が苦しくなりました。

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第3章  超教派の最前線で
宗教和合の道、超教派
▲閉ざされた心を開く超教派の道

1974年10月7日から超教派のキリスト教協会の仕事をするようになりました。李載錫(イ・ジェソク)会長の下で仕事をしました。李載錫(イ・ジェソク)会長は忠清道(チュンチョンド)両班(ヤンバン=貴族)の家の後孫らしく、人の嫌なことを言わず、常に人の心を安らかにしてくれる方です。

<参照>
李載錫(イ・ジェソク)会長の礼拝で出た『アボジの涙』 – シャボン玉のブログ

その時は私が入教してから22年目になった年でした。22年の間に宣布と開拓、そして伝道の使命を果たしました。そして、その時から1996年6月までの22年の間、超教派キリスト教協会で働きました。事実、既成教会と統一教会が一つになることはあまりにも重要なことです。お父様は統一教会と既成教会を一つにするという御旨を持っておられました。既成教会の信者は上から下まで、すなわち、牧師から平信徒に至るまで、どうしたらそのように一様に統一教会に反対することができるのか、彼らは統一教会と言うと、ハンセン病患者よりも恐れながらびっくり仰天して驚きました。

統一教会の信者に会って話しただけでも、地獄に行くかのように思ったりもしました。
私は彼らが心を一つにして反対するのを見て、信じられないほど驚きを感じたりもしました。彼らは一様にそのような心を持つのは何か秘密が隠されているようでした。

超教派運動をしながら、多くの牧師たちに会いました。韓国キリスト教教会協議会(NCC)の総会長から老会長と総務まですべて会いました。大部分の牧師は、統一教会と言うと、まったく会ってくれないので、会うまでは統一教会という言葉を言うことができませんでした。徐々に会って話をしてみると、統一教会であることがわかるようになります。すると、その場で立ち上がってお茶も飲まずに矢のように去ってしまう人がたくさんいました。

その反応も人によってさまざまに違います。ただ黙って席を去る人もいるし、悪口を言う人もいるし、水をかける人もいます。すると、私はそのまま何も言わず、ただ顔いっぱいに笑みを浮かべて座っています。相手が悪口を言っても水を浴びせても気にせずに、ただ笑って対するのです。

そのたびに私は、イエス様が思い出されるのです。イエス様は神の子であり、真理の本体でしたが、最も信仰深い祭司や書記官、そして律法学者たちから追われて、異端の怪物の烙印を押されました。そのような人々を見て、イエス様がどのくらいもどかしかっただろうと考えると、私が受ける侮辱と非難は何でもないという気がします。

ある時、私にひどく悪態をついていた人が、私がただ笑っているので、「ああ、あなたは本当に信仰をする方です。私はまだ血気が残っていて、このようにあなたに我慢できず憎んでいます。私は牧師ですが、偽物です」と言って屈服したこともありました。

超教派運動をしながら、統一教会という看板のために、良い御言葉を話しても最後には不信されたり、無視されることがたくさんありました。私はクリスチャンたちを説得もし、説教もして、ある時は真心から泣きながら、神様に彼らの目を開いてくださり、心の扉を開いてくださるように祈祷を捧げました。

ある時は、「どんな方法を使ってでも統一教会をなくしてやる」と大声で悪態をつきながら飛びかかってきた牧師がいました。彼は牧師でしたが、形式や儀式や制度にとらわれて牧会をしていました。そのような牧師でしたが、私は祈る気持ちで、彼に神様の心情と御旨そして事情を説明してあげました。神様の立場で牧師を見たら、どれだけ胸が痛むことだったでしょうか?私は痛憤(つうふん)のあまり、おいおい泣きたいほどでした。

そんな切実な心情を持って、「神様の摂理的な方向がどうで、また、どこに向かって動いているのか牧師様はわからないのです」と言いながら、原理公聴会に参加してみるように勧めました。すると、意外にも彼はすまないと言いながら、「では、ちょっと聞いてみましょう」と原理公聴会に出席しました。

二泊三日の間、御言葉を聞いた後、彼の反応は180度変わりました。
彼は「統一教会は驚くべき教会であり、神学校で言うことのできない、組織神学の深い面を備えているようです。原理の御言葉に頭が下がります」と言いました。そして夕方懇談会の時間に彼は、「統一教会は今後絶対に滅ばず衰えもしないようです。驚くべき御言葉が体系化されているので、末長く残ることができるでしょう」と言いました。
たとえ牧師ただひとりであっても、統一教会に対して絶対的な立場から原理の御言葉の前に屈服したことが私には夢のように感じました。
結局、原理の御言葉の前に、世界の多くの牧師たちが頭を下げるようになると思うと、新たな希望で心が膨れ上がりました。最終的には御旨が成就するだろうという喜びも生じました。

超教派連合運動をしながらやりがいをたくさん感じました。初めて牧師に会う前は、統一教会員であるということを言いませんでした。それを明らかにすれば会うことすらできなかったからです。会って話をして、自然にお父様の人生や信仰そして原理の内容を紹介すると、徐々に聴く人の顔色が変わってきました。話を始めて10分、20分、時間が経つにつれて心の門が開くと、自然に納得していくように見えました。

必ず一度は会って御言葉を伝えねばならないと思っていた牧師がいました。
その牧師は長老教会の総会長を務めた人で、他の牧師たちから多くの尊敬を受けていました。それで電話をかけて、「今日、私は礼拝に行こうと思うのですが、教会の場所を教えて下さい」と言いました。すると、牧師は親切に教会の位置を説明してくれて、「必ず礼拝に来て下さい」と答えてくれました。

教会の場所は当然知っていたのですが、次に会う約束をとるために、わざわざそのように電話で因縁を作りました。日曜日に礼拝に参加して挨拶をした場で、「私と昼食を一緒にしましょう」と勧めました。そして、食事をしながら話を交わしてみると、金永雲(キムヨンウン)先生ともよく知っている仲でありました。そのように会話をしながら、その牧師と友達になったのです。

総務牧師も出てきて話をした後には、かなり親しくなりました。ところがある日、「ああ、姜先生!もう(統一教会を)やめて長老教会に戻ってきて下さい。長老教会に姜先生のような人がいればどれほど良いでしょうか?すぐ帰って来て下さい」と真剣に言われたので、私が笑ったことがあります。

後には、呂英秀(ヨ・ヨンス)部長が超教派協会に来て講義をしました。その講義を録音してたくさんの人々に配ってあげたりもしました。1983年の初めから私は毎週火、木、土曜日の3回、既成教会の信徒たちを相手に御言葉を伝えました。その時、説教した原稿が、今でも何箱か家にあります。録音したテープもたくさんありましたが、長く経って使えなくなりました。誰かが私に、その説教を集めて説教集を出すように勧めたこともありましたが、真(まこと)の生命の御言葉であるお父様の御言葉があるのに、不足な私の説教を集めて説教集を出す必要はないと思い、集めておくだけにしました。

最初は、「クリスチャンのための聖書講解」という名目で始めましたが、2年ほどの歳月が過ぎると、どういう御言葉を伝えても受け入れるほどに、参席者たちとの信頼関係ができていました。私は彼らに御言葉を伝えながら、お父様が私たちを前にして、血と汗と涙を流されて御言葉を語られたその姿を思い浮かべながら、精誠を尽くし熱意を込めて説教しました。すると、彼らは心から大変な感動をして喜ぶのでした。

ある牧師の夫人は、「姜先生の講義を聞くと、本当に恵みがあります。堪え切れない熱さが感じられます」と言いました。ある勧士(クォンサ)は、「原理の御言葉自体に生命力があるので、姜先生の御言葉にさらに大きな恵みがあるようです。原理の御言葉は普通の人が書いたものではなく、神の特別な恵みを受けた方が記録したもののようです」という証もしました。

御言葉に感動した人々は、超教派の精神を既成教会の重鎮たちに植えつけるために努力しました。そのように熱意を尽くして身悶えする人々を見たときに、今は時がいくらも残っていないという気がしました。私はそれらの人々からあまりにも大きな愛を受けました。何着もの服も贈り物され、家に贈り物を送ってきたりもしました。私はそのようなことがあるたびにお父様にご報告差し上げながら、「すべての栄光と感謝は、お父様が受け取るべき栄光です」と言いながら頭を下げました。

既成教会の信徒の多くは、「姜会長は、神様の御言葉と一体となっておられるようです」と言いました。実際には、私は神学者でもなく、キリスト教の専門家でもないので、御言葉を語るために多くの準備をしなければなりませんでした。御言葉の内容の準備もたくさんしましたが、それよりも御言葉を語るための祈祷と精誠をささげるために、もっと多くの時間を費やしました。参席者が既成教会の信徒や霊的な人々だったので、私が少しでも他のことを考えたり、準備が不十分ならば、統一教会が悪口を言われて、その影響がお父様に及ぶようになるからです。彼らが私を通してお父様を感じるようになると思いながら、すべてのことに気をつけるようになりました。

姜賢實先生の自叙伝

・ 第三章・その3 初めてもらった給料袋に泣く

第3章  超教派の最前線で
宗教和合の道、超教派
▲初めてもらった給料袋に泣く

ルカ 10章7節
それで、その同じ家に留まっていて、家の人が出してくれるものを飲み食いしなさい。
働き人がその報いを得るのは当然である。家から家へと渡り歩くな。

テモテ第1 5章17節
よく指導している長老たち、特に御言葉と教えのために労苦している長老たちは
二倍の報酬を受けるにふさわしい。

超教派キリスト教協会にいた時のいくつかの逸話が思い出されます。
超教派キリスト教協会で一カ月働いて事務所で給料をもらいました。袋を開けてみると一カ月の給料が1万5千ウォンでした。それまで私は一度も給料をもらったことがありませんでした。22年間お金は一銭も貰わないで暮らしてきたのです。タプコル公園で講義するときは青坡洞教会に住み、1カ月分の電車の回数券と風呂券4枚をもらいました。それをもらったのが全部でした。そのように暮らしても、季節ごとに着る時は着て、また食べる時は食べて暮らしていました。もちろん、たっぷり食べ、いい物を着ていたわけではありませんが、生活に不便なく暮らしていました。

しかし、初めて給料をもらったのです。その給料をもらったら涙がいきなりあふれました。「今まで私は私の全体を神に捧げ献身して生きてきたのに、このお金を受け取ると、これから献身するのではなく、月給取りになるのではないか?これを受け取ると、私は仕事の対価をお金で受けることになるのだから、私がなした功績はすべてなくなってしまうのだ」と報酬のために働く生活をするような気がしました。

22年の間献身して給料をもらったら、お父様が保護して下さった生活が終わって追い出されるような気までしました。限りなく悲しい気持ちになって、祈祷室に入って痛哭(つうこく)しながら泣きました。心が少し落ち着いた後、神様に、「どうすればいいですか?」と祈りました。すると、使徒パウロの聖書の御言が浮かびました。「仕事をした人が報酬を受けるのは当然である。飢えては働くことができないので、最小限の報酬は必要である」という内容でした。

その聖句が浮かんで「ああ、そうだ!これまで私は教会に住み、公的に世話になって生きてきたけれど、これからは公的に世話にならずに生きなければならないな」と思いました。その次から、教会から出て暮らしました。

実際には、その給与は、私の役職にしては少ない額でした。超教派協会で私は婦女局長でありました。しかし、部長より給与が少なかったのです。それで、姜部長という方が冗談でいつも私に、「姜課長、姜課長」と言ってからかいました。自分より給与が少ないため局長はなく、部長の下で働く課長という意味でそう呼んだのでした。
私自身は給与に関心がないので、どのくらい給与の差があるのかわかりませんが、その人がそう言うので、そうなんだなと思いました。

だから、私はある日、姜部長に、「公的に献身するとき、給料をたくさんもらうのはいいことではないですよ。私は実はこれよりも少なくもらいたいのです。今働いている報酬をすべてもらってしまうと、霊界に行ったら何ももらうことができません。今働いたものより少なくもらってこそ、霊界に行ったときにもらうものがあります。だから、公的な生活をするときは、給与をもらわないのが一番良いのです。でも、避けることのできない生活問題があるので、最小限のお金だけもらうことが良いでしょう」と言いました。

すると、姜部長が、「局長は、いつも神様のようなことばかりを言われますね」と言って、一緒に笑ったことがあります。

姜賢實先生の自叙伝

・ 第三章・その4 私はその家の管理人

第3章  超教派の最前線で
宗教和合の道、超教派
▲ 家を買って下さったお父様

1976年のある日、お父様が呼ばれるので行ってみると、お父様がお母様に、「通帳と印鑑を持って来なさい」と言われました。お母様は通帳を持って来られると、私に通帳と印鑑を渡しながら、「これは、お母様が聖婚式の後、今まで少しずつ貯金したお金である。このお金を持って家を一軒買いなさい」と言われました。私は突然のことで驚きもしましたが、お母様が預金された通帳をいただくことが恐れ多くてどうしていいかわかりませんでした。

「お父様、私がどうしてこの通帳に手を出すことができるでしょうか?できません。そのお金でどうして家を買えますか? 私はこれだけはできません」と言って辞退しました。
するとお父様は、「その家でもっと熱心に仕事をすればいいじゃないか?」と言いながら続けて私にそのお金で家を買うように言われました。

私が引き続き言うことを聞かずに辞退するので、お父様は、財団事務総長を呼ばれました。「姜賢實が私の言うことを聞かないので、おまえがこの通帳を持って行って家一軒を買ってあげなさい」と言われるのでした。李秀卿(イ・スギョン)事務総長も、「お父様、なぜその通帳で家を買うのですか?私たちの財団からお金を出します」と言って、その通帳をお母様にお返ししました。

財団では、二村洞(イ-チョンドン)に部屋が3つあるアパートを買ってくれようとしました。しかし、契約をする前日の夜、私は頭が痛くて心配になって眠れませんでした。
それでアメリカにいらっしゃるお父様に手紙を差し上げました。

「お父様、私が家を買う代金を頂いてから心が地獄です。心が一つもうれしくありません。それどころか、家を買うべきか買わざるべきかでとても悩んでいます。私が長年献身したことが、この家一つをいただくことですべて無に帰してしまうような気がします。これまで私が献身したことがすべてなくなるようで虚しいだけです。公的に働いた功労がすべて塵のようになくなるように思えて、どれだけつらいか言い表すことができません」と書きました。

崔元福先生が私の手紙をお父様に読んで差し上げたそうです。しかし、お父様の態度は変わりませんでした。「その家でもっとよく働けばいいのだ」と言われたそうです。

私は心が苦しくて、数日間悩んで祈りを捧げました。すると、祈りの中で「この家を公館として使えばよい」という考えが浮かびました。「私が個人的にこの家を使うのではなく、公的な家として使おう!伝道のための家としてこの家を使えばいいんだ」と思うと心が楽になりました。その背後で、私は家の所有者ではなく管理人だと思いました。

姜賢實先生の自叙伝

・ 第三章・その5 26日間のアメリカ巡回

第3章  超教派の最前線で
宗教和合の道、超教派
▲ 26日間のアメリカ巡回

1980年6月27日金曜日10時30分、JAL機便で日本に到着した後、アラスカを経由して英国に立ち寄り、7月4日、米国に到着し、真の父母様にご挨拶差し上げると、私が入教したときと同じように夜を明かして御言葉を語られました。ボストンで2カ月間過ごしたのですが、お父様は毎日早朝に海に出て精誠をささげ、魚を釣られました。

当時、日本を開拓した崔奉春(チェ・ボンチュン)先生がボストンに訪ねて来ました。彼はお父様に自分の人生のすべてを報告するために来たといいました。息子が不慮の事故に遭ったのに、一緒にいた他の子供たちは大丈夫だったと言いました。自分の息子だけが事故に遭うのを見て、これまで生きてきた人生が間違っていたと反省してお父様を訪ねてきたと言いました。崔先生は、お父様の前で頭を下げて悔い改めたいと言いました。そうして、私にこれまでの人生を悔い改めながら、何をどのように間違って生きてきたのかを告白しました。崔先生は、お父様の靴を磨きながら一番底から再出発したいとも言いました。

私はお父様に崔先生が訪ねてきた事実を報告しました。お父様はその報告を聞いて、私が喜んだよりももっと喜ばれながら「本当か?」と何度も聞かれました。私もうれしくて、「はい、事実です」とお答えしたのが今でも記憶に残っています。

そのように崔先生に関するご報告をしたとき、父母が子女を愛し心配しているのと全く同じなお父様の表情を見ました。その表情を見ながら、お父様がどれだけ崔宣教師を愛しておられるのかを感じることができて、大きな感動を受けました。

ある日、お父様が網を触りながら、「今回来たついでにアメリカ旅行もして世界旅行をしに行こう」と言われました。そうして、「今でも世界各国で、一日のうちにも飢えて死ぬ人々が数え切れないほど多い。私がこの問題を解決するために、フィッシュ・パウダーを開発しているが、誰もこれに関心を持つ者がいない」と語りながら、寂しい表情をされました。

そして、「この地上で、誰かが人類の内的な心霊問題と外的な飢餓問題を解決しなければならない」と語られながら、「賢實(ヒョンシル)、おまえはこれを知らねばならない。私は釣りが好きでするのではなく、人類を生かさねばならない目的があってするのだ」とおっしゃいました。また、「世界を一周り回ってみれば、見聞も広くなり、世界がどれほど大きく美しくて、人類の喜びと痛みがどれほど深いのかを感じるようになるだろう」とおっしゃるのですが、父親が娘に何か重要なことを教えてあげようとするような、切実な心情で言われたことが感じられました。

時にはお母様と買い物もしました。真のお母様が六歳になられた年に、啓示を受けた人がお母様に対して、「将来、人類の母、天の花嫁になるだろう」と予言したという話を誰かから聞いたことがあります。その予言のように、米国でお母様と近くにいる間、お母様は世界の母であり、天宙の母であることを痛感するようになりました。

1980年9月3日から28日まで26日間、米国一周観光をして巡回もしました。一行は李貞玉(イ・ジョンオク)先生、李京埈(イ・キョンジュン)先生などでした。お父様が旅程を直接組んで下さるのに精誠をたくさん尽くされました。アメリカ旅行をする時にはすべてのものを欠かさず見なければならないと言われました。

お父様が言われたように、米国という国は、行けども行けども終わりなく広かったです。一日に三千里を走ったこともありました。低い山に出ると、数十時間走っても同じように美しい低い山なので感動しました。

一番印象に残ったのは、ユタ州で訪れたモルモン教です。イエス様の写真が壁一面をすべて覆うほど大きくかかっていたのですが、たくさんの旅行者がアメリカに来れば、ユタ州のモルモン教の本堂を観光していくのが基本のコースになっていました。そこでたくさんの話を聞いて、人々が祈っている姿を見ながら深い感銘を受けました。

<参照>
ユタ州ソルトレイクシティへ旅行に行ってきました。その4「モルモン教の総本山」 : ロクデナシ ヒトデナシ ヒトゲノム(カリフォルニア州San Diego・ユタ州Hurricane)

姜賢實先生の自叙伝

・ 第三章・その6 世界巡回

第3部 超教派の最前線で
宗教和合の道、超教派
▲貴い恩賜(おんし)で世界巡回をする

1980年には、真の父母様の貴い恩賜で世界を巡回することになりました。アメリカに来てから3カ月後に、真の父母様は、私が韓国に戻るときにヨーロッパ、アジアを回って行くようにと言われました。それで、1980年10月5日、ヨーロッパに向かいました。ヨーロッパに到着し、アジアまで巡回して韓国に戻ったのは11月30日でした。

約2カ月の間、巡回をしながらたくさんのことを感じることができました。特に真の父母様が1960年に世界巡回をされた時だけみても、食口が一人もいない国が多かったのですが、たった20年後に全世界のどこを訪れても食口がいるので、その間どれほど真の父母様が苦労されたのかを推測することができたのでした。

当時の旅行の一日のスケジュールは、どんなに夜遅くに寝ても、翌日午前6時、遅くとも7時には祈祷会で始まるというものでした。行く先々で食口たちが大変な歓待をしてくれるので恐れ入ることが多かったし、それにどうやって応えてあげればいいのかわからないほど、重い負債感を残すことが多かったのです。幸いなことに、真の父母様の心情と生涯に関する御言葉を話してあげると彼らは多くの恵みを受け感謝されたので、少しでも心の荷物を減らすことができました。全世界の食口たちから受けた愛が私にとって負債にならないように、今一度、熱心に努力しなければならないという決心をしました。

そのように巡回した場所の中で、イスラエルは今でも記憶に残っています。11月5日、パウロが伝道した歴史が込められているコリント市に到着したとき、彼らが使っていた共同浴場とトイレを見ることができました。また多くの神殿もありました。その時代に生きていた人々には敬拝を捧げて仕える習慣があり、石を削って立てて置き、それに敬拝を捧げたりしたという話を聞きました。大理石で築いた神殿がたくさんありました。今ではその土台だけが残っており人は住んでいません。テサロニケもやはり地震で土台だけが残っていて、人は住んでいませんでした。

 ▲コリントスのアポロン神殿

エルサレムを出発したのは翌日の11月6日の夕方でした。エルサレムに到着すると不思議な思いが湧いてきました。昔、イエス様がここを中心として、ユダヤ民族に福音を伝えながら説教したところだと思うと、感慨が実に深かったのです。その日は夜遅くまで眠れませんでした。

翌日の11月7日の朝に最初に訪れたのは、ナザレ教会でした。教会には、マグダラのマリアと姉妹の肖像画が飾ってありました。イエス様が亡くなった後、マグダラのマリアがあまりにも悲しんだという聖書の一節が思い出されました。この教会は、アラブ人が主管する地域に位置していました。

その次にラザロの墓に行ってみました。ラザロの墓はよく装飾されており、多くの観光客が往来するところでした。

<参照>ザラロの墓の写真 http://4travel.jp/travelogue/10672855

そしてエリコ城に行きました。昔、イスラエル民族がエリコ城を陥落するため七回もそこを回ったことを考えました。そこから40日間イエス様が断食をして3大試練を受けたところも行ってみました。山が乾燥し、草一本もありませんでした。2千年前にここで多くのあざけりと嘲弄を受けたイエス様を思うと、不憫な思いがして、霊界で協助してくれることを祈りました。そして、ナザレに行く途中でヨルダン川を見たのですが、とても小さくてまるで小川のようでした。

イスラエルで食口のおじいさんに会って、集団農場を案内してもらいました。1922年に集団農場を始めた時には一本の木もない荒涼とした土地だったのですが、今まで心を込めて育てた結果、今は多くの木がありました。美しい花壇や病院、プール、遊び場、会議場も用意されていました。そこで暮らす人は、食事や衣服、医療費、旅費まで保証され、お金が必要ない楽園に住んでいると言いました。村の住民は千人あまりで、毎日集団農場で仕事をしていると言いました。集団農場の託児所や劇場、そして博物館を見学し、イスラエルの伝統や生活を描いた村の絵なども見ることができました。

それから、イエス様が山上の説教をしたところに行って見ました。今はイタリアで主管しているカトリック教会が建てられていて、ガリラヤの海側の丘の上にありました。

また、イエス様が五つのパンと二匹の魚で五千人を食べさせたところにも訪ねて行きました。そこでは都市がモザイクになっていました。ガリラヤの海辺に行って、イエス様が魚を取ったところも行ってみました。

機会があればもう一度行ってみたかったのですが、今になっては、また行くことが難しくなってしまい残念です。

その時の巡回中に、久しぶりに会った食口たちもいました。世界のあちこちで宣教をする食口たちに会えば、夜遅くまで話をしたりしました。そんな日は早朝2時過ぎてようやく寝ることができました。それでも韓国を慕って真の父母様の近況や心情を聞きたいという食口達がいるので、心の片隅でありがたく感謝に思いました。

<参照> 公衆浴場と公衆トイレの写真も出てました。^^
ロポネソス半島2 コリントス遺跡7 レカイオン界隈 

中央のアゴラの東端から延びるのは②レカイオン通り。 『ギリシア都市の歩き方』は、 この大通りは、その幅が7m50㎝あり、北に向かって緩斜面を約3㎞下り、その途中で市門を越えてレカイオン港に至る。遺跡の中で発掘されている通りは、わずかに100mに過ぎない。その表面は、切り…

https://hulule-hulule-voyage.blogspot.kr/2013/08/blog-post_14.html

姜賢實先生の自叙伝

・ 第三章・その7 お父様がくださった大きな祝福

第3部 超教派の最前線で
宗教和合の道、超教派
▲お父様が大きな祝福をして下さった

超教派キリスト教協議会で仕事をしている時、お父様が私に大きな祝福をして下さいました。ある日お父様が私を呼ばれていると聞いて、漢南洞(ハンナムドン)に行きました。
私が到着すると、お父様は食事をされていました。
それでご挨拶をすると、「姜賢實、ちょっとこっちに来なさい」と言われました。

それで、お父様の前に行くと、「これからお前が信じた通りになり、言った通りになり、思った通りになり、考えた通りになり、行ったとおりにすべて成就するだろう」と祝福して下さいました。あまりに突然のことなので、私は感謝の敬拝もろくに捧げられずに出て行きました。出てきて震える胸を落ち着かせようと、横にいた777家庭のある夫人にその話をすると、その夫人は、「ああ、巡回師さん!それはただの恵みではありません。今からは巡回師さんが思った通りになるでしょう」とうらやましがりました。
その日は実に不思議な気分でした。

ところで、次の日の夜に超教派の会員であり、長老教会の某執事が電話をかけてきました。その電話を受けると、声がちょっと変でした。「姜局長、私とちょっと会って下さい。明日どうしても会わなければなりません」というのでした。「明日は時間がないのですが」と言うと、「いけません。明日必ず私と会って下さらなければなりません」と、頼むのです。それで、他のスケジュールを調整して、次の日に会う約束をしました。

「何事があって私をそのように探すのか?」という思いで、約束はしましたが何か気持ち良くありませんでした。電話をしたその執事は超教派の集会に出てきても、常にトゲのあるような不信な態度で、「統一教会がどうだっていうんですか?文先生は本当にそんなにいい方ですか?」というふうに話をする人でした。だから、いつも私はその人を見ると気分が良くありませんでした。

次の日、待ち合わせ場所に行くと、その執事の顔が全く変に見えました。口が曲がってしまっていて印象が違いました。「いや、これはどういうことですか?」と聞くと、「わかりません。一昨日の夜、寝る前に水を飲もうとしたら水がすーっと流れ落ちたんです。
それで、「おかしい。なぜ水がこのように流れるのか」と鏡を見ると、口がこのように曲っているではないですか? それで、きのう漢医院に行って針を打って病院も行ってみたけれど全く効果がありません。それで心配になって昨日の夜祈ってみたところ、姜局長の顔が浮かびました。これまで私が間違っていましたから、姜局長、私をどうか助けて下さい」とすがってきました。

普段お父様に対して否定的な態度を取っているからそのようなことが起こったような気がしました。それで、心の中で祈祷をしました。「神様、かわいそうじゃないですか? これから超教派活動に積極的に参加するというので、この人の口をまっすぐにして下さい」と祈祷をしてあげて別れたのですが、二日後に電話がきました。「姜局長、口が元の位置に戻りました。ありがとうございます。ありがとうございます」という電話だったので、私は本当にうれしかったです。

その時から、「私が信じた通りに、言った通りに、思った通りに、神様が成して下さるんだなあ!」という思いで、もっと固く信じるようになり、感謝するようになりました。

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削除された姜賢實(カン・ヒョンシル)姜先生の回顧録第二章

シャボン玉のブログより引用

姜賢實(カン・ヒョンシル)先生の回顧録

第二章

その1   第一号伝道師

私の証拠的生涯(=主を証しする私の生涯)
韓半島に降臨された再臨主
姜賢實(カン・ヒョンシル)

第二章 ■ 韓半島に来た再臨主を証しせよ
● 起きて叫ばん
 ▲ 第一号伝道師

1953年7月17日、お父様が私を呼ばれました。

「開拓に行かなければならない。開拓に出れるよう準備しなさい」
「どこに行けばいいですか?」
「韓国で一番キリスト教が強いところが大邱(テグ)だから、
そこから伝道を出発するのが良いだろう」
「わかりました」
「40日の間、大邱(テグ)に行って伝道をしなさい。必ず40日を満たして来ないといけない。もし39日目の夜に帰って来ることになったら家の中に入れもせず、門の外に追い出すだろう。そして、それからは食口として認めないだろうから、それを知っておきなさい」と言われました。
「わかりました」

お父様があまりにも深刻に言われるので、返事をしながら私の心もそれにあわせて悲壮になりました。決意と覚悟を誓って伝道に行くために、体と心の両方の準備を始めました。

その知らせを聞いて19日に李得三(イ・ドゥクサム)オンニ(お姉さん)がチマチョゴリ(韓服)二着を買ってきました。李得三(イ・ドゥクサム)オンニは信仰心が篤く、お父様に侍るのにいつも最善を尽くしていた方でした。経済的にも豊かだし、人柄が良く、心が広くて、いつも周りの人たちを取りまとめて配慮することが生活化していました。

そのときも、私一人で伝道に行くようになったという知らせを聞いて、あつらえてきましたが、夏に涼しく着ることができる襦袢(じゅばん=肌着)とチマ(韓服のスカート)一着、そして楽にすぐ洗って着ることができるチマチョゴリでした。

しかし、私が李得三(イ・ドゥクサム)オンニと話をしているときに、お父様が二着のうち一着をそっと隠されるのでした。「先生がその服を着るわけでもないのに、なぜ女性の服を隠されるのか」と怪訝(けげん)な思いがしました。不思議な気がしましたが、お父様が何のお言葉もおっしゃられないので、私も何も言いませんでした。

いよいよ20日の朝になりました。お父様に呼ばれて私は部屋に入りました。お父様は、私一人を座らせて祈祷をされました。

「アボジ・ハナニム!あなたの愛する幼い娘が、新しい御言葉と新しい知らせを持ってあの狼たちが蠢(うごめ)くサタン世界である大邱に発ちます。生きておられるアボジ・ハナニムが同行して同役(どうやく)して下さらなければなりません。神様はこの幼い娘の力になって下さり、山城(さんじょう)になって下さり、盾になって下さり、すべての事を主管して下さい。ハナニム!サタン世界で奪われたその恨(ハン)をこの幼い娘をして感じさせて下さらなければなりません。そうして、大邱(テグ)にお父様の御言葉の花を見事に咲かせるようにして下さい。大邱(テグ)に神様の体となる新しい教会を建てることができるようにして下さい」と泣き声混じりの祈祷をして下さいました。お父様の祈祷が私の心情を動かしました。

そして、お父様は、「本当は、若い姜賢實(カン・ヒョンシル)を、サタンたちが蠢(うごめ)く大邱(テグ)の地に送り出したいという思いは一つもない。しかし、送らなければならない私の心情を知ってくれることを願う。私の心はこんなに痛むのに、ましてや神の心情はどれほどより痛いだろうか。行けばつらく難しいことがたくさん起きるだろう。そのたびに、まず何よりもあなたの背後に生きておられる神様が共におられるという、これだけは一時も忘れずにいつでも記憶しながら働いてくれることを願う」と話して下さいました。

お父様は毎日、神の御旨に狂っておられ、神の創造目的を必ず実現させておくという固い意志で燃えておられました。そのような意志は平安な時や迫害が迫ってくる時も変わりがありませんでした。お父様の心情は常に一貫していました。

第一番目に立てられた伝道師として、お父様の心情を忘れずに、神様の御旨を成して差し上げなければならないという決意が、心の中でより固くなりました。

祈祷と御言葉を終えた後、お父様が旅費を下さいました。旅費は釜山から大邱(テグ)まで鈍行汽車の切符を買うと、お米一升を買えるお金にしかなりませんでした。率直に言って旅費が余りにも少なく、心の中で驚きました。そのときが困難な時代ではありましたが、お父様はたまに食口たちに洋服を作って着なさいと、二、三着作って着れるお金を下さるときもありました。ところが、40日の間伝道をして来いと言われながら、往復交通費にもならないお金を下さるので当惑しました。

▲当時の釜山駅

それでもいただく旅費を感謝して、白い風呂敷に荷物をまとめて家を出ました。後で知ったことですが、二千年前、イエス様が伝道に出て行った弟子たちに服二着を持って行くなと言われ、お金もわずかしか持たないようにされたので、お父様は私にもそのような道を行くべきだという基準を立てて下さったのでした。

送ってくれる人も誰もおらず、家を出てみると無性に心が憂鬱でした。振り返って見るとお父様が塀の上に手を置いて私を見ておられました。「お元気でいてください」とあいさつを差し上げたのですが、見るとお父様の表情は私に対する期待で満ちていました。お父様は塀の瓦屋根の上に手を置いて立たれ、最初の伝道師を派遣されながら、大邱(テグ)に必ず教会を開拓して帰って来いという表情で私を見られました。お顔の表情がそうであるなら、お父様の心情はどのくらい切実であられるだろうかという思いになりました。

「いくら人がいないからといって、何もない私にこのように大きな期待と願いをかけられるのか?」という思いがすると、お父様が凄絶(せいぜつ)でかわいそうで、神様に対する切実さがそのまま感じられました。それで私も思わず心の中で泣きながら新たな決意をしました。

「必ず戦って勝利いたします。先生が期待され願われる姜賢實(カン・ヒョンシル)になります」と誓いました。

お父様は、私が振り返るたびに手を振って励まして下さいました。少し行って振り返って見るとお父様は手を振られ、また少し行っては振り返って見ると、また手を振られました。私が見えなくなるまで、お父様は、そこに立ってそのように別れのあいさつをされました。

姜先生の回顧録

第二章

その2  私がお前とともにいる

第二章 ■ 韓半島に来た再臨主を証しせよ

● 起きて叫ばん

(その1のつづき)
▲私がお前とともにいる

鈍行汽車は商売をする商人や米や野菜を頭に載せて入って来る人々で満員でした。人々の隙間をくぐって中に入っても座る席がなくて片隅に立って大邱(テグ)まで行きました。汽車の中の人々は大変多かったのですが、みんな貧しい人たちでした。私はその人たちを見ながら汽車の中で祈りました。

「神様。あのように多くの人たちが大邱(テグ)に行こうとします。しかし天の新しい消息を知っている人は私しかいません。この御旨をあの人たちにみんな伝えて、神様の御旨が分かるようににすべきですが、どうすればいいですか?」と祈る心で大邱に向かいました。

大邱(テグ)駅で降りましたが行くところがありません。韓国銀行の前に立ってみると、教会の鐘つき堂がたくさん見えました。たくさんの人が往来するのですが、どこに足を進めるべきなのか途方にくれました。一人も御旨を知っている人がいないと思うと寂し思いがしました。それで、私は再び祈りました。
「神様。私はどこへ行くべきか分かりません。教会も多く、行ったり来たりする人がたくさんいますが、私はどこに足を運んで行くべきかがわかりません。神様、このしごとはこんなにも難しいのですか?」と祈ってただ立っていました。

すると、私の耳に声が聞こえてきました。「賢實(ヒョンシル)よ、お前はこれを難しいと言うのか?お前は一年余りこの道を歩んで難しいというのか?私はこの御旨を成す為に、少なくとも六千年間苦労してきた。しかしお前は一年ほどこの道を歩んだだけで、難しいと言うのか?」という神様のとてつもなく大きな声が聞こえてきたのです。

「神様、それでは私はどうすればいいですか?」
「私はお前に力と勇気を与えるので、強く大胆な心を持って、この大邱(テグ)城中に神の体なる教会を建てよ」

神様は、私と共にあるという約束を下さいました。それで私は、神様が私と共におられるので、どんな事でもすることができるという力と勇気を得ました。今も私に難しい問題が迫ってくるようになると、「父なる神様。昔その大邱(テグ)の路上で私に聞かせて下さった声が恋しいです。今も私にその声を聞かせて下さらなければなりません」と祈りを捧げます。

いつのまにか日は暮れて夜になりました。大邱(テグ)に到着したので、まず神様に祈祷を捧げる場所を探さなければなりませんでした。それで、大邱(テグ)で一番大きな西門(ソムン)教会を訪ねて行きました。徹夜祈祷をするためでした。大邱(テグ)にお父様の御旨と心情を知る人が私一人だけだと思うと、神様に頼らざるを得ませんでした。

次の日、早朝祈祷のために来たある執事(チプサ)に会いました。ド・キソン執事という方でしたが、その方が、「今日、私たちはいっしょに山へ祈りに行きましょう」と言いました。それでその執事に従ってかげろう山(今の大徳山)に登って行きました。ド執事はそのとき入教して食口になりました。天候は暑かったですが、上上峰(サンサンボン)まで上がって祈祷して歌を歌いました。

来なさい友よ 園の春はときを迎え花が咲き、
楽しいこの春を歌おう エデンの友たちよ
みんな集まり踊りを踊り 新しい歌を歌おう

礼拝に出たときにたくさん歌った歌が思い出されて歌いました。一番高い峰に登って歌う歌なので、山に声が響くように歌いました。三番まで歌って、また歌いました。
そのように歌に酔って歌っていると、「ここに人がいるよ!」と言いながら、十数人の婦人たちが上ってきました。彼らは南門(ナンムン)教会の勧士(クォンサ)と執事(チプサ)たちで、十日間山で祈祷をするために登って来てこの下で祈祷していると歌声が聞こえた、と言いました。深い山の中で女性の歌う声が聞こえてきて、「あそこに人がいるようだ」と言う人たちと「あれは人の声ではなく、天使の歌声だ」という人たちの二つに分かれることになったということでした。お互い話をしても結論が出ないので、どちらか賭けまでして、歌声に向かって登って来たのでした。

※ 勸士(권사・クォンサ) :信者を訪ねて信仰心を深めたり伝道したりすることをおもな任務とする布教師.

※ 執事(집사・しつじ) :礼拝の補助や会計管理などを行おこなう信徒。

※ 諸職會(ジェジクヘ・しょしょくかい) :改神教(=プロテスタント)で教会の職責を任された人たちが教会業務を議論する集まり。教会の長老、按手執事、勧士(クォンサ)、代理執事などが会員になる。(韓国語辞書より翻訳)

彼女らを見て、先生が私を送られて、どれほど祈祷され精誠を尽くされ霊的に共におられるのかを感じることができました。
彼女らは私を見て大変喜びました。

「どうしてここで歌を歌っているのですか?」
「私はこの山に祈祷をしに来ました。」
「そうですか?私たちも十日間山で祈祷をしに来ました。私たちと一緒に祈祷しましょう」と勧められました。

一行の中で少し年配に見える婦人が私を見て、「お顔を見ると、恵みをたくさん受けられた方のようです。ここにいる間、祈祷もして、聖書講解(こうかい)もして、お話もしていただければと思います」と請いました。
私は、「いいえ。私はそんな資格がない者です」と断りました。
「そう言わずに、恩恵を少し分けて下さいな」と言い、一行がみんな私に願うのでした。
しかたなく私は、「ではいっしょに恩恵を受けましょう」とその日の夕方から御言葉を伝えました。

役事は初日の夕方から起こりました。いっしょに賛美歌を歌うのですが、一人が立ち上がってひらひらと踊りを踊り始めました。その人が、「霊界の霊人たちがとても喜んで踊りを踊ります。なので、私はそれに答える為に踊りを踊ります」と言いました。そして、「霊人たちが、地上で生きて主に会うことができるあなたたちがとても羨(うらや)ましい、私たちは霊としてでも主に会えるのでとてもうれしい、と言っています」と伝えてくれました。

またある人は、かげろう山から曙光が照らし、その光があまりにも明るく熱い火になって大邱市をすべて焼きつくす幻を見たりもしました。
また別の人は、灰色のズボンにからむしで織ったシャツを着た体格の大きな方が、両手を高く上げては、祝福の祈りをしてくれる幻想を見たりもしました。その姿は当時のお父様の姿でした。お父様が霊的にその山にやってきて、私たちを祝福して下さるのだと思いました。

十日間役事が続いたので、時間がたつのも忘れて祈祷をしました。何も食べていなかったのですが、お腹がすきませんでした。そして不思議なことに、その十日の間、雨が降りませんでした。夜、岩の上に横になって休もうとすると、昼の間太陽熱にあたった熱気で、天然の石づくりのベッドができて背中が暖かかったです。

そのようにいっしょに精誠を尽くした勧士と執事たちは、私を「先生」と呼びました。私に、「先生、先生!」と言いながら、恋人を愛するように愛するのでした。三日ぐらいした時でした。休んで目を覚ますと、みんな私の体をつかんで眠っていました。ある人は右手をつかみ、またある人は左手、左腕、左足、右足を握っていました。
びっくりして、「暑いのにみんな何をされるのですか?眠れないのなら祈祷をもっとされたらどうですか?」と言うと、「祈ることよりも先生の横にいるのがもっと恵みです」と言うのです。「だったら少し寝たらどうですか?」と言うと、「寝るよりもこうして先生の隣にいると疲れが取れます」と言うのでした。
どれほど私について来るかというと、私が瞑想に行くと探しに来るし、一人で静かに祈祷しようとするとついてきて、トイレに行ってもついてくるのでした。それがあまりにも度が過ぎていて大変でした。

しかし、「私たちは20年の間、信仰生活をしましたが、このような御言葉は初めて聞きました。イエス様の事情と心情を私たちは知りませんでした」と言いながら、熱気が冷めなかったのでした。賛美歌を歌えば、みんな涙を流して悔い改めて痛哭(つうこく)しました。私のところに来て、これまで生きて来た人生を告白して悔い改めたりもしました。

十日目が過ぎて再臨論講義を始めました。するとある人が膝を叩いて、「姜先生、今解決しました」と言いました。「何が解決したのですか?」と言うと、「私たちが最初にここで祈祷するとき、私は黒い紙に白い文字で「韓国再臨」と書いたものを見ました。今日の御言葉を聞いて、その意味が何なのかがわかりました」と言いました。

さらにその人は、「私たちは下りて行って、教会を立てましょう。教会が立てられるように献金をしましょう」と提案しました。他の人々も皆、教会を建てるために寄付をしようということで志(こころざし)を集めました。そこで献金した金額で部屋一つを設けることができるようになりました。

第二章

その3  大邱教会の出発

第二章 ■ 韓半島に来た再臨主を証しせよ
  ● 起きて叫ばん
    ▲ 大邱(テグ)教会の出発

山から降りて家賃が安い鳳山洞(ボンサンドン)に部屋を一つ得て、礼拝を捧げました。
そこが最初の大邱教会でした。その教会が定着した後、8月末に李耀翰(イ・ヨハン/李ヨハネ)牧師が大邱に来ました。

ところが、南門(ナンモン)教会の重鎮であった勧士と執事たち10数人がいっぺんに南門教会に行かなくなって問題になりました。その勧士と執事たちが恩恵を受けた内容を周りに伝え始めたので、大邱にある教会全体に噂が広がっていきました。そこで、80名余りの長老教会の牧師たちが集まって対策会議をしたのです。そうして主日(=聖日)説教の時間に、「釜山から何でもない女の異端が入って来て南門教会が荒野(あらの)になりました。もし、誰かが新しい話をしても、絶対について行ってはいけません」と警戒令を出しました。

ある日、礼拝を捧げていると一人の人が息を切らして訪ねてきました。それで、「どのような事で来たのですか」と尋ねると、「南門教会でさっき礼拝に出てから来ました」と言い、一部始終を話しました。

「礼拝の時間に牧師が、『釜山から来た女性がいる所は異端であり地獄に行く所です。そこに行けば滅び、死に至ります』という話を聞きながら目を閉じていると、『そこは異端ではない。滅びて死んで地獄に行く所ではない』と神様の声が聞こえてきました。『今、この南門教会はよもぎ水を飲ませるが、そこは命の泉の水を飲ませる所である。今、そこで真の生命を救うことができる礼拝を捧げているので、白いゴム靴を履いて自転車に乗って早く行け』と教えてくれた」と言うのでした。それで、その人はこちらの礼拝が終わる前に到着しようと急いで啓示を受けた場所に来たと言いました。

その人が来たあと再び礼拝を続けたのですが、「私は今、地上で主に会うことになったのでどれほど嬉しいか分かりません」と言いながら、踊りを踊りました。その人のおかげで、周囲の迫害でつらい思いをしていた食口たちが力を得るようになりました。草創期の私たちの大邱教会ではそのような神霊役事がたくさん起こりました。

その恩恵が大きいほど迫害も多かったのです。だから引っ越しをたくさんしました。引越して来た家で礼拝を捧げると、数日したら近所から、狂った人々が引っ越して来たという噂が立ちました。結局、一週間にもならない前に、「教会に行って礼拝をしたらいいのに、家で礼拝をして『アイグ、アイグ!』と声を出して泣きながら祈祷をする。明らかに狂った人たちだ。縁起の悪い人たちがこの町に入って来てはだめだ」と言いながら追い出したりしました。

1953年9月17日、大邱駅でしばし、お父様にお会いすることができました。お父様がソウルを開拓するために発たれる途中に、大邱駅でお会いしたのです。

▲当時の大邱駅舎

韓国の首都ソウルは暗闇に沈んでいました。お父様が鍾路区(チョンノグ)清進洞(チョンジンドン)に下宿を定められ、訪ねてくる人々に接するたびに、精誠と物を惜しまずに与えられ、御言葉を伝えられました。

私はお父様に一週間に一度、活動した内容を手紙で報告を差し上げました。一カ月にも何度も引越しをしなければならないので、大邱の住所を南山洞(ナムサンドン)にあったある執事の家に決めました。先生も数通の手紙を書いて下さいました。その内容は、「生きておられる神は、まさに私たちの側に立っておられる。心細く、寂しく、もどかしいときに神様を呼べばいつでも、神様は賢實(ヒョンシル)を離れることなく、いつも共にいて下さるので、強く雄々しくあれ。神様が共にいてくださるという信念と確信を持って、神様の胸の中に隠された秘密を、願う者たちと神様が愛される者たちに植えてあげなさい」という懇切な付託でした。

「苦境と苦労が終わって、栄光と勝利を誇ることができるその日を早く迎える為には、私たちの犠牲と忠誠、そして精誠が伴うので、熱心にサタン主権の世界を神主権の世界に戻し立てよう」という大変な内容でありました。

蛇のように賢くあれ

1953年11月2日お父様が初めて大邱市内に来られました。我たちはその時、南山洞に小さな部屋二つを借りていたときでした。家の主人のおばさんが、お客さんが来られたと言うので、洗濯をしていたのですが飛び出してみたところ、お父様があまりにもみすぼらしい姿で立っておられました。

お父様の後ろには背負かごに荷物を背負った男がついて来ていました。私は心配になってお父様に、「どうして前もって知らせもなく来られたのですか」と尋ねたところ、お父様は何も言われず、ただ、「こういうことになった」とだけ言われました。その時刻が朝7時頃になった時でした。

食口たちにお父様が来られたと連絡をしました。あまりにも困難な生活をしている時だったので、あり合わせのもので精誠を尽くして、朝食を準備して差し上げました。

私は教会を開拓しながら、いつかはお父様が大邱教会に来られると思っていました。なので食口たちと相談して、布団と丸い座布団をあらかじめ用意しおいたのでした。布団の色は黄緑色の絹地に赤い羽根で囲み、座布団は赤でした。大邱(テグ)の開拓が大変でむずかしかったのですが、布団を新調するために、初期の食口たちは心を一つにして精誠もたくさん込めました。そのお金を作るためにも多くの困難がありましたが、あらかじめ準備しておいたのでした。

お父様は薄いそら色のスーツを着ておられましたが、あちらこちらに油汚れが付いていました。それで、私は食口たちが李耀翰(イ・ヨハン)先生に差し上げた韓国服のパジチョゴリをとりあえずお捧げし、その洋服は洗濯屋(=クリーニング屋)に預けました。李牧師のパジチョゴリはお父様に合いませんでした。袖が短く、チョゴリ(=上衣)も短かったし、特にパジ(=ズボン)は短すぎて見るに忍びないほどでした。

そんなお父様の姿を見ると心の奥底から悲しみが痛くこみ上げてきました。二千年前、イエス様が来られた時、服の一つでも準備しておいて待つ聖徒がいませんでしたが、今日(こんにち)も天宙の主人公になられる方が来られたのに、キリスト聖徒たちが知ることもできず迎えることができないことを考えたときに、熱い涙が私の顔を覆いました。

お父様が来られたという知らせを聞いた大邱食口たちが集まり始めました。瞬く間に下の部屋と上の部屋がいっぱいになりました。それまで大邱食口たちは、お父様についての話はたくさん聞いていたのですが、直接会ってお目にかかることはできなかったので、いつも思慕しながら待っていたのでした。

お父様は朝食が終わった後、御言葉を語り始められました。皆、御言葉に酔い時間の経つのも忘れていました。

そう時間が経って正午ごろになったときです。突然警察が来ました。おそらく、部屋の中で大きな声で話しておられる声が聞こえ、人々が集まっていたので家の主人がいぶかしがり警察署に通報をしたようすでした。

私は急いでお父様に勝手口から出て下さいと申し上げました。勝手口は女性だけが出入りするので、女性用のゴム靴しかありませんでした。仕方なくお父様は女性用のゴム靴を急いで履いて外に出られました。その家から出て、他人の家の玄関先に身を隠しました。

そこには幸いなことに道行く人々からは見えないところでした。お父様は体に合わないパジチョゴリを着ているうえ女性用のゴム靴を履いておられたので、人々の目には怪しく見られる状況でした。私はお父様の前に立ってチマ(スカート)を広げて立っていました。しかし、私の背が低いので、お父様を覆って差し上げることができませんでした。その路地に立って私は切実に祈りました。

「神が愛しておられる息子がこのように、サタン世界の人々から追われて侮辱を受けています。本当に神様が遣(つか)わされた方であるならば、もう少し穏やかに行くことができるようにして下さり、神が生きておられることを見せて下さらなければなりません。彼らの暗い目を明るく見えるようにして下さり、天宙の真の主人であられる父を分からせてやって下さい」と祈りながら立っていました。

お父様のお姿は、大変みすぼらしく哀れに見えました。お父様は、「聖書に、知恵は蛇のようにしろと、イエスは言われた。神の御心を成して差し上げるか成せないかは、人間がすることにかかっている。暗いサタン世界に神の高貴なる御旨を繰り広げようとするから、サタンがじっとしているはずがない。いかなる方法であれ御旨を成す事ができないよう妨害をしているが、私は刑務所や留置場を恐れはしない。ただし、もし何かの事件でも生じたなら、それだけ復帰摂理が延長されるので、知恵深く行動をしなければならない」と言われました。

そう言われながら、「賢實(ヒョンシル)が今食口たちの中で一番若いから、知恵深く敏捷(びんしょう)に囲いになって動いてくれ」と願われました。「どれほど人がいないので、私にこのような願いをされるのか」という気持ちで神様に対する切実なお父様の心情をより痛感しました。

お父様は、「国を探し求める為に独立軍が命を捧げて戦ってきた。私たちは、この地に全人類が共に良く住むことができる神の国を立てるべき責任があることを考えれば、何ができないことがあるか」と激励して下さりもしました。その時のお父様の立場とその姿、その切実さを今も忘れようとしても忘れることができません。

その家では休まれることができないので、すぐに大邱駅近くの旅館にご案内しました。スーツは取りに行けなかったので、お体に合わないパジチョゴリを着てタクシーに乗られました。いったん旅館の部屋をとり、洗濯屋に行って洋服を取って来ました。洋服を着られて、私の心がやっと楽になりました。

警察が来てから、近所の人たちの視線がいっそう厳しくなり、再び南山洞に引っ越しをしました。そして、隣に部屋を別に借りて、お父様をお迎えしました。私は食事のたびにその部屋に行って料理を作って差し上げました。その年の11月は天気がひときわ寒かったです。大邱(テグ)の冬の風に、手が腫れ裂けて血が出ました。そして、反対し迫害している群れのために悩まされ、つらく過ごしました。お父様は大邱で命をかけて伝道をしなければと言われましたが、なかなか伝道の炎が燃えませんでした。それだけ既成教会の信徒たちの反対と迫害、嘲笑が強かったからです。

第二章

その4  お父様の後ろ姿

第二章 ■ 韓半島に来た再臨主を証しせよ
 ● 起きて叫ばん
    お父様の後ろ姿

1953年11月20日頃、南山洞(ナムサンドン)の部屋を借りて、数日もしなかった頃でした。南山洞の路地の横の小さい部屋には、玉世賢(オク・セヒョン)オモニ、池承道(チ・スンド)オモニ、李耀翰(イ・ヨハン)牧師、そして私を含めて4人が寝起きしていました。

その日の午後4時になった頃でしょうか、どこかで聞き慣れた声が聞こえてきました。「南山洞31番地がどこですか?」というその声は、崔先吉(チェ・ソンギル)女史の声でした。

アイロンをかけていた私は大変驚き、靴も履かず外に飛び出し、木を積み上げておいた小屋に隠れました。主人のおばさんは、私がそのように驚く姿を見て不思議に思ったようです。玉世賢(オク・セヒョン)オモニ、池承道(チ・スンド)オモニ、李耀翰(イ・ヨハン)牧師は部屋の中で、門の取っ手をつかんで震えていました。家の主人が、「ここは南山洞31番地ではありません。もっと上がらなければなりません」と機転を利かして答えてくれました。

南山洞31番地は、任執事(イムチプサ)の家の住所でした。どうして崔(チェ)女史が大邱(テグ)にある任執事(イムチプサ)の住所を知っていたのでしょうか?大邱(テグ)にいるとき、私たちはあまりにも頻繁に引越しをすることになったので、お父様に手紙を送るとき、任執事(イムチプサ)の家を住所に定めました。お父様が報告を受けることをいつも喜んでおられたので、週一回報告の手紙を送りました。

おそらく崔(チェ)女史は、金元弼(キム・ウォンピル)先生を通じてお父様のソウルの住所を知ることになり、そのソウルの清進洞に行って私が送った手紙を見たようでした。大邱(テグ)に到着した崔(チェ)女史は、警察署にお父様を通報までしました。

私はすぐにお父様のところに行って、崔(チェ)女史が大邱に来たと報告しました。その報告を聞かれたお父様は、「今日(きょう)、私がここを離れることが大邱食口たちの為にも良いだろう」と言われました。しかし、上京する旅費がありませんでした。

私は他人に貧乏くさい話はできない性格ですが、仕方なく食口たちに事情を話し、旅費を準備して差し上げました。南山洞から大邱駅に向かわれたお父様の後ろ姿がとても哀れに見えました。夜11時30分に出発する夜汽車だったので、誰も駅までお見送りができない状況でした。その当時は夜間の通行禁止時間が厳守されていたので、お見送りした後、家まで帰ることができなかったからです。

その日に限って、大邱(テグ)の風は身を切るように冷たく、手と足が凍えて歩くことが難しいほど寒かったのでした。「復帰摂理の大志を抱(いだ)かれ、御旨を成して差し上げる為に神様と約束されたその日から、言葉では表すことの難しいいばらの道を十字架を背負って行かれるお父様、その道を同志もなく、お一人で行かれるのか!」という思いになり、自然に涙が出ました。そのようにお父様は、時にはつまずき倒れ、打ち倒されながらも、神様だけを考えながら人類救援の目標に向かって行かれるのでした。そうして、全人類の前にサタンと戦い勝利された見本を見せて下さいました。

その夜、私は眠れませんでした。お父様の後ろ姿がしきりに思い出されて涙だけがとめどなく流れました。

「先生は、このような苦難の中でも放棄しない姿を見せて下さった。そんな先生を見つめられる神様は慰安を受け、立派な私の息子だと微笑まれ喜ばれたであろう。先生は何十回、何百回も、もうこれ以上できないと言えるような機会が多かったけれども、一度も御心に背くことなく従順に生きてこられた。御自身の困難と苦労と苦痛を意に介されず、神の心配と苦衷(くちゅう)だけを心配され、恐れておられたからである。

70億人類の中でどこの誰が神様を心配し、自身よりももっと神様の為に生きようとするだろうか?どこの誰が神様のつらさを和らげて差し上げ、平安に休まれる日の為に努力するだろうか?神様の前にこのように親孝行する孝子は、人類の歴史以来ただ一人もいなかっただろう。私たちの先生のような方がどうしてこの地上に来られたのだろうか?もし来られなかったならば、誰が天と地に絡(から)む事情と因縁の糸口を解くことができるだろうか?先生が来られたので、神様が四千年の間準備をさせて送られたイエス様の御旨を継承され、成すようになったのである。

先生は、六千年間待ち焦がれ千年を一日のように待って来られた神様の目的を成し遂げられる責任を果たした方である。地上は暗闇につかって分からないが、霊界ははっきりと見て、また知って証ししている。いつか地上の全人類も先生が誰であられるかを知るようになるだろう」という考えをしながら、目を開けたまま夜を明かしました。

劉孝元(ユ・ヒョウォン)先生(初代協会長)の入教

それから一カ月ぐらい過ぎた後、1953年12月25日、釜山(プサン)でお父様にお会いすることができました。その日、お父様はソウルから釜山に来られました。劉孝元(ユ・ヒョウォン)前協会長、劉孝永氏と劉孝敏氏などが入教したという知らせを聞いて、釜山に来られたのです。私もお父様にお会いすることも兼ねて、釜山に下って行きました。

当時、釜山の水晶洞(スジョンドン)の家には崔(チェ)女史が住んでいたので、お父様をお迎えする家がありませんでした。一旦、劉孝元(ユ・ヒョウォン)氏のいとこで妹の劉(ユ)スニさんの家にお迎えしました。避難民たちが住んでいた影島(ヨンド)の小さな一室でした。その小さな部屋でお父様は、劉孝元(ユ・ヒョウォン)氏に熱心に原理講義をされました。

私はお父様の食事の責任を任せられたので、御言葉を聞ける時間はありませんでしたが、お父様が朝から翌日の午前2時や3時まで話される姿を見ることができました。劉孝元(ユ・ヒョウォン)氏は、健康が良くなく斜めに横になり御言葉を聞きながら、何かをたくさん記録していました。お父様は食事するのも忘れて、御言葉に酔われた立場で精誠を尽くして話されました。木や石でない以上、誰もがその御言葉の前に感動を受けざるをえませんでした。

しかし、経済的にはまだ困難な時期だったので、朝と夕方にお父様に捧げる食事の心配が多かったのでした。

そんなとき、李得三(イ・ドゥクサム)お姉さんが経済的にとても助けてくれました。お姉さんはただ経済的な物質の後援をしただけではなく、心情がいつも生きていて、何が足りないかを言わなくても知って助けてくれたのです。

ある日の夜明けに、我々がまだ眠りから覚めていなかったとき、誰かが門を叩きました。眠りから覚めて戸を開けると李得三(イ・ドゥクサム)お姉さんでした。お父様に差し上げたいと一晩中白菜のキムチ、大根のキムチを漬けて瓶(かめ)に入れて頭に載せ、念珠洞(ヨムジュドン)から影島(ヨンド)まで歩いて来たのです。私は大きな感動を受けました。ちょうどキムチが切れて心配をしながら眠りについたからです。

その当時に御言葉を聞いていた人たちは、劉孝元(ユ・ヒョウォン)、劉孝永(ユ・ヒョヨン)、劉孝敏(ユ・ヒョミン)、金寛成(キム・グァンソン)、宋道旭(ソン・ドウク)氏などでした。

(前列)左から:金寛成 李耀翰   お父様 朴正華 劉孝敏
(後列)左から:劉孝元 姜少領 李漢城 李鳳雲 辛聖黙

宋道旭          玉世賢

その頃、金仁珠(キム・インジュ)勧士(クォンサ)が北韓から韓国に下って来て連絡がつき、初めて影島(ヨンド)でお父様にお会いしました。金仁珠勧士は、部屋に入って祈りをささげ話を少し聞くや、「アボジ!」と言い、お父様の膝の前にひれ伏して泣き始めました。その姿に私たちすべてが大きな感動を受けました。

釜山の影島(ヨンド)でひと月の間、御言葉を話されましたが、また問題が生じました。町内の班長が、「北韓の言葉を使う青年が来たが、周囲の人々が集まってくる。怪しい」と警察に通報したのです。その通報を受けた警察が訪ねてきたので、東大新洞(ドンデシンドン)に引っ越しをしましたが、また問題が生じて大邱に上がることになりました。

第二章

その5  暗闇の中のむせび泣き

第二章 ■ 韓半島に来た再臨主を証しせよ
 ● 起きて叫ばん
   ▲ 暗闇の中のむせび泣き

1954年1月末に大邱(テグ)に戻ってきましたが、依然としてお父様をお迎えする所がありませんでした。それで鳳山洞(ボンサンドン)に大変小さな部屋を借りました。

鳳山洞(ボンサンドン)のその部屋はとても寒かったです。部屋の中に置いた雑巾がかちかちに凍りつくほど寒さが厳しかったです。そんな寒さにもお父様は、毎晩手ぬぐいを一つ水に濡らして部屋の隅に置いておくようにと言われました。夜明け三時になると起きて、その手ぬぐいで顔を拭かれ、祈祷をされました。あまりにも寒かったので、布団を一つは敷いて、一つはかぶってひれ伏して祈祷されるのですが、いつもむせび泣きながら、「神様、あなたと約束した時、私ははっきりと御旨を成して差し上げますと言いました。しかし、まだ御旨が成されるにはほど遠いです。しかし、私は疲れず放棄せずに、神様に栄光を抱(いだ)かせて差し上げる日を備えます」と祈祷されました。

全身を震わせながら泣かれて布団がずり落ちるたびに、かぶられていました。そのように泣かれて祈祷されるお父様の声は、なぜか追われておられるように感じました。誰もお父様を叱ったり責めたりしませんが、お父様は神様との約束を守ることができず、心を痛くされておられました。神様と、いついつまで御旨を成して差し上げますと約束されましたが、その結果が現れないので追われる心を持って生きておられたのです。だから、「神様、どのようにすれば良いでしょうか?」という思いであることを感じることができました。

▲当時の大邱市内

その家は、今も私に生生しく思い出されるのですが、世界で最も貧しい人が住んでいる家のように古びていました。家の主人であるおばさんが野菜を頭に載せて出て、路上で売ってやっと生活していた家庭でした。そんな家でお父様に侍ろうとするのですから、言葉に表すことのできない切ない心情でした。

そんなある日、夕方にお米が切れました。それまで残っていたお米で夕飯はやっと作ることができたのですが、翌朝朝食を作って差し上げるお米がありませんでした。しかしお父様に、「お米がなくなりました」などと言うことができません。申し訳ない気持ちでとても口に出せませんでした。夜がふけ、寝ようと横になっても心配になって眠れませんでした。

ところが、翌日の朝早く外に出てみると、縁側に誰かわかりませんが米を一袋持ってきて、それが置いてあったのです。私は思わず米の袋をつかみ、声もなく泣きました。そして、昔、エリヤが食べるものがなくて心配した時、カラスが食べる物をくわえて持ってきてくれたことを思い、「神様、感謝します」と祈りました。

後でわかったことですが、御言葉を聞いて間もない食口が、早朝にお父様にお米を持って行って差し上げようという気持ちがなぜかわからず火のように起こって、持って来たと言いました。

▲当時の大邱・東山病院

私は毎日朝早くから早めに家事をしておいて、大邱(テグ)で神霊が高いことで有名な人たちに会いに行きました。その中で、今でも鮮明に思い出されるのは、東山(ドンサン)病院の下に住んでいた金(キム)夫人でした。金夫人は、小さな家に住みながら精誠を捧げる生活を長くしてきた人でした。神様が直接見せて教えてくれる啓示に絶対的に従いました。

ある日、神様が韓国を中心として新たな摂理を繰り広げておられて、すでに韓国の片隅で新たな役事が始まったという啓示を受けました。その啓示を受けた後、さらに熱心に精誠を込めているという噂を私が聞き、その夫人に御言葉を伝えました。数十回訪ねて行って原理の御言葉を伝えましたが、ある部分は理解をして感動を受けましたが、ある部分は全く理解ができませんでした。そうしながら、なかなか食口になりませんでした。

金夫人を見て、神様は神霊の高い人々にあらかじめ見せてあげ、準備できるようにして下さったことを確実に知ることができました。しかし、神様がそのように知らせてあげて準備された人でも、自己の観念や思考を捨てずに固執すれば、再臨主に会っても知ることができず、新しい真理を聞いても自身が受けた啓示にだけ執着するということを感じました。その人がするべき責任分担があったからです。

ある時は、大邱の三徳洞(サムドクドン)で牧会をしていたある牧師がお父様に会いに来たことがありました。彼は大邱(テグ)の大きな教会で牧会をしていた有名な洪(ホン)牧師でした。その牧師がお父様の御言葉を聞いて恩恵を受けたのか、数回御言葉を聞きに来ました。その牧師と縁があった他の既成教会の牧師や伝道師たちもお父様を訪ねて来て御言葉を聞いたことがあります。

お父様は神霊の高い人たちに新しい御言葉を伝えることを願っておられたので、いつも私に伝道に出なさいと催促されました。今も準備されている人がたくさん待っていると言われました。

なぜか朝ごとにお父様にお会いすることが難しく感じられました。早朝に起きて、神様の御旨をおいて祈祷されたお父様の龍顔(りゅうがん/王の顔)は、厳粛で悲壮で恐ろしく見えました。しかし、伝道に行って帰って来ると、まるで父親が娘を懐(なつ)かしがるように優しいお顔で対して下さいました。いつも私はその日に起こった事を素直にそのまま報告差し上げました。そんな時は肉身の父以上にお父様が近くに感じられました。

第二章

その6  迫害の連続

第二章  ■ 韓半島に来た再臨主を証しせよ
 ● 起きて叫ばん
  迫害の連続

1954年2月9日、陰暦の1月6日、お父様の生辰(せいしん=ご聖誕)を大邱(テグ)で過ごしました。大邱の食口たちが集まって、お父様の生辰の宴(うたげ)を催すのですが、劉孝元(ユ・ヒョウォン)、劉孝敏(ユ・ヒョヨン)、劉孝永(ユ・ヒョヨン)、李昌煥(イ・チャンファン)氏などが来ました。その時、私たちは大鳳洞(デボンドン)に住んでいました。

集まって話をしておられる最中に、家の主人のおばさんが私を呼びました。「外にお客さんが来ています」と言うので、私が見ると一人の男性が立っていました。顔を見たのですが知らない人でした。

「どなたですか?」
「私は文鮮明先生の友人です。面会をちょっとさせてください」と言いました。
面識のない人なので、どうしたらいいか迷ったのですが、お父様のお名前を言いながら友達と言うので無視することができませんでした。それでお父様に、「ある方が友人と言って、外に来ています」と報告を差し上げました。

お父様は、「そうか?」と言われ、立って外に出られました。部屋の中に人がいっぱいいたので、お父様が出て行って誰なのかを見られた方が良さそうな状況でした。

ところが、お父様が出られるやいなやその人は、お父様を殴り始めました。お父様の顔を見てすぐに腰ひもを手でぎゅっと掴み、揺らしながら殴るのでした。私たちが横で止めようとしてもどうしようもありませんでした。道でそんな事が起きたので、井戸端で洗濯をして水を汲んでいた奥さんたちがみな見つめました。「何のけんかが起こったのか?」という顔で見つめるので、全く困った状況でした。

一瞬に起こった事なので、食口たちが出てきてやめさせようとしたのですが、既にお父はたくさん殴られて、目も当てられない姿になりました。本当はお父様が力を使われればその人にやられるような方ではありません。ところが、お父様は一度も抵抗をせずに黙々と殴られていました。振り回されれば振り回されるままに、打たれれば打たれるままに、そのまま打たれて揺れました。

食口たちがやっとその人をなだめたところ、お父様はただ何の言葉も言われず、部屋に入って行かれました。部屋に入って行かれるその後ろ姿がどれだけ私の胸を痛くしたか分かりません。生辰(せいしん)に、すべての食口たちが集まった時、そのような事が起きたので、まるですべてのことが私が責任を果たせなくて起こったようで、ただただ恐れ多いのみでした。

いつかその話を私がある人にしたところ、その人が、「力がなくて打たれたのではないでしょう。何の言葉も言われず抵抗もされず、その侮辱に耐えられたお父様の心情がどれほど苦しく、どれほど気がふさがったか考えれば涙が出ます」と言ったことを聞いたことがあります。

後で分かってみれば、その打った人はある食口のお兄さんでした。家族の反対が激しい食口でしたが、その食口がお父様に会いに行くと言って家を出て行ったと言いました。それで怒ったお兄さんがお父様を探しに来て乱暴をふるったのでした。実際にはその妹はその場にいもしませんでした。その事実を確認したそのお兄さんという人は謝りましたが、すでにお父様の生辰の宴(うたげ)はできる状況ではありませんでした。

当時はそのようなことが多くありました。食口の家族がやってきてお父様に暴力を行使したり、罵倒したりする場合が多かったのでした。

そうであったので、大邱にいる間、あれやこれやの事件のために引っ越しをよくしました。ある時は、月に三回も引っ越しをしました。いつもこちらに追われあちらに追われの、追いまくられる立場でした。迫害も激しく、教会は頻繁に引越しをするので、大邱の食口たちが極度に過敏になっていました。ある日は一日に二度も引越しをしました。午前中に荷物を運んで礼拝をする姿を見て、午後には家の主人が礼拝をしてはいけないと言うので、新たな家を求めて引っ越したこともあります。

後は、食口たちに知らせずに静かに引っ越しをしたりもしました。しかし、食口たちが何とか調べて探して来ました。引越しをした翌日の朝にある勧士(クォンサ)が訪れて来たこともあります。びっくりして、「知らせもしないのにどうやって分かりましたか」と尋ねたところ、「神様がすべて教えて下さいました」と答えるのです。

その勧士は教会が引っ越したことを知って、徹夜祈祷をしたと言います。一晩中、「神様。どこに引っ越ししたのか教えて下さい」と懇切に祈祷をしたというのです。朝になると、「私が教えてあげよう!」という神様の声が聞こえてきました。「家を出なさい!」勧士は、神様の声に従い家を出ました。その声が導くままに歩きました。すると、ある家の前で足が自然に止まりました。「この家に入りなさい!」と教えてくれて訪ねて来たのです。

ある日の出来事です。引っ越しをした後、食口たちにおいおい知らせなければと思っていると、鄭泳秀(チョン・ヨンス)という人から電話が来ました。その人は、姜執事(カンチプサ)の夫で漢方薬の薬局をしていました。最初は、姜執事が私たちの教会に通う時ひどく反対をしたのですが、だんだん御言葉を聞いて一緒に教会に来始めて間もなかったのでした。

電話で、「引越しはどこにされましたか?」と聞かれたので、「お宅の近くに引っ越しています」と言って住所を教えてあげました。すると「ああ、本当に私たちの家から近いところですね。夕方に一度まいります」と言いました。

その日の夕方に食事をしていたところ、家の主人になるおばさんが来て、誰かが外で私を探していると言いました。「誰がこの時間に私を訪ねて来たのか?」と、外に出てみるとお父様がタクシーの中で座っておられました。任執事(イムチプサ)もお父様と一緒にタクシーの中に乗っていました。お父様は私を見てすぐに、タクシーに乗れと言われました。家にいた人々が気になって、「ちょっと家に入って、先生といっしょに出ると話をしてきます」と言いました。しかし、お父様はお急ぎなのか、「その人たちを心配しないで早く行こう!」と催促されました。結局、どこに行くという話もしないで、夕食を食べ残したままタクシーに乗りました。

到着した所は、大邱駅の近くのある旅館でした。お父様は任執事(イムチプサ)と私に、「復帰の道は難しく険しい道だ。この世を神の国に復帰する責任が私たちにある。したがって、ここには人間が想像できないこともあり、理解できないことも多くあるので協助してほしい」と言われました。また、「我々は御旨の中で因縁が結ばれ、また、御旨を立てる為に行く体であるから、命を差し出して戦って行かなければならない。死のうとする者は、生きるのであり、生きようとする者は死ぬので、死も感謝の気持ちで受けるという心情を持って進んでいこう!」と切実に願われました。

そして、お父様と別れる時は、「私が来たと言えば、また問題が生じるようになるから、できるだけ私が来たとは食口たちに話さないように」と指示されました。任執事(イムチプサ)と私は11時頃になって家に来ました。ところが、道で李耀翰(イ・ヨハン)牧師に会いました。

李牧師は大変怒った顔で、「どこかに行くならどこに行くと言わないと。なぜ何も言わないで出て行きましたか?家に帰ってみなさい。大騒動です」と私を責めました。私は申し訳ない気持ちで、顔を上げることができず何度も謝りました。李牧師は怒って、「家に早く帰ってみなさい」とだけ言うのでした。それから、「こんな遅くにどこに行くのですか?」と聞くと、「友達の家に行きます」とだけ言って李牧師はそのまま行ってしまいました。「とても怒っているようだ」と思いながら、すれ違う李牧師の顔を見て、私はびっくりしました。その顔には青いあざがあり、ひたいには誰かに殴られたのか、こぶができていたからです。

「本当に家に何か大変なことが起こったようだ」という思いで急いで家に行くと、修羅場になっていました。一部始終を聞いてみると、私が原因で起こったことでした。私が夕食を食べ終えずに誰かが訪ねて来たと言って戻って来なかったので、食口たちは心配になりました。心配の末、「もしかして大邱南部警察署から刑事が来て捕まったのではないか?」という結論に至りました。

姜賢實伝道師が捕まったので、この家にも刑事が来るという思いになり、いったん荷物を鄭(ジョン)執事の家に移そうという皆の意見になったと言うことでした。あたふたと荷物を運んでいるところに、よりによって鄭泳秀(チョン・ヨンス)さんが家に来ました。その人は引っ越ししているのを見て、「私が家の場所を知ったから、引越しをするのではないか?はっきりと夕方に訪れると言ったのに、このように泥棒のように引越しをするのはなぜか?かつては教会に反対していた者だとして、もしかしたら私を信じることができずに引越しをするのか?私がまだ教会に反対し、妨害すると考えているのか?」と誤解をしてしまいました。

そんな思いになって腹が立って引っ越しで荷物を運んでいた李牧師の胸ぐらをつかんで、「どこに引越しをするのか?」と言いながら殴り始めたのです。横から姜執事(カンチプサ)がとめようとしましたが無駄でした。李牧師がいったんこの場を離れようという思いで、隙を見つけた瞬間走って逃げました。そのような行動にさらに怒ったチョン長老は、「泥棒を捕まえろ!」と声をあげました。

その声を聞いて、近くにいた警察官が来ました。事が大きくなったので、姜執事が機転を利かせて警察官に、「夫婦喧嘩でこのようになったので介入しないでください。申し訳ありません」と言い、わけを話したと言うことでした。幸いなことに警察官には帰ってもらいましたが、李牧師には青あざができ、荷物はあちこちに壊れて散らばり、家が修羅場になってしまいました。

玉世賢(オク・セヒョン)お母さんと池承道お母さんは驚いて他の食口の家に行って泊まりました。次の日の朝、二人は家に帰ってきて私を責め始めました。

「どこかに行くなら行くと話をして行かなくては….昨日は李牧師が殺されるかと思った」
「どれほど驚いたか、私たちは昨日の夜は、体が震えてブルブル震えながら寝ました」という言葉に、顔をあげることができませんでした。
「それで、昨日はどこに行って来たのですか」と、池承道お母さんが尋ねました。お父様が誰にもお父様に会ったという話をするなと言われましたので、私は事実を申し上げることができませんでした。

「申し訳ありません。友人が突然訪ねてきて、その家に行ってきました」と答えました。そしたら池承道お母さんは火のように怒りました。
「きのう先生にお会いしたんじゃないですか。私はすでに神様から先生が大邱に来られるという啓示を受けました。姜伝道師は、きのう先生にお会いして来たはずでしょう?しかし、なぜ私たちに先生にお会いしたことを隠すのですか?私たちは、北韓のときから先生に従ってここまで来た者です。私たちにまで先生に会ったことを隠すなんて….どうしてそんなことができるのですか?」と言われながら、大変私を責めました。

申し訳ないという心の片隅では、「お二人はいつも変わりなく信念と確信に満ちて神様とお父様がどこにおられるのか、何をされるのかすべてを知っておられるのだな」という羨(うらや)ましさも感じました。神様とお父様をいつもまず考えて侍る生活をしていた方だったからです。

そんな生活の中でも李耀翰(イ・ヨハン)牧師は、いつも信仰的でした。毎日追われる生活をしながらも、部屋一つ、台所一つも備えられていない家に住みながらも、いつも肯定的でした。

▲お父様と李耀翰先生

我々は、このように追い回されていますが、もう少し時が経てば御旨が成され、私たちが住んでいたこの家の柱がどれほど貴い柱になり、この家がどれほど貴い家になるでしょうか?ずっと後になって、私たちの後輩たちや歴史家たちが私たちが経て行ったこの場所を探し求め、私たちの路程をたどる時が来るでしょう」と言いました。

大邱(テグ)に崔夫人が来て、お父様と私たち一行を警察に通報したため、私たちはいつも追われる人のように暮らしました。罪を犯した訳でもないのに、常にびくびくする生活でした。変わった人が現れたら、まず隠れ、後をつけられていると感じたら路地に入ってしばらくして出てきたりしました。間違ったことをした訳でもないのに間違ったように、罪がないにもかかわらず罪があるように、息も大きくできず追われながら暮らしました。

明日がどうなるかわからない生活の中でも、将来はこのような生活が歴史になるという李牧師の言葉が私に感動と力を与えました。それで私は、「李牧師は本当に信仰がありますね。どうしてこのような難関でもそのような考えが出てくるのかと、尊敬します」と申し上げたこともあります。それほど当時の私たちの生活が大変でした。そして、大変だとは思いながらも、「お父様に侍る私たちがいくら大変だといっても、お父様の困難に比較することができようか?お父様はどれほど困難か?」と思ったら、涙があふれました。

今、振り返って考えてみると李耀翰(イ・ヨハン)牧師の言葉のように昔の苦労が貴い歴史として残るようになりました。今、昔に帰ろうとしても帰ることができない過去の思い出です。

大邱(テグ)で苦労して暮らしましたが、お父様と一緒に食事もして家族のように過ごしました。夢のような日々でした。ある日、夕食の準備を始めようとしたら、外で、「カニ売り!…カニ売り!」という声が聞こえました。ちょうどその時、少し余裕があったので出て行ってカニを買ってきて夕食を一緒に食べました。お父様と李耀翰牧師が一緒に箸でカニの身を取り出しながら召し上がられたのですが、お父様が、「ああ、このカニが姜賢實の手ぐらい大きいな」と言われ、しばらく笑ったことがいまだに思い出されます。

第二章

その7  龍門山へ発つ

第二章  ■ 韓半島に来た再臨主を証しせよ
  ● 起きて叫ばん
     ▲  龍門山(ヨンムンサン)へ発つ

1954年3月25日、龍門山(ヨンムンサン)で羅雲夢(ナウンモン)長老が復興集会を開いているので、お父様が一緒に行こうと言われました。お父様のお供で、玉世賢(オク・セヒョン)お母さん、池承道(チ・スンド)お母さん、李耀翰(イ・ヨハン)牧師、金ジェゴン、ジョンドッキ、ジョン神父と、私の八人で出発しました。

▲ 龍門山

龍門山への道は舗装がされていません。それで、徒歩で登りました。羅雲夢(ナウンモン)長老が龍門山に大きなテントを張って復興会をしていました。私たちはまず、近くの村に部屋を二つ借りました。

お父様は家におられて、私たち一行はその夜、羅雲夢(ナウンモン)長老が開く集会に出席しました。私たちはその復興会に出かけながらお父様に、「もしかしたら羅(ナ)長老に先生と会う意思があるか尋ねてみましょうか」とお聞きしました。しかし、お父様は何かの予感があられたのか、「私が会うのはよくない」と言われました。

「なぜですか?」
「会って、彼がよく理解して感謝して受け入れるなら彼もいいし私たちもいいが、もし御言葉を受け入れず、反対をしながら間違った話をすれば、彼が一生の間に築いたすべての功績と期待が一夜にして崩れるようになる。だから、その人のためにもあなたたちが会うのが良いだろう。私が直接会って、その人が行く道を塞(ふさ)ぐような結果になると良くない」と言われました。

私たちを通して御言葉に接した後に、彼がお父様を訪ねて来るようになることを望んでおられることがわかりました。羅(ナ)長老は、何かの啓示を受けたのか、説教の時間に、「ここに心霊の盗賊たちが来ているので注意してください。心霊をよく保っていないと、盗賊たちに盗まれてしまいます」と言いました。

復興会の雰囲気には恩恵がありました。皆が手を叩き大声で祈るのですが、悔い改め、罪を告白し、痛哭の祈祷をする人々が多くいました。復興会を終えて出て行く時、私たちのことを知った青年がけんかをふっかけながら垂木(たるき)で叩こうとしました。青年たちから逃げて下りてくるのですが、ある人は垂木につまずいて倒れそうになることもありました。

※垂木(たるき/서까래):木造・鉄骨構造などの建築における小屋組構造材

その日の夜、お父様は私たちに多くの御言葉を下さいました。霊的な復興師や大復興師たちの使命は、長く続かないということでした。神様の摂理と一つになれないときは、7年を越えることが難しく、最終的にすべての恩恵の役事を終えてしまうと説明して下さいました。

彼らの使命が終わった後も自分たちの使命が終わったことを知らずに、なぜそうなったかも分からない場合が多く、韓国の有名な復興師たちも自分たちがしなければならない使命を果たせない時、いろいろな方法でその人が打たれて恩恵がさめて冷たくなるというのでした。

その日の夜のお父様の貴い御言葉を聞きながら、集会に参席していた人たちの事を考えてみました。「彼らも一緒にこの貴い御言葉を聞けば、どれほどいいだろうか」という思いになり、痛い心情で彼らのために祈りました。

翌日でした。まだ、日が薄暗い時、大邱(テグ)から任執事(イムチプサ)が龍門山(ヨンムンサン)にいた私たちを探しに来ました。任執事(イムチプサ)は来るやいなや、「先生、大変です。刑事たちが先生のおられる家を襲ってきました。無理やりドアを壊して入り、その部屋に「出入厳禁」と真っ赤な字を書いて、部屋の中にあったすべてのものを警察署に持って行きました。刑事たちが、どこへ行ったのかと聞いたので、龍門山(ヨンムンサン)に祈祷をしに行ったと言いました。おそらく今日の午前中に、ここに刑事が来るでしょう。さあ早く逃げなければなりません」と言いました。

その日の朝食後、私たち一行は、お父様を中心に礼拝を捧げました。私たちは賛美歌を歌いながら涙の海を成しました。その日、お父様は、「私が行くところは戦いであり、涙であり、迫害であり、苦痛である。このサタンの世界を神の国として建てようとするから、サタンがじっとしていない。どんな方法であっても成すことができないよう妨害工作をしているのである。神様の能力で一夜にしてサタンを屈伏させることもできるが、人間の責任分担があるからそれができず、人間がしてくれることを願っておられる」と言われました。御言葉の後、祈祷を捧げたのですが、再び涙の海を成しました。

「神様、私が行く道には険しい峠のような茨(いばら)の道が置かれています。行っても行っても、越えて越えても、また越えなければならない峠道です。父よ、韓国の宗教界と社会が反旗を翻して御旨を成せないように妨害しています。彼らが御旨を少しでも知っていたら反対はしないでしょう。分からなくて反対するので、彼らの過ちを過ちと思われずに許してやって下さい!お父様、私はどんなに苦しく難しくても、これを苦しいとか難しいとか思いません。心配することは、反対を受け迫害を受けている私を天のお父様が見て憂慮し心配されないかを恐れているのです。お父様、私は父と約束したその御旨を生前に成して差し上げます。お父様、私を見て心配の荷物を解いて安心して下さい!この息子がいるではありませんか!どんなに恐ろしい試験も、患難にも、痛みも、辛さも、私は感謝の気持ちで甘く受けて克服していきます。師匠に従っているこの不幸な群れを、父よ、記憶されて、強く大胆に共に勝つことができるようにしてやって下さい!御旨と愛が永遠に私たちを見守ってくださることをお願い申し上げながら、主の名で申し上げました。アーメン!」と言われてお父様が祈祷を捧げられたのですが、私たち一行は大声で泣きながら共に祈りました。

龍門山(용문산)から金泉(김천)までの徒歩の時間が分かります。
25분+45분+1시간20문+30분+20분+30분+1시간10분+1시간=360분(6時間)

祈りを終えて、龍門山(ヨンムンサン)を後(あと)にし金泉(キムチョン)まで歩いて来ました。歩きながら、「一つの国を独立させた独立軍も命を差し出して戦ったのに、6千年の間神様が願われた天の御旨を成すこの重大な事に、なぜ生命を捧げられないか?彼ら以上の心情と度胸を持って戦わなければならない。また、遠い後日、後世の人々が、『この御旨を成す為に犠牲の祭物になり、すべてのものを惜しまず捧げて戦ったあなた方のおかげで、このように私たちは良い世の中で幸せに住んでいます』と言えるようにしましょう!韓国だけでなく、全世界の人類が感謝しながら叫ぶことができるその日を必ず作らなければならない」と思いました。

みんな私のような思いであって、金泉(キムチョン)に到着したとき、我々は両方の拳を握り締めて堅い決意をしました。「この道から離れず、最後まで志(こころざし)を立てて戦い、神の栄光を取り戻そう!先生の手足となって一緒に苦難と喜びを共にしよう!」と決心を交わして別れました。

お父様と李耀翰(イ・ヨハン)牧師はソウルに、玉世賢(オク・セヒョン)お母さんと池承道(チ・スンド)お母さんは釜山に、私と金ジェゴン勧士(クォンサ)は大田(テジョン)に、そしてジョン勧士とジョン神父は大邱に散らばりました。私はその時、大田に行ったので大邱を離れることになりました。

警察が大邱にあったすべての荷物を押収して行ったので、歴史的な記録が失われたことは今でも残念です。警察がその部屋にあった荷物をすべて持って行って、それまでお父様が送ってくださった手紙、集めておいた写真、私が夢で見たことを受けて書いておいた手帳まですべて失われてしまいました。重要な歴史的な記録が失われたことがとても残念です。

 

第二章

その8  大田で御言葉を宣布せよ

第二章  ■ 韓半島に来た再臨主を証しせよ
  ● 御言葉を宣布する生活
   ▲ 大田(テジョン)で御言葉を宣布せよ

1954年3月26日、大田(テジョン)に到着しました。教会を開拓しようとして行ったのではありませんでした。大田教会開拓のために行ったのは2年後の1956年6月でした。お父様は私を大田に送られながら、「宣戦布告をせよ!」と言われました。私は、「お父様、戦争が起こったのでもないのに、何で宣戦布告をしますか?」とうかがいました。そうしたらお父様は、「伝道はしなくても大丈夫。新しい御言葉を受け入れよという宣戦布告をせよ。新しい時代が来たと、再臨主が来られたと宣伝をせよ!」と言われました。

お父様は私に神霊の高い牧師、長老、教主、信徒たちに新しい時代の御言葉を知らせよという使命を下さいました。その時から本格的に私はその使命を果たす為に、40日、60日、80日の間、御言葉を伝えてから帰ってきました。お金は一銭もなく、御言葉を宣布しに通うことは易しくありませんでした。地方のどこに行っても教会もなく、食口一人もいませんでした。さびしくつらい路程でした。食事はもらって食べ、寝る所は事情を話して寝る場所を借りて寝ました。そうして戻って来る時には、着ている服一着だけ残し、お世話になった人々に、すべてのものをあげて帰ってきました。

苦労をして80日出て行って、御言葉を伝えて戻って来ては、お父様に報告をしました。お父様はとてもとても興味津々に報告を聞かれました。そして報告をすべて終える前に、「そうか。また出て行かないとね!いつ出て行くの?」と言われました。そんな時には胸がどきっとしました。「苦労して帰ってきた弟子に、一日でも暖かい部屋で休んでから行きなさいとは言われないのか?」というさびしい気持ちになったりしました。「一日でも伝道ということ考えずに暮らせたらいいのに」という思いがしたりしました。

大田(テジョン)に到着して一番最初に中央長老教会に行きました。その教会の伝道師が私の知り合いだったからです。しかし、その人は私の言葉を聞きもしないで、はじめから怒り出しました。「私はイエスをよく信じている伝道師なのに、何の言いたいことがあると言って騒ぎ立てるのか」と言いながら、私が持っていった包みを床から庭に投げてしまいました。その日は雨が降って地面が濡れていました。雨に濡れた包みを拾うと、「早く出て行け!」という叫び声を聞いて追い出されました。

それ以来、行く道は順調ではありませんでした。行く所ごとに門前払いで、夜になれば寝る所を探すのも大変だったし、一日三食のご飯をもらって食べるのもきわめて難しい事でした。寝る所を探すことができず、既成教会に入って、冷たい床の上で徹夜祈祷をするのが常でした。

しかし、後になると教会で寝ることすら困難になりました。それで、大田長老教会で知り会ったある執事(チプサ)の家の小部屋で過ごすようになりました。その小部屋はお米を積んで置く所で、火がつかない冷たい部屋で足を伸ばして横になることもできないほど狭かったたのです。私はその部屋に座って夜を明かしたものです。

そんな中、大邱(テグ)第一教会の韓秉赫(ハン・ビョンヒョク)牧師が復興会をするという知らせを聞きました。韓秉赫(ハン・ビョンヒョク)牧師は、大邱で有名だったので、神様の摂理を少し分かるのではないかと思いました。御言葉を伝えたい切実な気持ちで私は夜通しで韓牧師に手紙を書きました。神の摂理がいつ、どこで、誰を中心として行われているのか、主はどのように来なければならず、いつどこに来られるのか、洗礼者ヨハネの使命は何だったのかなど、御言葉の核心を要約し、理解してもらえるように丁重に勧める内容でした。全部書き終わると15枚になりました。

家の主人である執事に、復興会が開かれる日の午後に韓牧師に手紙を渡してくれるようお願いしました。その日の夕方、私は緊張した気持ちで復興会に参席しました。

しかし、韓牧師は、「釜山(プサン)から大邱(テグ)に行って、信仰のある勧士(クォンサ)と執事(チプサ)をみんな奪った女の異端が大田(テジョン)にまた来ました。今、この場にもその女の異端が来ているかもしれません」と言いました。「さらに、その女の異端は、聖書にない教理を自分勝手に歪曲して説明します。皆さんも気を引き締めて信仰して下さい。そうしなければ異端に誘惑されやすいです」と付け加えました。それとともに、私が手紙に書いた内容をいちいち反論する説教をしました。

説教をじっと聞きながら、2千年前のイエス様が思い出されました。イエスを殺した彼らは一般のユダヤ人たちではなく、祭司長、律法学者、パリサイ人でした。同様に、お父様に一番反対する人も平信徒ではなく、指導層にいる者たちであり、羊の群れを率いる牧会者たちであることを考えれば、重苦しく切ない気持ちになりました。

結局、その復興会の後に、教会ごとに女の異端が来たという噂が伝わり、私が教会を訪れて祈ることすら容易ではなくなりました。見知らぬ若い女が教会を訪問して祈りをすると、「大田に来たというその女の異端ではないか?」という目つきで見たからです。しかし、私は休むことなく、強く大胆に御言葉を宣布しに通いました。

ある日、聖潔教会(=ホーリネス教会)を訪ねて牧師に会いました。教会はそんなに大きくはなかったのですが増築のために教会の前に垂木(たるき)がたくさん立てておかれてありました。私は強く心を決めて、牧師に御言葉を伝えました。

「牧師様も祈祷をたくさんされて精誠をたくさん込めれば、今日(こんにち)この時がどんな時であるのかをだいたい見当をつけることができるでしょう。実際に、ずっと昔にイエス様が来られた時、ユダヤ人がイエス様を自分の目で見ても知る事ができなかったではないですか?今もそのようなときです。牧師様が祈祷をたくさんされ、主に会おうと苦労をたくさんして来られたのに、来られた主を知る事ができなければどれほど残念でしょうか?今まで苦労してきたことが水泡(すいほう)に帰(き)してしまいませんか?それで私は、祈祷をたくさんして精誠をたくさん込める方たちに、このような時が来たことを伝えに来ました。昔の旧約時代から新約時代に移って来たときが信仰の転換期だったように、今が新約から新しい神の摂理の時代に転換される時代です。このような時代的転換期を知って信仰の焦点を合わすことができなければ、私たちも2千年前のユダヤ人たちのように不信の後裔となってしまうでしょう」

話をみんな聞いた彼はかっと怒りました。「いや、大田(テジョン)に女の異端が入って来たということだが、あんたがまさにその女の異端か?」と言いながら立ち上がってこぶしで私を殴ろうとしました。

私はとっさに外に飛び出しその場を避けました。すると、彼は工事のために立てて置いた垂木を持って私を叩こうとしました。思ったように叩けないので、逃げて行く私の後ろから垂木を投げたのでした。幸いなことに私には当たりませんでした。

2千年前、イエス様がどのくらい苦しく切なくて、「この蛇の子らよ、誰があなたを教えて差し迫った神の怒りを避けるのか?蛇の子らよ、あなたがたは悪だから、どうして良い話をすることができるのか?」と叱られ、「あなたがたは災いである」と言われて怒られたその心情が感じられて切なく思いました。

大田で40日間、苦労しながら御旨を成そうと努力をしたのですが、大きく得た物はありませんでした。

大田で一つ得たことは、ペク・シンミョンおばあさんに会ったことです。ペクおばあさんは霊通する方で、何十年も霊界と通じていることで有名でした。その方は私を見るやいなや、「あなたは天使長的ラッパの使命を持っています」とすぐに証しました。それまで私は、天使長が空中でラッパを吹いて降りてくるものとだけ考えていました。

後でお父様にその話を報告したところ、「姜賢實(カン・ヒョンシル)がしていることが天使長のラッパの使命だ。主が来られる前に、現れる前に、まず天使長がラッパを吹かなければならないんだ。そのラッパが何のラッパかと言えば、本当に新しい時代が来たという事、主がこの地に来られたことを知らせるんだ。そのようなことを、天のラッパを吹くこと、すなわち天使長のラッパの使命であると言うんだね。その人がそのことを言ったのだ」とおっしゃって下さいました。

私はペク・シンミョンおばあさんに、協会創立記念にお父様と数人の食口たちで撮った写真を見せてあげました。すると、お父様を指さしながら、「ここに宗教を統一される方がおられる」と喜びました。それで私は、「この方が誰なのか知っていますか」と尋ねました。ペクおばあさんは、「この方は、再臨主です」と答えました。そして、私に、「あなたは今行く道は無限に狭く険しい道であって、誰もが行くことをためらいます。しかし、遠くなく世界の人たちが皆行かなければならない道なので、つらくても難しくても、必ずこの道を行かなければならない」と励ましてくれました。

しかし、私は率直に言って、この方の言葉に半信半疑でした。韓国人一人でもこのように伝道するのが難しいのに、世界の人々が訪れて来るという言葉は百パーセントあっさりと信じられなかったのです。

今はその方のおっしゃったように、世界194カ国に宣教師が出て宣教活動を展開しています。60年余り前の予言が現実として現れて成されています。世界の各国で宣教活動をしている統一食口たちは、韓国を真理の祖国、信仰の母国として憧(あこが)れ慕(した)っています。生きている間に信仰の宗主国である韓国の地に足を踏み入れてみたい、という人が世界各国にたくさんいることを考える時、熱い涙があふれ出てきて、神に感謝を捧げるのです。

第二章

その9  一心教との出会い

第二章  ■ 韓半島に来た再臨主を証しせよ
● 御言葉を宣布する生活
▲ 一心教との出会い

大田(テジョン)からソウルに上がってきて、1954年5月3日協会創立行事に参席しました。協会創立行事は5月3日だったのですが、お父様が5月1日を創立記念日として定めようと言われ、今まで5月1日を創立記念日として記念してきています。


協会創立写真をよく見ると、笠をかぶった老人一人が中に入っています。その人は一心教代表として協会創立行事に参席しました。当時一心教の信徒たちは全羅北道(チョルラプクド)金堤(キムジェ)に集まって住みながら、ソウルに上がってきて白い帯を肩からかけて叫びました。帯には、「イエス再臨の便りが来た」と書いてありました。彼らは青瓦台(チョンワデ)、中央庁、官公署を訪ね回りながら、「イエスが韓国に来たという便りを伝える為に来た!」と大胆に叫びました。劉孝敏(ユヒョミン)氏が彼らのうちの一人を「西大門(ソデムン)の家」に連れて来て、一心教の内歴について聞くことになり、その人が創立行事にも参席することになったのです。

彼らの教主は姜大成(カン・デソン)という人でした。その教主は、1945年8月15日に韓国が日本から解放されるという啓示を受けて予言した人でした。お父様は協会創立行事の後、私に、彼らが一年に一回ずつ開く大祭(たいさい)に参席するように言われました。陰暦の4月8日には、彼らは神様に大祭を捧げます。大祭である陰暦の4月8日をひかえ、三日前にソウルを離れて金堤(キムジェ)に向かいました。

▲左写真は姜大成教主の肖像画。 右写真の中央が姜大成教主と、後ろは弟子たち

彼らは全羅北道金堤郡(キムジェグン)廣活面(グァンファルミョン)學堂里(ハクダンニ)というところに集まって住んでいました。私はその日の午後、真っ黒なビロードのチマに白いチョゴリを着て大門の中に入りました。姜大成(カン・デソン)教主は風采が非常に良い人で、白い韓服を着ていました。

姜教主は、私を見て、「この家は、神様を祀(まつ)った家なので、真っ黒なチマをはいては入ることができない」と言って入れてくれませんでした。それでそこの人たちが、「今すぐ出て行け!」と私を追い出そうとしたのですが、私はあわてずに、もっと大きな声で堂々と、「私は教主様に会うために遠いソウルからわざわざ訪ねてきた者です。このように薄情に対してはいけません」と言いました。すると彼はしぶしぶ、「本当にそうなら、部屋の中には入れないが、床にちょっと座りなさい」と言いました。

床に座ったら、彼はまた私を叱りました。「韓国人がなぜ髪を焼いて(パーマをして)いますか?韓国人は韓国人らしくかんざしを刺さないと」と言うのです。

私はいじけずに、「おじいさんはなぜ他人の私生活を心配しますか?私はすべてのことを神様に聞いて暮らしている者なので心配をしないで下さい」と答えました。

しかし、私の言葉が終わるやいなや、その教主はドシンと音を立ててそのまま後ろに倒れてしまいました。10分、20分しても起きません。すると、主だった弟子数人が声をあげながら、私に掴みかかりました。

「何やら狐みたいな女がソウルから来たと思ったら、私たちの先生を殺してしまった」と言いながら、彼らは慌てた様子でした。医者を呼んで来いと言いながら、私には自分たちの教主を生き返らせろと脅しました。私は心の中では驚きましたが大胆に、「ご覧のように私はこの床の隅に座っていただけで、手一つつけませんでした」と言いました。すると、「この女は妖術をするのか気合術をするのか分からないが、とにかく大変なことになった」と言いました。教主が意識を失ったので、家中がそれこそひっくり返ったのでした。

幸いなことに、しばらく後に教主が意識を取り戻して、起きて座りました。姜教主は、「私は入神して霊界に言って見たところ、この婦人の霊的な位置が自分の位置よりもはるかに高い」と言い、「この婦人がここにいる間、食事やすべてのおもてなしを私にするのと同じようによくしなさい」と指示したのです。

このような姜教主の指示に従って私は手厚いもてなしを受けました。お粥だけでも松の実のお粥や、ごまのお粥、いくつかの果物と蒸した鶏肉も用意してくれました。それは、苦労をして御言葉を宣布していた時代だったので、そのようなもてなしがめずらしくもあり驚きもしました。

いよいよ陰暦4月8日になりました。全国に散在している一心教信徒たちが集まりました。数百人が集まりましたが、大人は髷(まげ)を結(ゆ)い、独身男性は頭を長く編んで垂らしていたり、婦人たちは白い服にかんざしを刺していました。もちろん独身女性たちも髪を結って垂らしていました。大祭は、牛や豚を屠(ほふ)り、これ以上できないほど盛大に供えて過ごしました。

姜教主は大祭をしながら、私に、聴衆に一つ話をするように言いました。私は、「神の摂理と韓国」という主題で話しました。「選ばれた韓国の人々は、世界の前に一番になる民族です。したがって、すべての面で誇ることができる内容を持って暮らさなければならず、人倫的な面で万民の前に見本となる個人や家庭、民族にならなければなりません」と、40分余り御言葉を伝えたところ、聴衆は皆感銘を受けて喜びました。

しかし、奇妙なことは、私が訪ねて行ったその日から、そこに艱難の風が吹き始めたことです。まず、その家庭に大きな不和が起こりました。姜大成教主には夫人が二人いました。ところで、夫人と妾の他に18歳くらいの若い女性が付き添っていました。その若い娘が姜教主の付き添いをしながら、近い間柄であるようでした。私が到着した日から教主と夫人が、その若い娘が原因で夫婦喧嘩を始めました。

夫婦喧嘩をしたあげく、教主は自分の位置と状況をわきまえず、夫人を殴ろうとしました。夫人は教主から逃げ、教主は妻をつかまえようと後を追ったりしました。大祭の準備をしているのに全く笑うこともできない光景でした。

呆れてその光景を見ていると、不思議な幻が見えました。教主の姿が人は人ですが、頭がない人に見えました。その幻を見て、「ああ、この人は何か神様の御旨を知ってはいるが、人格修養が足らず中心がないのだな!中心のない内容を持ってやってきたな!」ということが感じられました。

大祭を執り行う前に、私は姜教主に神の二性性相を説明しました。しかし、私が言う話は納得せず、ただ自分の話だけが正しいというふうに話をし続けました。私は創造原理を中心に、神様に関する御言葉を伝えました。一心教は陰陽の調和を話している所であるので、神様が陰陽としておられるということを言ったのですが、私が言う言葉を全く聞かずに話をさえぎりながら自分の話だけするのでした。

教主が人格的に不足しているように見え、従う人々もそれなりの限界がありました。大祭の後に祭壇に供えておいた食べ物をお互いに分け合い、宴(えん)が繰り広げられのですが、宴の場ではなく、争いの場となってしまいました。信徒同士のけんかが起こって激高し、鎌を持って暴れる人までいました。私は、「人格修養が不足している人々だなあ」と切なさを感じながら、全羅北道全州(チョンジュ)に行きました。

後で聞いたところ、結局、姜教主が惑世誣民(わくせぶみん=世人を惑わしだます)という疑いを受けて留置場に入って死んだということでした。マスコミで、姜教主が死亡した後に18歳になる若い女性と霊魂結婚式をしたという報道がされたのも見ました。私が行った時に夫人と喧嘩が起こったときの、その若い女性ではないかとふと思ってみました。

その後、お父様が私に話して下さった言葉があります。「姜賢實、お前はいつも勇敢で、堂々と出るべきである。真理を宣布する者だからこそ、誰よりも大胆に出て戦わなければならない。この原理は、今まで隠されていた秘密であり、お父様を中心として出てきた御言葉をこの時代の人々が信じれば福を受けるが、反対すれば審判を受ける。だから御言葉を宣布する時は、信念と確信を持って堂々としなければならない。姜賢實が御言葉を伝える時、聞く者が疑ったり反対をするならば、必ずその人に良くない役事が起こるだろう」とおっしゃいました。

その後も伝道中に一心教の信者に時々会うことができました。一心教信者の家には旗が立っています。全羅道地域に多く住んでいますが、旗がある家に行けば、大祭の時に私を見た人々が多くいて、常に丁重(ていちょう)なもてなしを受けました。それで全羅道地域で伝道をするときは、大きな苦労はしませんでした。

第二章

その10 全羅道で出会った人々

第二章  ■ 韓半島に来た再臨主を証しせよ
● 御言葉を宣布する生活
全羅道(チョルラド)で出会った人々

大祭(たいさい)が終わった翌日から私は全羅北道(チョルラプクド)一帯を巡回しながら御言葉を伝えました。全羅北道の裡里(イリ)で起こったことは今でも忘れることができません。

その時、私は大田(テジョン)に行ってペク・シンミョンおばあさんにもう一度会わなければという思いがしました。しかし、大田に行く汽車の切符がなくて裡里(イリ)に行く切符を買いました。裡里(イリ)は予定になかった所でしたが、そのまま裡里(イリ)に行く汽車に乗りました。

夜行に乗って裡里(イリ)駅に到着すると、夜が明けようとしていました。裡里(イリ)駅に到着して、「神様、道を導いて下さらなければなりません」と祈りながら歩いて行くと、何人かの白い服を着たおばさんが私を見て、「先生、今来られましたか」と挨拶をするのでした。どんなに考えてみても知らない人なので、いつ、どこで私を見たことがあるのかと尋ねました。

するとその人は、「私もわかりませんが、今日早朝祈祷をしたのですが、先生の顔が幻で現れました。今日このような人がお前の家に来るはずだからというので待っていたのですが、お出迎えをするようにという言葉があって、今待っていた最中に先生が来られました」と答えながら大変喜びました。

その人は李順姫(イ・スニ)執事(チプサ)でその人の家に行ってみると貧しく暮らしていました。その人は化粧品の商売をするために普段は時間がほとんどありませんでした。しかし、今日は特別に啓示があって、商売に行かずに私を待っていたと言いました。

朝食に粟ご飯を作ってくれていっしょに食べながら、あれこれ話をしました。

「実は、私は聖潔教会に通っていた者です。ところが今は教会に行くことができないでいます」「なぜ教会に行くことができないのですか?」と聞くと、「啓示を受けた内容を話したところ、聖書にない話をすると言って教会から異端と呼ばれ、行かないようにしています」。

その時、どこからかハガキ一枚がきました。その人がハガキを見たところ、「真の父母様から来た手紙です」と言うのです。当時、私たちの教会でも、「真の父母」という言葉がなかった時代でした。お父様を「先生」と言って侍ったので、「お父様」と呼んでいなかったし、聖婚前だったので、「真の父母」という概念がありませんでした。

そうして、その人が手紙を読んだのですが、六千年間父と娘が別れて再会するという内容でした。ところがその内容は、とても切々と学識ある言葉になっていて素晴らしいものでした。六千年間、(別れていた)娘が父に会いたくてどれほど慕い、父がその娘をどれほど愛したか、お互いが相手を探す為に困難を耐えてきたという内容が大変感動的でした。私はその手紙に大きな恩恵を受けました。

それで、「私もそのハガキを一度読みたいです」と言ってハガキを見ました。すると、その内容はその執事が読んだ内容と全く異なるものでした。親戚からきた一般的な見舞いのハガキだったのです。私は心の中で、「本当に不思議だ。見舞いの手紙を真の父母様が下さった手紙だと、それほどまでに感動的に読むことができようか?」という気がしました。

後でお父様にその手紙についての話をして差し上げたところ、「今の時は、御旨も知らず意味もわからないまま真の父母様を証しする人が多く現れる時」と言われました。

この執事は私に、「先生、三日だけでもお泊まりになられて御言葉を話してください」と願いました。それで、私は、「アダムとエバがどのように堕落したのか祈祷してみて下さい」と言いました。その場に座ったままその話をすると、その執事は祈祷室に入って祈祷をし、答を受けて出て来ました。祈祷を終えて出て来た執事は、「アダムとエバが堕落したのは不倫な愛、淫乱のゆえだと言うことです」と言いました。それで、「復活はどのように成されるのか祈ってください」と言いました。「復活とは墓地から死体が起きるのではなく、私たちの心霊が最高の境地に至ることだと言います」と答えました。

その人は原理を知りませんでしたが、祈祷によって答えを得て原理を証ししました。それで再び、「主がいつ、どこで、どのように来られるのか祈ってください」と言うと、「どのように来られるのか祈祷したところ、匙(さじ)が一対現れました。匙が見えることを考えたら、私たちのように食事を召し上がる方のようです。そしてどこに来られるのか祈祷したところ、東方である私たちの韓国に来られると言うことです」と言いました。そのように覚めている人には、神様がすべてのことを教えてくださるということがわかりました。

▲ 光州の李鉉弼(イ・ヒョンピル)先生

全北一帯を経た後に、全羅南道(チョルラナムド)光州(クァンジュ/こうしゅう)に行くことになりました。光州に行っては、李鉉弼(イ・ヒョンピル)先生に会うことになりました。最初につながった人は、呉(オ)長老でしたが、この人が、李鉉弼(イ・ヒョンピル)先生を尊敬して従っていると言って紹介してくれました。呉長老は、自分の息子にも,「お食事を召し上がりましたか?」というふうに敬語を使う方でした。その共同体で生活する人たちは、呉長老だけでなく、自分の同僚同士、または父子の間でもみんなお互いに尊称を使い、敬語を使っていました。

この頃は子供の教育のためにそのような人々がいるようですが、1950年代には、そんな人はほとんどいなかったので大変驚きました。だから私は呉長老に、「なぜ自分の息子に敬語を使うのですか?」と尋ねたところ、「人間は、法ではなく霊がはるかに重要ですが、霊的な面で私の息子は私よりもはるかに高い位置にいるのかもしれないので、私たちはお互いに尊敬し、敬語を使っています」と答えました。山菜ご飯を食べて土を耕しながらも喜び、主が来られるのを切望しながら生活をしている人々として印象が深かったのでした。そんな呉長老の姿を通し、「ここに何かあるな!」と考えるようになりました。

▲李鉉弼(イ・ヒョンピル)先生

李鉉弼(イ・ヒョンピル)先生は90日間断食をした人で、「東光院」という看板をつけて、西洋人からもらった良い建物の中で数十人と一緒に共同生活をしていました。いつも神様のみこころに生きようと努力する人であると、近所では聖者として尊敬を受けていました。

▲東光院

その人は、イエス様が生活していたそのままの生活をしてみようと大変な努力をしながら暮らしていました。夫人が女性警察官を務めた家庭で、経済的に安定していました。しかしその夫人が夫のために新しい服を作って着せてあげると、その日のうちに出て行っては乞食の服に着替えて帰って来たといいます。しらみがうようよいるような乞食の服を着て来たので夫人が怒って何か言うと、これからは絶対にそうしないと夫人をなだめておいては、再び乞食たちのいるところに行って散髪をしてあげたり、お風呂に入れてあげたりまでしたのです。

そして白いご飯を作ってあげると大変驚いたと言います。なぜなら、罪人がどうしてご飯を安らかに食べることができるのかということでした。一日の食事は二食なのですが、朝は山菜のお粥、夕方には麦のお粥を食べて、直接農作業をしながら自立する生活をしていました。

ある日、その人は説教をしに壇上に上がったまま1時間の間、何も言わずに無言で立っていたそうです。何の話もせずに、じっと立っているだけなのに、10分が過ぎ、20分が過ぎ、30分が過ぎると、そこに座っていたすべての人々が痛哭(つうこく)をし悔い改める役事が起ったりしたと言うのでした。

朝鮮戦争が起こった時は、90日の断食をしている最中でしたが、その時、あるアメリカの宣教師がアメリカに帰れずに残っていました。それで、その宣教師を背負子(しょいこ)で背負って信徒たちと一緒に山に入ったのです。山の中でみんなで一緒に避難していたのですが、ご飯を炊くとき火が出て、山がみんな燃えてしまいました。やっと火を消した後に皆が集まって、悔い改めをしました。

集まった人々は皆、自分の過ちで火が出たと悔い改めをしたというのです。「私がご飯を炊くときに、関心を持って注意しなければならないのに誤った」「違います。この場所よりも石がある別の場所を選ぶべきでした」「違います。火が出た時に私が慌て驚いて、火を消さなかったのが問題でした」と言いながらお互い泣きながら悔い改めて一つになったというのです。

その話を聞いて感銘を受け、私も朝の礼拝の時間に参席しました。初めてその人を見たら、体は痩せていましたが、顔は輝いてました。熱心に説教する内容が全く恩恵深かったのでした。ところで、私の耳にはっきりと声が聞こえてきました。誰かが、「賢實(ヒョンシル)、賢實、賢實!」と私の名前を三回も呼ぶのです。お父様が私を呼んだような気もしました。

その声が余りにもはっきりしていたので、思わず座った席でむっくり立ち上がってしまいました。礼拝時間で真ん中に座っていたのですが、誰かが私を呼んだようなので周りを見回しました。すると、後ろに座っていた方が私のチマを引っ張りながら、「今は説教の時間です。なぜ立って礼拝を邪魔するのですか?」と私を叱りました。その時になって我に帰った私は、恥ずかしくてどうしていいかわかりませんでした。

ソウルに戻ってきてからそのことをお父様にご報告申しあげると、お父様は、「神様が姜賢實を本当に愛しておられるんだね。まちがった方に行かないかと、御旨を見捨ててしまわないかと、心配して名前を呼ばれたんだね」と言われました。そのお話を聞いて、神様はもしかしたら他の所へ心を奪われるかと思って、お父様の声で私を悟らせてくださったことに気付きました。それほど神様が私を保護して下さったことを感じ、感謝の祈祷が自然に出ました。何もない私に大きな期待をかけて直接的に導いて下さる神様の愛に頭(こうべ)を垂れざるをえなかったのです。

その礼拝の後、李鉉弼(イ・ヒョンピル)先生と一対一で向かい合って復帰原理について御言葉を話し合いました。その人の聖書を見ると、赤い線がたくさん引かれてありました。それで、「聖書をたくさん読まれるのですね」と言ったら、「いいえ、違います。これは私の聖書ではありません。私は本に赤い線を引くことはしない者です」と言いました。「本当に謙遜な人だな!」と思いながら対話を続けていきました。

しかし、対話をすればするほど、その人が謙遜でありながらも自分というものがありました。謙遜に私の話を聞いているようなのですが、自分の話だけを繰り返して言うのが息苦しく感じました。それで、「謙遜なふりをしているが、実際には自己への固執が強い方だな」と思いました。

すると突然、麦を収穫して脱穀をしようと積み重ねていた所から火が出ました。機械に何か間違いがあって火が出たということでした。しかし、偶然にも私がそのような失望をした瞬間に火が出たので、神妙な気がしました。それで、お父様に報告を差し上げると、「今は審判する時である。善と悪、真と偽を分ける役事をしているので、必ず覚えておきなさい」と言われました。

李鉉弼(イ・ヒョンピル)先生を見ながら、神様は四方で聖徒たちを準備をさせておかれることを知ることができたし、審判が直接的に行われることも感じることができました。

<参照>이현필  李鉉弼(イ・ヒョンピル)


호남의 성자 이현필_주님 가신 길  https://www.youtube.com/watch?v=NqHyM4AT1OM

(第2部)

その11  崔先吉女史と7.4事件

第2部  ■ 韓半島に来た再臨主を証しせよ
 ● 御言葉を宣布する生活
▲ ソウルでの生活


▲北鶴洞にあった最初の本部教会
(ソウル城東区北鶴洞の三大門教会で、世界基督教統一神霊協会が創立された)

ソウル城東区(ソンドング)北鶴洞(プッカクドン)391-6番地の三大門(セデムン)教会では劉孝敏(ユ・ヒョミン)氏を中心に、風景写真を撮って複写して売る事業を始めました。李秀卿(イ・スギョン)氏は、道端に座って絵に色を塗って売りながらお金を得ました。

その後、複写した写真がそれなりによく売れて生活の助けになりました。販売する写真を準備するために夜遅くまで写真を複写したあとには、その写真を洗わなければなりませんが、薬が強くて手が絵の具が染みついたように黄色くなってひび割れました。

ある日、お父様がコールドクリームの大きいものを買って来られました。お父様は、「大きいと言ってむやみに使わず節約して使いなさい」と言って笑われました。

その家には水道がなく、井戸だけがありました。しかし、その井戸水は飲み水として使えませんでした。それで、理髪店をしていた隣から飲み水を汲んで来て使いました。しかし、他人の家に朝から水を汲みに行くことができなくて、いつも気をつけて様子を見なければなりませんでした。

狭くてみすぼらしい家で服を着替える空間もありませんでした。いつかある時、三大門教会時代の食口が私に、「お姉さん、昔は着替える所もなく、台所で着替えて苦労していた時のことを思い出しますね」と言ったので、お互いに笑ったことがあります。

劉孝元(ユ・ヒョウォン)初代協会長は、御言葉を聞きに来る人々に斜めに横になって語られました。お父様が隣に座って話を聞かれる時もありました。時には御言葉を聞かれながらもどかしくなると、直接立ち上がって御言葉を話すこともされました。そんな時には、主にイエス様の心情、事情、立場、使命、そして神様の苦痛に対して清山流水のように御言葉を話されました。

※靑山流水(せいざんりゅうすい / 청산유수):弁舌(べんぜつ)がさわやかなこと

当時の生活は依然として厳しいものでした。お父様の食事を準備するのも大変なほどでした。すると米屋への借金が一日一日増えていきました。そんなある日、米屋がこれから掛け売りはできないと言いました。私はどうすればいいのか心配になりました。

そのようにしばらく心配ばかりしていると、李得三(イ・ドゥクサム)お姉さんが小麦粉を布袋2つ分、タクシーに乗せて来ました。その時、李得三(イ・ドゥクサム)お姉さんを見て、救い主に出会ったかのように嬉しかったです。突き当りにぶつかるたびに、難しいことが起こるたびに、誰かを通してでも神様が役事されていることがわかりました。

1955年初め、東大門(トンデムン)興仁洞(フンインドン)251-44番地に引っ越しをしました。小さな家にいてから大きな家に引っ越したので嬉しかったです。興仁洞(フンインドン)の家から新しい役事の炎が起こりました。女子大生がたくさん入ってきており、新しい食口たちが増え始めました。集会場所は広くはなく、ぎゅうぎゅう詰めになり、遅れてくる人たちは外で立って礼拝に参加しました。

お父様は血と汗と涙にまみれ、痛哭されながらお話しされました。御言葉が最高の境地に達したときは、息が止まったかのように切なく悲しまれました。心が正しく立っている真の人であれば、膝を屈して共に同化せざるをえない雰囲気でした。写真業でお金もたくさん集まり、人もたくさん集まり、本当に教会が興(おこ)りました。

三大門(セデムン)教会でつながっていた崔元福(チェ・ウォンボク)、金永雲(キム・ヨンウン)先生も興仁洞(フンインドン)で実を結び、黄煥寀(ファン・ファンチェ)氏など多くの食口たちが繋がりました。三大門(セデムン)教会では百人余りの人が御言葉を聞くことは聞きましたが、実を結ぶことはできていませんでした。

三大門(セデムン)教会にいたときには、劉孝元(ユ・ヒョウォン)協会長が御言葉をいくら伝えても実が結ばれなくて苦労しました。ある日、私を見て、「賢實(ヒョンシル)さん、なぜこのように伝道がうまくいかないのでしょうか?数カ月も御言葉を伝えたのに、食口になる人が一人もいないですね。どうすれば伝道ができるでしょうか?」と言い、残念がることもありました。そうだったので、興仁洞(フンインドン)で一人一人結実を成すたびに、お父様が大変喜ばれたのでした。

▲ 奨忠洞(チャンチュンドン)教会と7.4(ななよん)事件

※7.4事件:1955年7月4日、お父様の西大門刑務所収監


▲当時の西大門刑務所
そのように人が多く集まる興仁洞(フンインドン)から、奨忠洞(チャンチュンドン)に引っ越しをしました。ところが、引越ししてすぐに問題が起こり始めました。人々が集まると、キリスト教と社会が色メガネで見て、小さなことから大きなことまで問題になりました。毎日のように中部警察署の刑事たちが出入りしたのです。

ひとしきりごたごたしていた1955年7月2日、崔先吉(チェ・ソンギル)夫人が奨忠洞教会を探してやって来ました。来るやいなや、お父様がおられた部屋の中に入っていきました。お父様と話をしていた崔女史は、突然ゴムのはき物でお父様の顔を叩き始めました。誰にもわからないようにゴム靴を後ろに隠してもっていたのです。

お父様は何も言わずにただ打たれておられました。私と金仁珠(キム・インジュ)勧士が横にいたので、駆けつけてゴム靴を奪いましたが、その時のお父様の表情が今でも忘れられません。お父様は崔夫人を叱りもされないで、ただじっと耐えておられました。後になって私は、「どんな事でも起こる時には起こるのだな」と思いました。

二日後の7月4日、お父様が警察署に連行され、西大門(ソデムン)刑務所に収監されました。崔女史とキリスト教界が一つになって風紀紊乱(ふうきびんらん)などの疑いで告発したのですが、容疑は適用されず、兵役忌避(へいえききひ)の疑いで裁判を受けることになりました。その間新聞には、統一教に対する悪い記事は言い表すことができないほどたくさん載りました。顔を上げて歩くことができないほど恥ずかしい内容が多かったです。

それでも西大門刑務所に面会に行くたびに、お父様は伝道の話だけをされました。お父様は人の命を救うために狂っておられるようでした。その時私は、「今、外の状況は伝道をすることができる状況ではありません」ということを申し上げました。しかし、お父様は、「それが何の関係があるのか?真理は常に勝利するのである。だから休まず伝えなさい」と言われました。そして、教授の誰々、長老の誰々、牧師の誰々などと名前を挙げられ、会いに行くように催促されました。

その確固とされたお父様の姿を見ながら、私はまた深い感動を受けました。「普通の人であればそのような状況の中で落ちこみ、将来への不安と絶望を感じるのに、お父様は本当に神と共におられる方であるな!」という事を感じました。

お父様が西大門(ソデムン)刑務所におられる間、食口が一つに団結しました。主日(聖日)の説教は初めは安昌成(アン・チャンソン)先生がしましたが、徐々に私がするようになりました。師匠を失ってさびしく祭壇を立てた教会の姿は、本当に神様が来られて役事されざるを得ない雰囲気でした。

90日の間、お父様もおられないし、経済的にも過酷な状況でした。それで私たちは庭に植えておいたカボチャを毎日のように採って煮た味噌汁だけを飲んで暮らしました。

そうしていた中、ある日、崔先吉(チェ・ソンギル)女史が手押し車に引っ越しの荷物を運んで来ました。お父様が奨忠洞(チャンチュンドン)教会におられるので自分も奨忠洞教会に引っ越して来ると言って荷物を持って入ろうとしたのです。食口たちは、「ここは先生の家ではなく教会であり、教会に奉仕する食口たちが住んでいるので、入ることはできません」と言いました。すると崔女史は興奮しながら引っ越しの荷物を投げ始めるのでした。食口たちがこれを防ごうとしばらくもみ合いをしたこともあったのです。そのような写真が新聞に出たりしました。

食口たちが完全に門を閉め鍵をかけて受け入れてくれなかったため、崔女史は西大門刑務所におられたお父様を訪ねて行きました。「私はあなたの妻なのに、食口たちが教会に入れないようにします。あなたの家であり、私はあなたの妻なので、当然入って行くことができるのではないですか」と言いました。するとお父様は、「その教会は私のものではない。食口たちがお金を集めて準備したものだから権利があるなら信徒にあるのであって、私にはどのような権利もない。だから、教会に入るという考えは最初からしないように」と言われました。結局、崔女史は奨忠洞教会に引っ越してくるのをあきらめて帰って行きました。

苦痛も多かったですが、恩賜(おんし)も多かったです。金山(キムサン)長老と鶏龍山(ケリョンサン)の道人など、啓示を受けた人々が訪ねてきて、お父様をメシヤとして証ししました。

ある日、金山(キムサン)長老が霊的に啓示を受けて奨忠洞教会を訪ねて来ました。彼は祈祷の中で、「文鮮明先生は再臨主になられる方です。今は獄中で受難に遭っておられますが、遠い後日、いつかは人類の救世主として登場できる日が必ず来るでしょう」という啓示を受けて奨忠洞教会を訪ねて来たのです。

はじめは教会がどこにあるか分からず、路地で遊んでいた子供たちに、「統一教がどこにあるのか」と尋ねたそうです。すると子供たちが、「統一教って何?」と言ったので、「文鮮明先生が礼拝をする教会が統一教だ」と言うと、「そこに行けば地獄に行くんだって。そこは異端だって。そこはだめになったよ」と言いながら道を教えてくれたということです。

子供たちが教えてくれた道に従ってその人が教会に到着したとき、私たちは礼拝をささげている最中でした。彼は教会に到着するとすぐに中に入りました。そして、礼拝中に突然、「私がちょっと言うべき話があります」と言いながら前に出ました。最初、食口たちはびっくりして驚きましたが、お父様が人類の救世主だと証しますという彼の言葉に、食口たちみんな感動を受けました。師匠を失って寂しく礼拝を捧げていたので、神様は金山(キムサン)長老を送って、私たちに力を与えて下さったのです。そして、彼が教会を訪ねて来る時の話をしながら、「町内の路地で遊ぶ子供たちも分かるくらい統一教が有名になったとは、まことに奇異なことだ」と言って食口たちを笑わせました。

1955年7月初めのある日は、智異山(チリサン)で千日間修道した三人が訪ねて来ました。その三人は千日の間、智異山(チリサン)に登って祈祷をしました。祈祷を始めて千日になった日に答えが来ました。「お前たちが千日ここで祈祷したのは、統一教・文鮮明先生に会う為の準備だった。今、祈祷を終えて家に帰る前にソウルにいる文鮮明先生に会いに行け」という声が聞こえてきたというのです。そして、三人とも同じ啓示を受けました。

三人は千日祈祷を終えて、それまで長くした髪を結ってぐるっと巻きあげ、そのままの姿で奨忠洞教会を訪ねて来ました。早朝から急いでソウルに来て、統一教がどこなのかいろいろな人に聞いて探して来たのでしたが、その時は礼拝が終わる頃でした。

礼拝が終わってから三人のうちの一人が、「言うべき話があります」と言い、啓示を受けた内容を話しました。「今は、文鮮明先生が獄中で苦労しておられますが、この方は世界の人類の前に救世主として来られた方です。今日、我々は文鮮明先生が立てられた統一教を訪問したので、これがどれほどうれしい事でしょうか?」と言いながら三人は踵をあげて踊り始めたのです。かなり広い礼拝堂をぐるぐる回りながら踊りを踊った光景は壮観でした。

「私たちが沈んで、力を失ってしまって落胆しているとき、神様が外部の人を送って力を出すように証しをさせ、激励もして下さり、踊らせたりもされるんだ」と思いながら慰労を受けました。

(第2部)

その12  出監と青坡洞時代

第2部  ■ 韓半島に来た再臨主を証しせよ
● 御言葉を宣布する生活
▲  出監と青坡洞(チョンパドン)時代

1955年10月4日、西大門(ソデムン)刑務所からお父様が出監されました。私たちは3カ月の間、孤児のように過ごしてから父を取り戻した立場なので、その喜びは言い表すことができませんでした。


お父様は出るとすぐに奨忠洞(チャンチュンドン)から青坡洞(チョンパドン)に引っ越しされることを急がれました。それで出監されてから三日目の10月7日に青坡洞1街71-3番地に引っ越しをすることになりました。

青坡洞で過ごした時のお父様は、私に一日に三軒を通いながら証ししなければならないと言われました。私はお父様の指示どおりに一日に三軒以上訪ね回りながら御言葉を伝えました。

しかし、一日に三軒を訪ねることが思ったより難しかったです。昼食として食べるパンをかばんに入れ訪問伝道するのに、門も開けてくれない家が多かったです。門を開けても、「統一教から来ました」と挨拶をすると、ある家では、悪口を言い、またある家は棒を持って出て叩きもしました。さらには、バケツにあった水をかけながら、「この異端児!」と言って追い出しもしました。

ある日は、水の洗礼を受けて、全身がびしょびしょに濡れて他の家に行くことができませんでした。心まで力が抜け教会に戻って来ましたが、申し訳ない気持ちでお父様に報告も捧げることができず、部屋の隅に隠れてうずくまって座っていました。

ところが、お父様が、「姜賢實!どこへ行った?」と探されました。私の小さな声で、「ここにいます」と言ったら、「なぜそのように隅に隠れているの?」と聞かれました。私はさらに小さな声で、「今日は昼に伝道に行ったのですが、水の洗礼を受けたので、伝道は止めて三軒をみんな回れずに帰って来ました」と報告を差し上げました。するとお父様は、限りなく優しい声で、「今は難しいが、必ず栄光の日が来る」と慰労して下さり励ましの言葉を下さいました。

ある日には郊外に出て行きたくなり、道峰洞(ドボンドン)に行くことになりました。その日も、「神様、導いてください」と祈祷をして出発したのですが、ある家に入りたくなり入って行きました。

すると、綺麗な主人のおばさんがあまりにも嬉しそうに迎えるのでした。「どうして私をこのように喜ばれるのかな?」と思ったら、「私は教会に通う執事(チプサ)です。ところで、今朝、祈った中で大切なお客様が家に訪問するから食事のもてなしをよくするようにという声が聞こえてきました。それで食べ物を準備しました。しかし、今日大切なお客様が来なかったらどうしようかと思って、私たちの教会の信徒たちを呼びました。それで、ちょうど食べ物を食べようとしたのですが、先生が来られたのです」と言いました。

それで見てみると、信徒たち数人が来ていました。そして精誠を込めて準備した料理が食卓に並べられていました。そして食べ物を一緒に食べながら、今日(こんにち)の時についての御言葉を話したところ、みんなが感動を受けて喜びました。

「私たちが時を知らずに信じれば不幸な者になります。二千年前にイエス様の当時にもユダヤ民族がどれほど来られるメシアを待ちましたか?待ちましたが、時代を知ることができず、神様が願わない信仰の道を行ったので、イエス様を理解することができず失ってしまいました。私たちも再臨主を待っていますが、この時代に合わない信仰の道を行けば、主を迎えることができないかもしれません。どの雲から雨が降るか分からないように、主がどのように来られるか分かりません。もし乞食として再臨しても、我々は喜んで迎えることができる心構えを持つべきです。また、非常に卑賤(ひせん)な立場で来られても侍ることができる心構えが必要です。したがって、常に我々は穏(おだ)やかで謙遜な心を持って再臨のイエス様を迎え入れることができる心構えが必要です」。私が話している最中にも感動して、信徒たちが「アーメン、アーメン」と言いながら一つの心になりました。

帰ってきてお父様に報告差し上げたら、「今の時は心の扉を開いておけば、いくらでも新しい御言葉を受け入れることができ、道も開(ひら)ける時代になった。そんな恵沢を得ることができる時がきた」と言われました。そのように御言葉を伝える生活を8カ月ほどしました。

1956年6月10日、私はお父様の命(めい)を受けて大田(テジョン)に開拓伝道に発ちました。大田に発つ時には、私はやる気が充満して希望に燃えました。盧東輝(ノ・ドンフィ)先生が御言葉を聞いて感銘を受け、大田にあった自分の家を教会に捧げました。いつも泊まる所なしに伝道に出て行ったのに、すでに準備されている教会が私を待っていると思うと心がわくわくするほどでした。

ところが、その家に到着してみると盧東輝(ノ・ドンフィ)先生の友人がその空き家でダンスホールをしていました。その友達が簡単に家を空けてくれませんでした。仕方なく40日の間、下宿を定めておいて伝道しました。

そのように下宿に泊まりながら市内を歩き回って伝道しましたが、思うように伝道がうまくいきませんでした。より切ない神様の心情が体恤されました。神様が子女を失ってしまってどれほど切なく悲しまれたかを感じ、胸が締め付けられました。

私は毎日大田(テジョン)市内を七周回り大田復帰の為に祈りました。道を歩く時、「神様が行かれた道もこのように険しい道であり、私たちの真のお父様が行かれた道もこのように、険しく困難な道であられたな。神様はそれを知れと、私にこのような道を歩ませられるのだな」と思いました。「どれほど辛かったか、どれほど凄まじい事情が多かっただろうか?」という考えに涙もたくさん流しました。今も大田のことを思うと、神様の痛い心情を多く体恤した所であるという思いが浮かびます。

幸いなことに40日が過ぎると盧東輝(ノ・ドンフィ)先生の友人が家を空けてくれました。その後、毎日のように大学の正門前に立って、学生たちを伝道しようとしてある一人の人に会って原理講義をしてあげました。その人が別の大学生を連れてきて講義を聴くのですが、ある日は8時間一カ所に座って講義をしたこともありました。当時、お父様に捧げた手紙があり、ここに添付します。

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先生に捧げます。

その間(かん)も、御旨の中で萬寿無疆(ばんじゅむきょう/ 健康でいつまでも長生きすること)であられることを願います。摂理なさるのに、大きな栄光の光が満天宙に照らされ、いつしか地上の全人類は再び新しい生を受ける喜びを心と体で表すことでしょう。

忘れられない7月、昨年7月4日に地上の悪魔たちが総動員され、天の役事を抑えようと侵入したその日が思い出されます。神がそのようにさせて任せられた、天の役事を誰が破綻させることができましょうか?

御言葉で語られ経綸されたので、完全に勝利されることと信じます。今では英国から来たヨホスア(ジョシュア)氏と共に全食口が喜び、私も喜んでいます。

大田で御言葉を聞いて食口になる方が10人余りいます。場所の問題で正式な集会はできていません。7月10日まで家を空けると言いましたが、まだ分かりません。統一教会が大田に教会を建てることが、すでに噂が広がって既成教会で騒いでいるようです。今後、興味深い結果が示されるものと信じ任せて、毎日外に出て御言葉を伝えて、夕方には訪ねて来る方々に講義しています。新しい御言葉が表われる所ごとに喜びがあり、希望があり、能力が共にあります。既成教会の信者たちの中には、イエス様を新しい心で信じなければならないと告白する人もいます。

明日は全食口たちが集まって7月4日に入監された日を記念し、新しい出発に拍車を加えながら新しい勇気をもって、地上に現れた再臨主を証しする真(しん)の姿を全世界に見せてやる日になることを祈ります。

今、私は一人で孤独な立場に処しているので、お父様が毎日現れて見せて下さり教えて下さり、同行・同事・同役しておられます。御旨と愛が共にあられることに感謝を捧げます。

同事:仏が重生と共に喜びと悲しみも共にして導く
同役: 宣教などの仕事を共に遂行すること

1956年7月3日、大田(テジョン)にて
姜賢實(カンヒョンシル)拝(はい)

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1957年7月20日、第1次公式40日開拓伝道期間に全羅南道(チョルラナムド)光州(クァンジュ/こうしゅう)に行くことになりました。朴ミンスクさんといっしょに発つことになりました。その時、李康七(イ・カンチル)勧士(クォンサ)が光州が自分の実家ですと言いながら、光州の復帰のための部屋を得なさいとお金を献金してくれました。それをもとに部屋を得て新たな心情で伝道を始めました。多くの人々が御言葉を聞いて喜んだし、困難でしたが少しずつ結実が生じました。

しかし、光州でも引っ越しを何度かしました。ある時は保証金もみんな踏み倒される場合もありました。その時はあまりにも驚きすぎて気絶をし、病院に運ばれたこともありました。

それでも、光州では学生が多く伝道されました。その中で一人の男子生徒が御言葉を聞いて、最初はこの道を行くと言いましたが、少し時間が過ぎると勉強もしなければならなくなり、忙しくて公的な道を行けないと言いました。まるで天が崩れるように心が痛みました。諭(さと)し励まし、また精誠を捧げて再び決心できるようにしました。その後、彼は御言葉どおりに生きようと努力し祝福も受けました。その学生を導き養いながら、神様が一人の人を育て導いて来られる事がどれほど大変なことかを感じることができました。

「一人の人の心さえも神様に向かわせる事が本当に難しい。六千年の復帰摂理の役事をして来られた神様は、どれほど多くの困難を経て来られたか?そして、肉身をまとい、神様を代身して現れたお父様は、どれほど大きな困難を耐えて来られただろうか?これらすべての困難を克服した先生を見本としなければならない」と思いながら、光州(クァンジュ)を開拓しました。光州には長くいて、木浦(モッポ)まで行って説教をしたりしました。

全羅南道(チョンラナムド)を巡回しながら、順天(スンチョン)に行ったことが思い出されます。順天は、教育都市であるうえ、水が綺麗であるのが良くて、印象が深かったです。手足を洗って座ってみると通り過ぎる人々は皆、顔が美人でした。整った顔の肌は真っ白に桃の花が咲いたように頬が赤く美しく見えました。ですから、通り過ぎる人々の顔を見ながら、「ここは水がいいので、他の地域の人々よりも人が綺麗なんだろう」と思いました。

後でお父様に、「順天(スンチョン)は水が良くてそうなのか、人々が皆綺麗で、美男美女が多かったです」と報告を捧げました。そうしたらお父様は、「何、水がいいからそうだと?姜賢實の心情が最高度に達したから、みんな美女に見えて美男子に見えるんだよ。心情が良ければ見るものすべてが美しく見えるんだね」とおっしゃいました。

(第2部)

その13  神とサタンが対決しているパゴタ公園で原理を伝える

2部最後となります。これとちょうど合う貴重なyoutubeがあったので、ご覧ください。
掲載する文を読んでくださっています。日本語翻訳が終わって製本の直前に、翻訳文原稿を弟子に読ませて最終確認をされる姜賢實先生です。はじめは交代で読むということで、姜先生とお弟子さん交代で読み始めましたが、姜先生が大変なのでお弟子さん一人で丸一日掛けて本一冊分を読まれたそうです。本当に汗と努力の結晶ですね。

この時点では、全訳された日本語版が出るものと思っておられたそうです。しかし、数ヶ月後に出版された日本語版は、題名が変わり、さらに成和出版社は姜先生に無断で、当時の真の母であった崔先吉女史に関連する部分を削除したそうです。
そのことに姜先生は失望されました。


「パゴダ公園で原理を伝える」姜賢實先生回顧録 

https://www.youtube.com/watch?v=kbW-AxDhBKo

https://www.youtube-nocookie.com/embed/kbW-AxDhBKo

パゴダ公園は、先日ご紹介した33人独立宣言書、3.1運動と非常に縁がある公園です。
民族の熱い思いが込められ、神とサタンが対決しているパゴダ公園。
さらに姜先生が精誠を込められたパゴダ公園です。

第2部  ■ 韓半島に来た再臨主を証しせよ
● 御言葉を宣布する生活
▲ パゴダ公園で原理を伝える

翌年の1959年7月から7年の間にタプコル公園で路傍伝道をしました。今のタプコル公園は、その時はパゴダ公園という名前でした。お父様は私に、「パゴダ公園で正式に講義をしなさい」と言われました。それで、伝道を始めましたが面白いことが多かったです。

お父様は多くの期待を持たれて、毎日、私の報告を聞かれました。毎日どんなことがあったのか興味を持たれて私を探されました。食事をされながらも、「姜賢實はどこにいるの?」と探される時もありました。食事を召し上がりながらさじをご飯の上に浮かせたまま、私の報告が終わるまで口を開けたままじっと聞くこともされました。「お食事を食べながら聞かれればいいのに…」と思ったこともあるほど、大変な関心を持たれました。

最初に講義を始めた時は真夏でした。当時タプコル公園は、全国の人々が訪ねて来ていた有名な所なので、講義を開始すると、ある時は千人を超える人波が集まりもしました。私は、神様がこの時代に向かって言おうとされる御言葉を代身で伝えるという心情で講義をしました。全国各地から来た人々の前で講義をしたら、地方巡回で回った時の私だと分かって、来て挨拶をする人もいました。

路上に黒板をかけておいて、まず題目を書きます。例えば、「堕落論」と書くと、男性たちが、「あの女、字を本当に綺麗に書くなあ」という言葉を言います。私は実際には字が下手です。字が下手なのにそう言われると不思議なので、お父様に報告を差し上げたことがあります。すると、お父様が笑われて、「姜賢實は、狂った人が踊りを踊るように字を書くのに、何、それで字が上手いだと?それは自分の心でそう言うんじゃないんだね」と言われました。

伝道のためにタプコル公園の近くに講義室を一つ借りておいて、毎日午前中に公園内での講義を一回して、その講義を聞いた人々を集めて、講義室に連れて行きました。「講義をもっと深く聞きたい方は、私について来なさい」と言ったら、四、五十人の人たちがついてきました。成り行きを知らない人が見たら、背の低い女性の後について人々が団体で歩いていくことを不思議に思ったでしょう。講義室では、毎日昼12時に講義をして、午後に再びタプコル公園で講義をした後、5時頃に講義をもう一度しました。

人々が集まって講義を聞けば、得意になって講義をしましたが、私の心ではないようでした。後では黒板に手書きではよく見えないので、掛け図を掛けておいて講義をしたりしました。その時、伝道された人が多かったです。

もちろん、反対も多かったです。まず警察から許可を受けてする講義ではないので、初期には警察に捕まっていかれることもありました。ある日、鍾路警察署に連行され、一晩警察署にいてから出てきたこともあります。警察が内容を聞いてみた後には、幸いなことに黙認してくれました。

たまにお酒を飲んで乱暴をふるう人もいました。黒板を倒して足で踏む人から黒板の字消しを投げる人までいて、騒ぎを起こされたりもしました。さらにゴムの履物で私の頬を叩く人までいました。そんな時、一緒にいた勧士たちと心を一つにして闘いました。

天気も問題でした。雨の日はそれでもましですが、雪の降る日は寒く雪が積もっていて人がほとんどいませんでした。そんなある日、「お父様、今日は雪が降るので出て行かずに休まなければなりません」と言いました。

「何でそんなことを言うのか?」
「雪がたくさん降って人がいません。雪が降る日は人が一人もいません」
「人がいなくても講義をしなければならない」
「誰もいないのに一人で講義をしていると、人々は私を狂った者だと思うでしょう」
「それでもしないと!今、パゴダ公園は、神様とサタンが決戦をする所だ。だから、本当に人がいなければ、祈祷でもして帰って来ないと、そこをそのまま空けておいてはいけない。昔のイスラエルの民がアマレクと戦った時、モーセが手を上げるとイスラエルは勝ち、手を下げるとアマレクが勝ったんじゃないの?
それと同じように韓国の中心はソウルであり、ソウルの中心部は鐘路(チョンノ)であり、その中心はパゴダ公園であるだから、パゴダ公園で今、神とサタンが対決している
そうなのにパゴダ公園で一日でも御言葉を伝えなければ、サタンがどれほど遊び騒いで喜ぶだろうか?だから、人がいなくても、そこで祈祷して講義するその心情を持ってパゴダ公園をひと回りしてでも来い」と言われました。

ある日は声がかれて言葉が出ませんでした。マイクもなしに屋外で御言葉を伝えるために、いつも喉がかれていました。それでも人が多く集まれば集まるほど、より得意になって講義をするようになりました。そうすれば喉がもっとかれてきて声がまったく出ません。

それでお父様に「先生、ご覧のように喉がかすれて声が出ません。三日間だけ休ませてください」と懇願しました。するとお父様は、「言葉が出なければ八角亭(=公園の真ん中にある休み場)の上に上がって、手振り、足振り、身振りでもして立っていろ」と言われました。「もし私がパゴダ公園の八角亭の上に立ってそうすれば、みんなが私が狂ったと言うでしょう」と言いました。

そう言うと、「姜賢實が本当に彼らを御言葉で生かしてあげないといけないという心、そのように命を救うという切実な心に狂っていれば、手振り足振り身振りを見て食口になることがある。今、たとえ食口となる者がいないとしても、蒔(ま)いておいた御言葉は、宇宙空間に残り、いつかは誰かに実を結ぶようになる」と言われました。

だから365日、一日も休まずにタプコル公園に行きました。そして鄭錫温(ジョン・ソゴン)おばあさんと金喜玉(キム・フィオク)勧士と一緒に精誠をたくさん込めました。そのような内容を知らない人たちは、ただ私がタプコル公園で講義を長くしたことだけを知っていますが、そのような精誠が土台になっています。毎日朝早くほうきで公園を掃(は)くことから始めました。神様とサタンの戦いで神様が勝利されることができるように祈祷と精誠を込めました。

特にタプコル公園で講義している間は私的な事をすることができませんでした。講義をする前に、必要なものを買おうとどこかに立ち寄っていくと、その日は講義が失敗に終わりました。誰かにちょっと会いに行っても言葉が出ませんでした。いつもしていた講義も考えが浮かばず頭が真っ暗になったりしました。人々もよく集まらず、講義室に行く人も特にいませんでした。精誠をどれほど込めて黒板の前に立つかによって、講義がよくでき反応も変わりました。

私がどんな思いを持っているかが、あまりにも敏感に現れたので、神様の摂理が機械よりも精密であることを感じました。その後、私は公的な人生を生きる人は、何を優先するべきかをよく選択するべきだと何度も話していました。お父様はその時、「講義をすることが問題ではない。講義をする心の姿勢が間違っている場合、神は受けることができず、サタンが受けるようになる。それを注意しなければならない」と再三強調されました。

私だけでなく、講義室で夕方の講義をしていた講師たちがたくさんいました。みんな熱い誠を尽くして講義をしたので、講義が終わったら疲れていました。ある日、講義を終えて帰ってくる電車の中である講師が、「姜先生、今日は寒くてお腹がすくし疲れますね」と言いました。体も弱い人だったので、そのような話をしたので、私の心が余りにも痛くて、お父様にそのことを話して差し上げたこともあります。

お父様は報告を聞いてすぐに、「そうなの?体が病気になったらだめだ!」と言われながら金一封を下さり、「これを持って行って明日あげなさい」と言われました。それで翌日、お父様が漢方薬を作って飲みなさいと言われましたと、そのお金を渡してあげたこともあります。

タプコル公園で講義していた7年の間、伝道活動と復興団活動など多くの活動がありましたが、私はタプコル公園の講義だけ7年間休まずにしました。私はお父様がいつも一つの命でも救って、天の側に立てようと努力されていることを感じました。人を探し求め、命を生かして救う為にすべてを捨てて全力投球して出て行かれることを切実に感じました。

講義の途中で時間が少しできれば統和堂に行って祈りを捧げました。統和堂とは金寛成(キム・グァンソン)長老の薬局でしたが、鍾路2街(チョンノイ-ガ)に位置しており、タプコル公園から近かったです。そこにお父様の祈祷室が準備されていて、そこで講義の準備をし祈祷を捧げました。

ある日、祈祷中に、「昔、ペテロに与えた倍の恩賜(おんし)をあなたにやろう」という大きな声が聞こえました。しかし、私はそのような恩賜を受けるに限りなく不足している者でした。だから、「違います。私たちの教会には私よりも立派な人がたくさんいます。彼らにそのような恩賜をあげて下さい」と言いました。すると、三度そのような声が聞こえました。私は続けて、「できません。私はそれを受ける資格のない者です」と答えました。

夜、お父様に報告を差し上げたらとても怒られました。「ペテロは一日に三千人を悔い改めさせて救ったが、その二倍なら六千人を悔い改めさせて救うことができる恩賜だ。そのような恩賜を与えるというのに馬鹿のように受けないと言ったのか?その与えられた恩賜に逆らって、どうするのか?」と言われながら叱られました。私は資格もなく、そのような恩賜を受ける立場でもなかったのでできないと言ったのですが、お父様のお話を聞いて私が間違っていたことを反省したこともあります。

1966年には公園講義を終え、慶尚南道(キョンサンナムド)に下って行き、勝共講義を熱心にしました。釜山(プサン)では、主に大学や高校で精誠を尽くして勝共講義をして表彰状をもらいました。馬山(マサン)でも勝共講義をした功労で表彰状を二度もらいました。面と村を回りながら勝共講演をし、学校の先生たちにも教育しました。

そして、1967年に馬山(マサン)地域長として2年間活動しました。馬山にいるときに事業的な面でも大きな功績を立てて表彰を受けもして、1969年には部屋が二つある家を得て釜山鎮(プサンジン)教会を開拓しました。

1971年には全国特別巡回師の任命を受けて、京畿道(キョンギド)を中心に巡回しました。京畿道地域は広いので、全体を回ろうとすれば一カ月かかりました。一カ所に一日ずつ行って一泊して信仰指導をして回ると時間がいっぺんに過ぎました。行く所ごとに活動していた婦人たちを激励し相談することが主な私の仕事でした。

(第2部終わり)

続けて訪問してくださってありがとうございました。^^
貴重な姜先生の回顧録なので、続けて掲載していきたいと思います。

 

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削除された 姜 賢実 (カン・ヒョンシル)先生の回顧録

シャボン玉のブログより引用

▼ 回顧録 第1部 日→韓訳文 シャボン玉公開用

韓国語原文が以下にあります。

https://goo.gl/yzXyb1  

https://docs.google.com/document/d/1YxKDKgMw80Fbc56R7swICVjaI5RQzQiKK0InBZ4VY-I/edit

姜 賢実 (カン・ヒョンシル)先生の自叙伝

削除された 姜 賢実 (カン・ヒョンシル)先生の回顧録

私の証拠的生涯 (=主を証しする私の生涯)
韓半島に降臨された再臨主
姜賢實(カン・ヒョンシル)

第一章  成長と入教

その1 主イエスがおられる所、そこはどこでも天の国

誠実な信仰の中で成長

高い山が、果てしない野原が、草木や宮闕(きゅうけつ)や
私の主イエスがおられる所なら、そこはどこでも天の国
ハレルヤ賛美しよう 私のすべての罪の赦しを受け
主イエスと同行するので、そこはどこでも天の国

私は1927年10月1日(天暦8月20日)慶尚北道(キョンサンブクド)榮州市(ヨンジュシ)榮州洞(ヨンジュドン)82番地で生まれました。故郷の榮州を思えば、青い山がまず初めに思い浮かびます。小白山(ソベクサン)のふもとに位置し、清い水と青い山があり、美しい自然が保たれた地方です。

また、榮州は学者の地でもあります。韓国最初の 賜額(しがく)書院である紹修(ソス)書院があり、忠孝を誇る学者たちが多く住んでいました。紹修(ソス)書院は、周世鵬(ジュセボン)が天賦の幸福を祭るために建てられた白雲洞(ペクウンドン)書院であったものを、後に李滉(イファン)が郡守として赴任しながら紹修書院として昇格された後、多くの学者や忠臣が輩出された所として有名です。だからなのか今も榮州には善良で剛直(ごうちょく)な人たちが多いようです。

故郷の榮州は昔から基督教の教勢が相当に強い地域です。幼いころ、教会で礼拝が持たれる時には、座る所がないほど人がいっぱいに満ちていた記憶が残っています。おそらく剛直な性格を持った人達が多いので、基督教信仰も熱い信仰をする人達が多かったのではないかと思います。慶尚北道(キョンサンプクド)には榮州と共に、大邱(テグ)と安東(アンドン)が熱心な信仰者が多かった地域です。

特に私が生まれて育った村は晉州姜氏(チンジュカンシ)の姓が多い村でしたが、ほとんどの人が教会に通い、村全体がクリスチャンと言っても過言でなかったのです。晋州姜氏(チンジュカンシ)の信仰はうわさになり、「榮州にある教会の重鎮たちはほとんどが晋州姜氏(チンジュカンシ)」という言葉があるほどでした。

※賜額(사액・しがく)書院:王が名前をつけて額を賜わり書籍·召使い·土地などを下賜した書院

私は父親である姜錫祉(カンソクチ)長老(チャンノ・ちょうろう)と母親の權桂月(クォンゲウォル)勧士(クォンサ)の七人兄弟の中の長女として生まれました。私の家庭は祖父が長老教会に入教した後から篤実(とくじつ)な基督教の信仰を守って来ていました。父母は一日も欠かさず早朝祈祷に通い、夕方になれば父を中心として家庭礼拝を捧げました。おかげで私は母胎にいたときから信仰生活を始め、いつも神様の御言葉の中で成長しました。家庭のすべての生活が神様を中心としてイエス様を正しく信じて従うために努力したのでした。

父は榮州(ヨンジュ)教会で40代で長老として任命を受けました。長老と任命されるには若い年でしたが、信仰が篤実で責任感が強くいろいろな人が推薦をして若くして長老になりました。

父親 姜錫祉(カンソクチ)長老              母親 權桂月(クォンゲウォル)勧士(クォンサ)

私の家は事業をしていたので生活水準は中流程度で窮乏(きゅうぼう)を感じるほどではありませんでした。母は教会の勧士(クォンサ)で静かな人でした。七人の兄弟姉妹を育てながら大声一つ出したこともなく、子供を世話しながら暮らしました。母は自分を前に出したことがなく、周囲の人たちから謙遜な人だとよく言われていました。

家庭で礼拝をするときになれば、父はいつも信実(しんじつ)な生き方を強調しました。祈祷するときや話しをするときには、「人は真実であるべき。真実に生きなければ神様が離れる」としきりに強調してくれました。父が、「真実はいつも真実そのまま現れるのである。神様は生きておられ私たちと共におられるから私たちはいつも真実に生きなければならない」と言われたことが今も思い出されます。

また、父が家庭礼拝を捧げるときだけでなく、いつも歌っていた賛美歌があります。「高い山が、果てしない野原が、草木や宮闕(きゅうけつ)や私の主イエスがおられる所なら、そこはどこでも天の国。ハレルヤ賛美しよう。私のすべての罪の赦しを受け、主イエスと同行するのでそこはどこでも天の国」と小声で歌った父の声は私の心に今も残っています。この賛美歌には、「神様と共にある者はいつも真実であるべき」と言われていた父の言葉と生き方が込められているように感じます。父はいつも私的な場にも礼拝時間にもそのように話し、そのように生きようと努力しただけでなくそのごとくに生きました。

それなので、教会の中でも多くの人達から、姜錫祉(カンソクチ)長老は真実であり御旨のままに生きる人として尊敬を受けました。自然に私も父を尊敬し父の信仰に従って育ちました。

父母のおかげで私は正しい信仰の道を行こうと努力することができました。父が信仰の根本を私の心に植えてくれたとするなら、母は私に信仰の習慣を育ててくれました。幼い頃から私は父といっしょに早朝祈祷に通いました。夜明けに母と教会で祈祷をして一日を始めることが習慣になりました。早朝祈祷を終えて家に帰って来る道で私は、母のように着実に無言で神様を信じ侍り生きなければならないと心に誓いました。

しかし、日帝時代に信実な信仰をすることは易しいことではなかったのです。日本が韓国に神社をいたるところに建て、強制的に参拝をさせたからです。特に1930年代後半からは基督教団にも圧力をかけ、一般信徒たちにも神社に参拝することを強要しました。真実な信仰をしていた私たちの家庭に大きな試練が始まるようになりました。

そうする中、ある日、父の友達である一人の牧師が榮州(ヨンジュ)を訪ねて来ました。その日、父はその牧師と長い時間話しをしました。どんな話をしたのかは知ることはできませんでしたが、天皇を神として侍り参拝することはありえないということで意見を合わせたようです。

結局、父は神社参拝を拒否し警察に引っ張られ収監されてしまいました。その以後、私の家は風飛雹散(ふうひひょうさん=四方に飛び散ること)になりました。警察が家宅捜索をし、父が平素読んでいた宗教に関する本をいくつかに分けて持って行きました。その後、三日も経たずして家に来て母を怒鳴りつけ家の中をひっくり返しもしたりして、私が学校に行けない日もありました。警察は私たち家族を人として扱わず、大きな罪を犯した罪人として扱い監視をしたので、自由に気を落ち着けて暮らすことができませんでした。さらには神社参拝をしない家の娘だと周囲から憎まれました。

それでも私は毎日夜明けに教会に出て父のために懇切に祈祷を捧げました。「神様を信じない人たちの心の中に現れてその間違いを叱ってやって下さい。神様が分かるようにして下さり、彼らが留置場に閉じ込められている人たちを苦しめないようにして下さい」と熱心に祈祷を捧げました。

収監されたときには健康であった父は、獄中であまりにも多くの拷問を受けて病気になり回復が難しくなりました。日本の警察は父が獄中で死ぬかもしれないと心配になり、やっと出獄させてくれました。しかし、すでに重い病気になった父は、終戦(1945年8月)を迎えることができないまま1944年1月3日に亡くなりました。

それで榮州教会では父について、「姜錫祉(カンソクチ)長老は日帝時代に殉教したようなもの」と評していました。拷問で直接殉教したのではありませんが、神社参拝を拒否し収監されてから病気にさせられて亡くなったのですから、姜氏一族から殉教者が一人出たという話になりました。

母は生きている間は変わりなく長老教会で篤実(とくじつ)な信仰生活をしました。いつも「亡くなった父と霊界に行って会ったとき、恥ずかしくないように、申し訳もしないようにしないといけない」という言葉をよく言っていました。1996年に父と母は霊肉祝福を受けました。

神学の道を歩む

終戦以後、私は釜山(プサン)に行って高麗高等聖経学校を経て高麗神学校に入学しました。高麗神学校は父の友達である韓(ハン)サンドン牧師が設立した学校です。韓牧師は日帝時代に神社参拝を拒否し獄中生活をした牧師たちと共に信仰の正道を行くため多くの努力をしました。長老教会の牧師は、父と親しい友達である韓牧師が釜山に神学校を建てたのだから私に入学するのがいいと推薦してくれました。そのとき私は信仰面でも学業面でも模範生だったので、積極的に神学校入学を勧められました。

当時私の心の中には、父が出獄した後、終戦を迎えられないまま父が亡くなったことが一つの宿題として残っていました。父が行った道を受け継ぎ、父が果たせなかった仕事を私が継承しなければという考えになりました。私の氏族に対する神様の御旨、父が亡くなって成せなかったことを私が成して差し上げなければという思いが心から離れなかったのです。

父が成すことができなかった神様の御旨を成すためには、内外的な準備が必要でした。高麗神学校は神社参拝を拒否した教会関係者たちが中心になり建てた学校だったので、父が抱(いだ)いていた御旨を内外ともに準備するためにもっとも適した学校でした。

それで、1950年、高麗神学校に入学しました。神学校に通う間、韓牧師が私を大変可愛がって下さいました。その愛と期待に答えるため、私も最善を尽くして勉強しました。そして信仰生活にも精誠を尽くしました。高麗神学校は保守的な学校で、一日60ページ以上義務的に聖書を読まなければならず、3時間以上祈祷をしなければなりません。神学校に通う間、いつでもどこでも神様に祈祷を熱心にしました。母はそのように祈祷する私を見ながら、「いつもそんなに伏して長い間祈祷をしたら、背中が曲る病気になるのじゃないか心配」と言うほどでした。

高麗神学校は大変厳格に安息日である日曜日を守りました。例えをあげれば、日曜日にはどんな物も買ってはいけません。電車やバスの切符も買ってはいけません。仕事をしてもだめで、外れたボタンを縫うのもだめで、10里以上遠い道を歩いてもだめです。学校からはそのようにあれもだめ、これもだめだという教育を受けたので、どんな事も良心の呵責になり何もすることができなくなりました。

当時、私は聖書を生命視しその御言葉に従って正しく生きようと歯を食いしばって生活をしていました。そうしながら心の中では、「再び来ると約束された主はいつ来られるのだろうか?」という思いが火のように起こりました。

私はイエス様を本当に愛していたので、イエス様も私を必然的に愛して下さると信じました。その信仰は本当に絶対的でした。イエス様が来られる時が近づいたと考えたので、より心が懇切になりました。西暦2000年になる前に来られると聞いていたので、今、来られる時になったという思いになりました。月の明るい夜には縁側に座って月を見つめながら、「主よ、私は本当にあなたを愛します。私が愛するのと同じようにイエス様も私を愛されるでしょう?来られたら誰よりも一番最初に私に会って下さらないといけません。私に一番最初に会って下さると信じています」と祈祷しました。

そして神学校の授業が終われば路傍伝道をしました。普通の信者のようにある形式とかやり方に縛られて伝道するのではなく、私の血と肉と骨の中から湧き出る心情で叫びました。イエス様の事情と心情を体恤(たいじゅつ)した私は、「私が二千年前に生きておられたイエス様に慰労と所望(しょもう)の対象になるはずだから…」と、胸の中から痛哭(つうこく)の思いが湧き上がりました。「イエス様、私は不足ですが、私にはイエス様の切ない血が流れています。この地上に人類を救おうとする御旨が生きています」と叫びました。

当時は、主に会うためにいつも内的にも外的にも準備をしなければならないという考えが切実でした。イエス様が新郎として来られると言われたので、新婦の装いをしなければならない、内的にも外的にもイエス様を迎える準備をしながら暮らさなければならないという思いが心いっぱいに満ちていました。

第一章  成長と入教

その2 主が私の園に来られた

神学校に通いながらある伝道師と共に凡川(ボムチョン)教会を開拓しました。凡川(ボムチョン)教会は初めに天幕を張った天幕教会として始まりました。金ガプソク伝道師と二人で開拓したのですが、金ボンジョ長老が財政的に支援をたくさんして下さり100名余りの信徒が集まり礼拝を捧げました。

私は熱心に精誠を尽くして伝道をし、信者たちの信仰成長のために徹夜祈祷をたくさんしました。毎日三軒以上信者の家を訪問し、新しく三軒以上訪ねながら伝道をしました。私は神様がこの地域を私に任せて下さったので、ここに住んでいるこの人たちを私がかけた網にみんな引っかかるようにするべきですと真心こめて祈祷しました。神様が私の懇切な祈祷を必ず聞いて下さることと信じました。

また、毎日100名余りを超える信者たちの名前を一人一人呼んでいきながら彼らの事情を神様に報告しました。信者たちの心霊のため余りにも懇切に祈祷してみると、疲れて虚脱するときもありました。また、彼らに神霊の糧(かて)をあげようとすれば、まず私自身の心霊が生きて動いていなければならないのですが、あるときは冷たく感じるときもありました。神様が全的に私に来られて役事されることを感じられないときもありましたが、私の人生をイエス様の人類救援事業のために捧げようと大きな希望と抱負を持って生きました。

凡川(ボムチョン)教会の信者たちは私と一つになってよく従ってきてくれました。食事を作ってくれたり、水をくんできてくれたり、また、おいしい物を買ってくれるなど、たくさんの信者たちが協助してくれたので、活気を帯びて復興するようになりました。そのとき、凡川(ボムチョン)教会に出ていた青年一人を青年会会長に立てたのですが、ずっと後になってみたら監理教の大きな教会の監理士になっていました。

学校の休みの期間になれば、榮州(ヨンジュ)と豊基(プンギ)だけでなく、近くの地域の教会から私を招請して復興会をしたりもしました。そのとき、彼らの心霊が大きく復活しました。神様とイエス様が本当に役事して下さることを実感しました。歴代記16章9節の「神様の目は火花のようで、あまねく全地を見渡し、 その心が御自分に向かう者たちのために能力を与えてくださる」という御言葉の通り、全心を神様に向かわせられるかどうかが問題解決の鍵であると信じました。

変わった話をするというボムネッコルの青年

1952年5月初め、春の気配が寝ていた大地を起こし新緑の装いに衣替えをしていました。その日も私は伝道のため出ていく準備をしていました。そのときちょうど、李ヨンギュという一人の女子大生が訪ねて来ました。その学生は話したいことがあると言い、「ボンネッコルの谷に住むある青年が変わった話をしていました」と言いました。その学生が住んでいる家の近くにある青年が自分で家を建てて住んでいて、一度話をしてみたようです。「どんな変わった話をしたの?」と聞いたら、「人類が堕落する以前の世界を取り戻す方法というものを紹介するのですが、たいしたものです」と言いました。

その学生の言葉を聞いて心配する思いが先立ちました。「救いの方法?その人がどんな人でそういう話をするの?」と気がかりになり細かく聞くと、「私は何の話か聞いてもよくわかりませんが、大変熱心に自信を持って話をしました」と答えました。それで私は、「聖書を読むことにおいても私がその人よりたくさん読んだだろうし、聖書の知識も私がよりたくさん知っているでしょう。ですから私がいったん行って聞いてみた後に行くべきで、その前には行かないで」と頼みました。さらに、「マタイ福音書24章22節の御言葉を読めば、世の末には偽キリストがたくさん現れるが、ここにいるあそこにいると言っても、行ってもならず、追ってもならないとあるので、絶対行ってはいけません」と言いながら引き留めたのです。

そういう話はしましたが、いざ私がその青年を訪ねようとすると複雑な思いになりました。会いに行くべきか行かないべきか?私は神学校の学生であり、教会の伝道師として信者たちに影響を及ぼすことができるので、軽い振る舞いをすることはできないと思いました。結局、「この問題を解決するには、神様に報告して答を得なければ」という結論を得ました。それで、その問題について祈祷を始めました。「神様、ある青年がおかしな話をすると言うのですが、私がそこに行くことが御心ですか?行かないことが御心ですか?行くことが御心ならば、私がどんな方法でも行けるようにして下さい。行くことが御心でないならどんな方法でも行けないようにして下さい」という祈祷を一週間の間しました。

初めての出会い

その日は1952年5月10日土曜日でした。朝から雨が降っていて、私は教会で静かに祈祷を捧げていましたが、ボンネッコルに住むという変わった青年に会わなければという決心が立ちました。「会ってみて賢くて神様が用いることのできる者なら、伝道して神様の業(わざ)をなす働き人に作らなければならない。」という考えをもって、教会を出ました。

午後四時ごろ、道に出てみると雨はほとんどやみかけていました。しかし、青年の名前も知らず、顔も家も知りません。ただ女学生が住んでいる家の近くで、男たちだけで自炊して暮らしているらしいという話だけは覚えていたので、外に出ました。ボンネッコルの坂道を上って行きながら、男たちが自炊している家はどこですかと道行く人たちに聞いてみました。しかし知っている人はいませんでした。聞いてもその当時に自炊して暮らしていた男性が一人二人でしょうか。それでも、「神様、教えて下さい。会うべき人なら神様がその青年のいるところに導いて下さい。」という信仰を持ってずっと尋ねて回りました。

しばらく迷ったあげく、ある婦人が、「あのてっぺんに登れば井戸が一つありますが、その井戸の横に粗末な家が一つあります。その家に青年たちが住んでいるようです」と教えてくれましてた。坂道をずっと登っていくと、なるほど井戸が一つ現れました。鍋で汲み上げる泉のような井戸でした。井戸で手を洗っていたらきれいな一人のおばさんが水を汲むために井戸に出て来ました。歳は五十数歳ぐらいに見えますが、肌がきれいでしとやかな方でした。避難時代でしたからカーキ色のチマをはいていましたが、とても気品があるように見えました。

それでそのおばさんに、「この近くに青年たちが自炊している家があるということですが、もしかしてどこか知っていますか?」と言葉をかけました。そうしたらそのおばさんが、「あなたはどこの会社に通っていますか?」と聞きました。おそらく私の服の身なりを見て、ある会社に通う会社員と思ったようです。私はひざ下のスカートをはいて、男物のような靴を履き、聖書と賛美歌を脇に挟んでいました。

私は笑いながら、「違います。私はイエスを信じる者です」と答えました。そのころ私はイエス様を愛し、心からイエス様を伝えたくて誰に会っても、「私はイエスを信じる者」と言っていました。それほどイエス様を愛していたからです。

そうすると、そのおばさんは私の顔を再びまじまじと見て、「ああ、それなら私の家に入りましょう。」と言いました。「家はどこですか?」と聞くと、「これがその家です。」と言いながら、すぐ横の家に案内してくれました。その方がすなわち、玉世賢(オク・セヒョン)オモニでした。

左が玉世賢先生、右が姜賢實先生( 北鶴洞にあった最初の本部教会 )

その家は井戸のすぐ横にありました。土と石でこねて積み上げた家でしたが、粗野に見えました。人の手で土と石を混ぜて作った家なので、壁がなめらかでなく、でこぼこでひどく見えました。屋根は戦争中で米軍部隊で使う食料箱を広げて覆(おお)っておいたものでした。食料箱は雨が降っても漏れないので、屋根を覆っておくにはよかったようです。避難民たちがそんな家を建てていたのを見ることはあったのですが、そのように小さくみすぼらしい家は初めて見ました。田舎で塀(へい)を作るとき、土と石をおおざっぱに積みあげるのですが、ちょうどそれと似ていました。

中に入って見ると、たたみ二畳もないほどの狭い部屋でした。 入り口は、背の高い人だとかがんで入らなければならないほど低いものでした。壁には紙や新聞紙も貼ってなく、土塀そのままでした。天井は雨が漏ったのか、ところどころ染みがついていて、床は黒いビニールの切れ端が敷いてありました。それはちょうど、どこかの村の馬屋のようでした。その日はまた、雨が降った後だったので、部屋の中のようすがよりうっとうしいものみたく目に入ってきました。

部屋に入ってまず祈祷をして目を開けたとたん、「ああ、一体こんな家でも人が住めるんだなあ。」という思いが自然に湧いてきました。部屋の中には生活道具が一つもなく、服が一着掛かっていました。洋服でしたが、その家や部屋には似合わないほど良い服に見えました。後で知りましたが、その洋服は嚴德紋(オムドンムン)先生がお父さまに贈り物として捧げたものでした。

そして部屋の片隅には丸い食卓が一つありましたが、その上には鉛筆立てに短くなった鉛筆がたくさんさしてありました。生活道具もない部屋に鉛筆がたくさんさしてあるのを見て、私は心の中でおかしいなと思いました。「この家には小学生が多いのだろうか?なぜ鉛筆がこんなにたくさんさしてあるのか?」と思いました。金元弼(キムウォンピル)先生が絵を描くとき、線を引くために鉛筆がたくさん削ってあったものだと後から聞きました。

私はそのときまで、こんなにもみすぼらしい家と部屋を想像してみたこともありませんでした。ふと、「人がこの地上に生まれて、このような家で一生を生きたらどんなに多くの恨みが残るだろうか?」という思いになりました。

今も私は、その瞬間が思い出されるときがあります。再臨主として来られたお父様が、たたみ二畳にもならない狭い家で人類救援の役事を始められたということを考えると、お父様がどれほどひどい生活をされていたのか申し訳ない思いになります。昔、日本でだれかが証しをしながら、「この世に人が地上に生まれて、このような家で一生を生きて死ぬならどれほど多くの恨みが残るか?」と言った私の言葉が何度も胸に鳴り響くという話をしたと聞きました。

そのように苦しい状況で出発されたお父様がメシアであり、救世主であり、勝利された天地人真の父母様であり、万王の王として定着されるまでどれほど言い表すことのできない難しい路程を歩んで来られたかを考えれば、熱い涙が出てきもします。その家は台所もなく家の外でご飯を炊かなければなりませんでした。その上、雨が降れば部屋の中でご飯を作らなければなりません。それではどうしようもないので、後になり外にテントを張って炊事をするようにはなりました。

そんな家でしたが、お父様はその家を自分の手で建てられてどれほど幸福であったか忘れられないと言われました。お父様が釜山に避難をして家なく暮らしながら、多くの苦労をしたと言われました。日が暮れても帰って休むところがなく、どれほどつらい思いをされたでしょうか?それでボンネッコルに家を一つ建てることにされました。しかし、少し積み上げたら雨が降って崩れ、また少し積み上げて置くと雨が降ってまた崩れるということを三度もしたというのです。

真のお父様はその一つの部屋を作りながら多くの考えをされました。間違った歴史を正しく立てる復帰歴史に、神様がどれほど大きな期待をもっておられるかをご存知なので、エデンの園で失われた真の血統を新しく取り戻そうとされる神様の心情を感じ、興奮した心を持たれ、新しい歴史を取り戻す所望(しょもう)でいっぱいに満ちておられたのです。

やっと家が完成した日、壁も乾いていなかったのですが、入って横になったらこの上なく幸福だったと言われました。大理石で美しく建てた家ではなく、二坪にもならない土塀の家ですが、古代官室の王宮よりも価値有る美しい部屋一つの、足を伸ばして横になれる家があるということがどれほど良かったか忘れられないと言われた話を聞いたことがあります。

私はそのとき、その部屋の中に入って、「こういう家で一生を暮らしたらどれほど恨みがたくさん残るか?」と思っている矢先に、ある青年が入って来ました。カーキ色の韓国服のバジをはき、上には古い褐色のジャンパーを着ていて上下が合っていませんでした。靴下は分厚い米軍用のものを履いていて、バジのすそのひもを結ばないで、すそをまくりあげた姿でした。その青年がすなわちお父様でした。

お父様は部屋に入って来て私を見られると、「どこから来たのか?」と尋ねられました。それで私は、「下のほうに凡川(ボムチョン)教会があるでしょう?私はそこで女性伝道師として仕事をしています。」と答えました。

そうするとお父様は、「ああ、この部屋は冷たいですね。」と言われ、星の模様が描かれた緑色の布団を広げられて、「この上に座りなさい。部屋が冷たいから」と勧められました。私は、「ここで大丈夫です。」と遠慮しました。しかしお父様は部屋が冷たいからと、しきりに布団の上に上がって座るように勧められました。何度も勧められるので、仕方なくその上に座ると、お父様は、「今日は5月10日ですが、本当に意義深い良い日に来られました。」と言われました。私は心の中で、「今日は何の日であんなに今日は良い日だと言うのか?」とじっと考えてみましたが、何も思い当たるものはありませんでした。

そのとき、お父様は、「私が以北(北朝鮮)から以南(韓国)に避難して来ましたが、この家で貴重な本を書き始めました。しかし、今日はその本書きを終えた日です。」と語られました。そうして、「今日本書きを終えて、今から私が伝道しなければならないと心に決めて、山に登って祈祷をして下りてきたところです。」と言われたのでした。

後で聞いたことですが、お父様はその日、山に登って、「神様、私と約束されたことは、多くの人たちがこの貴い原理のみ言葉の下(もと)に集まるということでした。原理を中心とした一つの世界、善の世界、愛の世界、父の世界をこの地の上に成されると約束されました。しかし、以北から南に下って来て、まだ一人の生命も探し求めることができません。神様、私は人が恋しいのです。恋しい人の中でも、イエス様をよく信じる聖徒、正しく信じる聖徒が恋しいのです。神様、イエス様をよく信じる聖徒を送って下さい。」と祈祷をして下りて来たと言われました。しかし、招待もしていない既成教会の女性伝道師が部屋に入って待っていたので、どれほど喜ばれたでしょうか?お父様の龍顔(王の顔)には喜びの色がいっぱい満ちていました。

お父様は、座っている私に、「七年前から神様は姜(カン)伝道師を大変愛されました。」とただ一言言われました。私は大変驚いて顔を上げて青年を再び見つめました。「えっ?この青年は七年前私に会ったこともないのに、一体どこで私を見たと、七年前に神様が私を大変愛したなどという話をするのか?」という思いがわいたからです。

そうして、「七年前にどんな事があったかな?」とじっと考えてみました。振り返ってみると、七年前に韓国が解放(=終戦)を迎えながら、私はすべての人生を神様の御旨と福音事業のために捧げなければならないという決意をして本格的に出発したのでした。「神様の御旨のために一生を生きようと決心した七年前から神様が私を大変愛された。この青年は本当に、何かがわかる人だな」という思いになりました。

お父様はそれから楽な姿勢で座られ、話を始められました。しかし、原理講義を序論、創造原理、堕落論、終末論、復活論、予定論、基督論、復帰原理、再臨論という順序ではなく、結論である再臨論から話されました。まずお父様は紙を小さくいろいろな形に破り、はじめに小さい紙の切れ端に再臨論と書かれ、他の紙切れに各々イエス、アダム、エバと書かれました。そうしてみ言葉を語られながら、イエス様の話をするときは、イエスと書いた紙を前に置いてお話しされ、アダムの話をするときには、アダムと書いた紙を前に置いてお話しされました。

しかし私は講義を聞きながらも精神を集中することができませんでした。なぜなら、お父様は静かにただ座って講義をされるのではなく、紙を上げたり下ろしたりされながら、体で動作をしながら講義をされたからです。そしてどれくらい声が大きいか、私の鼓膜が破れるほどでした。「私はまだ若くて耳も遠くないのに、何のためにこの青年はこんなに大きな声で話すのか?」という思いになりました。

お父様は、「イエス様が雲に乗って来られると信じていますか?」と余りにも大きな声で質問をされました。それで、「私は聖書の言葉を信じます。聖書に記録されたことは神様のみ言葉であるので、一点一画も加えてもならず減じてもならないとあります。それで私は聖書に記録されたそのままを信じます。」と答えました。

するとお父様は、「雲に乗っては来ません」と言われました。
お父様は、御自分の読んでおられた聖書を開かれながら説明を始めました。その聖書をどれほど熱心に読まれたのか、赤い線でぎっしり埋まっていました。「イエス様は雲に乗って来られるのではありません。イエス様はエリヤが洗礼ヨハネとして来たのと同じように、肉身をもって来られます。」と話を続けられました。私は初めて聞く話なので理解できませんでした。「もしイエス様が人として来られるならば、同じ人間なのにどうして再臨されたイエス様だと信じられますか?」と反問したりもしました。お父様は熱っぽく私の疑問に答えて下さいました。

そして、「肉身をもって来られるならどこに足をつけられると思いますか?」と再び質問されました。イエス様が雲に乗って来られるのではなく、人として来られるが、韓国に来られると言われました。それで私は、「この世に国も多いのに、どうしてよりによって廃墟になった韓国の地にイエス様が来られますか?」と反問をしました。すると、「1950年に北韓上空にイエス様の顔の姿が現れたという話を聞きませんでしたか?」と言われたのです。もちろん、私もその話を聞いたことがあります。それで、「覚えています」と言いました。すると、「それがみんな意味があるのです。北韓上空になぜイエス様の顔の姿が現れるのでしょうか?みんな意味があるのです。」と話されました。

しかし、その質問に答えられる声がどれほど大きかったことか、私は集中することができませんでした。お父様がどれほど熱心にお話をされるかというと、話が絶頂に達すると山がゴーゴーと鳴り響くようにみ言葉を語られるのでした。「アイゴー、今日は静かに家に帰ることができず、何か事件に遭うのではないか?」という思いまでしました。

お父様は余りにも大きい声でみ言葉を語られながら体でも表現されるので、私は壁に背をあててできるだけ離れて座ろうとしました。しかし、お父様はみ言葉に酔い、ポンポンと飛びながら私の前まで迫って来て語られたりもしました。私は嫌気が差し、自分でも知らずにいらだつ表情になりました。小さな部屋に私一人をおいて踊ったり演劇するように話されるので、どうしたら良いかわかりませんでした。お父様は私のすぐ前にまで来られて話され、後ろに下がったかと思うと、またぱっと飛んで来るようにされながら、全身でみ言葉を語られました。

私はみ言葉を聞くどころか、お父様の表情と声、身振りに驚き、気が抜けてしまうようでした。そのとき、お父様は私一人を置いてみ言葉を語られたのではなく、全人類にみ言葉を伝えようとされたのだと、私は後で悟りました。全人類を生かして人類の生命を救援されることがお父様の使命であられるので、たとえお父様の目の前には私一人が座っていたとしても、お父様は全人類のすべての霊がその場に座っているものと考えられたのです。全世界人類の生命に向かってそのように大きな声で熱情を尽くしてみ言葉を語られたのでした。

それほど、その日お父様は死生決断をしながら大きな戦いをする人のように、生きるか死ぬかというそういう岐路に立ちみ言葉を語って下さりながら、「そうなるはずだ、そうであるだろう。そうなるようになっている。」というような言葉をたくさん使われました。そうしてお父様は、「これはこうです。あれはこうです」と結論を正確にお話しされるので、誰であっても聞けば頭を下げざるをえない信念と熱情があふれておられました。

み言葉を聞きながら、「本当にたいした方だなあ!という考えになり、お父様を見つめました。そうして見つめてみると、お父様の瞳がきらきら光っていました。「おかしい。この青年の瞳がきらきら光っている。光彩が出ている。」と思い、もしかして私の目に異常が起きたのではないかと思い、目をこすって再びお父様を見つめました。再び目を開けて見てもお父様の目には依然と曙光(しょこう)が照っていました。

それで、「どうしてこの青年の目に曙光が照っているのか?」と考えながらみ言葉を聞いていたのですが、お父様は、「今日はここまでにしましょう。」と言われました。そのとき、七時を少し越えていました。私が四時を少し過ぎてお父様のみ言葉を聴き始めたのですが、七時を越えたということは三時間み言葉を語られたことになります。初めて会った人に三時間も話すということは易しいことではありません。私もまた相当につらかったので、お父様が今日は終わりましょうと言われたとき、すっと立ち上がりました。「ああ、良かった。」と思いながら帰ろうと立ち上がったのですが、お父様は、「食べる物は何もないけど、食事をいっしょにして行きなさい。」と言われたのです。それで私は、「いいえ。私の家はすぐこの下にあるので、なぜ食事をして帰りますか。今日はこれで帰らなければなりません」と遠慮しました。

それでもお父様は、今日夕食は必ずここで食べて行かなければ、と何度も言われたのです。韓國語の「꼭(コク)」を日本語で「必ず」と言いますが、お父様は、「カナラズ」という日本語まで使われながら、「今日必ず、どうしてもここで食事をして行かなければならない。」と何度も言われるので、突然あきらめの気持ちになました。「꼭(コク)」というお父さまの言葉に深い情を感じ魅了されて結局食事をすることになりました。

当時は戦争中でもあり、みんな困難な生活をしていた時代でした。それで食膳を見ると、とてもみすぼらしい食事でした。玉世賢(オク・セヒョン)オモニが作ってきたのですが、松の木で作られた食卓に、へこんだ鍋の器に入れられたまっくろな麦ご飯が出されました。おかずも酸っぱくなったキムチに焼き豆腐何切れかが全部でした。そういう食事を前に置いて座っても、お父様の顔には喜びの色がいっぱいでした。私といっしょに食事を召し上がることが喜ばしいご様子でした。後で、お父様は何度も、「あのとき、私が一番寂しい時であった。最も孤独で寂しかった時だったので、神様が姜賢實(カンヒョンシル)を送ってくださったのである。」とお話しされました。

お父様は私に食事の祈祷をしなさいと言われました。私は、「え、私は祈祷しません。」と言葉を返しました。その日、三時間もみ言葉を聞きながら、お父様が余りにも強く力の限りに、大声で叱るように語られたので、自分でも知らないうちに力が抜けていたからです。私は26年間信仰生活をして来たので、どこででも自信に満ちた代表祈祷をしましたが、その日はまったく勇気が出ませんでした。「私は祈祷できません」と二度お断りすると、お父様が祈祷をされました。

お父様は泣かれながら祈祷されました。声が詰まり、しばらく途絶えて再び続けて祈祷されるのですが、骨肉から湧き出る心情に染みた祈祷でありました。「神様の御旨を私が成して差し上げるために今までこの道を歩んで来ましたが、私より神様がもっと苦労をされたことを知っております。神様の御旨を私が成して差し上げます。神様のその多く残された恨(ハン)を私が必ず解いて差し上げます。この地の上に神様の国と世界を私が探し建てて差し上げます。そうして神様を安息させ喜ばせて差し上げる私自身に必ずなりますので、神様、私を見られ慰労を受けて下さいませ。」

その祈祷の内容を聞いて、私は本当にびっくり驚きました。私も一日に三時間以上祈祷をしていましたが、私の祈祷とは次元がまったく違う祈祷であったからです。私は祈祷をするごとに、「病気になった者の病気が治り、試練に遭った者に試練に勝つことができるよう力を下さいませ。そして弱い者には勇気を下さいませ。」というように、一様に神様に何かをして下さいという祈祷をしていました。

しかし、「この先生は神様の悲しくつらい事情を言いながら、神様の恨(ハン)を解いて差し上げ、神様の所願(しょもう)を成して差し上げると祈祷をするのか!」という、そこに深い感動を受けました。私はそのときまで一度もそのような祈祷をしたことがなかったので、良心の呵責を感じもしました。

その祈祷の内容を聞くと、「ああ、ここに何かあるな!」という大きな悟りを受けました。その日、夕食をしないでそのまま家に帰っていたとしたら、おそらく私は統一教会の食口になっていなかったでしょう。その祈祷の内容を聞き、夕食を食べてから私が変わりました。

「私は不孝娘のごとく神様に頼って私のものを満たそうとしたのに、この青年は自身のものを差し上げながら神様に侍り、安らかにして差し上げようとするのだなあ。」という反省の思いになりました。そういう思いになるや、涙があふれました。私がすすり泣いていると、お父様は、「今日この幼い娘がここを訪ねて来ました。神様、どんな御心があられるのか本人はわかりませんが、この娘をして神様の真の御心を知り、感じ、行うことができるようにして下さいませ。」とむせび泣かれました。

そのようにむせび泣かれ、ときには声が詰まり祈祷を続けることができずに、じっとされた後に、再び祈祷をされ、またしゃくり上げながら祈祷をされました。その姿には形式もなく、飾り気もなく真の心だけがありました。その祈祷に私は大きな恩恵を受けたのです。

その祈祷を聞きながら私は、「ここには、神様が共におられる」ということを大変感じました。声を詰まらせ、ひくひくとしゃくり上げながら真実なる祈祷をされるその姿には何事も混ざらない真実、神様が安らかになられるように侍って差し上げる、孝子の心情を感じることができました。「私はこれまでイエス様を信じて来はしたが、間違って信じて来たんだな!」と感じました。私は毎日欲心だけを出して、神様に要求だけして生きてきたのだな。「神様、私を天堂でも良いところに送って下さい。イエス様に誰よりもまずはじめに会わせて下さい。」という祈祷を捧げる不孝をしました。

私が動機となり、欲心が中心になり、私を中心として信仰したことを悟りながら悔い改めの涙がとめどなく流れました。この世の父母も、自分のところに来て何かくれといってもらっていく子供よりも、服一着でも食べ物一つでも持って来てくれる子供が貴く愛らしいでしょう。つくづく考えてみると、神様は私よりこの青年をより愛しておられるだろうという思いになりました。そして、私の祈祷よりは青年の祈祷をもっとよく聞いて下さるだろうという考えにもなりました。

そういう感動の祈祷が終わった後に夕食を取りました。お父様は食事をおいしそうに召し上がりました。その日私は聞きたいことはたくさんありましたが、質問らしい質問はできませんでした。お父様が強く一方的に質問され、お話しされたので、質問をするすきもなく、口に出すこともできなかったからです。

「今日、こんなに三時間も話をして下さったのですが、お話はまだあるのですか? それとも終わったのですか?」とお聞きすると、「本当は私がですね、話をして聞けば、数日夜を通して話しても継続して新しい話ができるほどの内容があります」と答えられました。私は心の中で、「この青年は途方も無い大きな話のふろしきを持っているな。聖書についての新しい話をいくらでもすることができるとは大したものだ!」という思いになりました。

「ええっ?そんなにお話がたくさんおありなのですか?」と言うと、「この家は外から見たらみすぼらしいでしょう?そうではあるけれど、いつでも門は開かれていて人を待っています。」と言われました。それで私が、「また誰を待っておられるのですか?」と聞くと、「この地上には、人生の根本問題と宇宙の根本問題を解決できなくて彷徨(ほうこう)する人がどれほど多いかわかりません。その人たちに私は新しい天の知らせを伝えてあげるために、いつでも門を開いて人を待っています。」と言われました。

その日、別れるとき、お父様は、「姜伝道師。次にまた来て話を聞くことを願います。」と言われたので、「時間があれば来ます」と答えました。すると、お父様は断固とした語調で、「時間はいつもありません。時間は作らなければなりません。」と言われました。

あいさつをして別れて歩き出したのですが、後ろから足音が聞こえます。振り返って見ると、お父様が私の後について来ておられたのです。私は、「あいさつまでしたのに、またなぜ私について来るのか?本当に変だな!」と思いました。

そのように思いながら私の家の前に到着しました。私が後ろを振り返って、「ここが私の家です」と申し上げると、「また来て話を聞いて下さい」と言われました。さっき別れるときとまた同じ言葉を言われるので、「時間ができたら行きます」とだけ申し上げました。私の答えを聞いたお父様はまた、「時間ができて来るのではなく、作らなければならないのです」と言われました。結局私が、「それでは時間を作ってみます」と答えました。

私の答えを聞いたお父様は少年のようなほほ笑みを浮かべられ家に帰られました。お父様はそのとき、人の生命を探し求めるために御自分の立場や体面、威信のようなものは一つも考えられないのだなということを感じることができました。お父様の威信や体面を考えれば、若い女性の後をついて来ることなどできないでしょう。しかし復帰の道で一つの生命を救わなければならないという切迫した心情を持っておられるので、私の後をついて来て、「もう一度話を聞きに行きます」という答えを聞いてから御自分の家に帰られることができたのでした。

その日のお父様のほほ笑みは今も私の心の中に残っています。人が恋しく人が来ることを待っておられて、やっと会えたその嬉しさと喜びがお父様のお顔にそのまま出ていたからです。

第一章  成長と入教

その3 おし(唖)になる

  再び訪ねる

その日以後、神学校で学んだすべての神学の内容が一度に壊れたことを感じました。なぜかその青年の話を聞いた後から私の人生が無に返ったようで、祈祷をしても神様が答えて下さるようではありませんでした。お父様の祈祷は私が信仰生活をしてきたものとは相当に差異がありました。既成教会では祈祷をするとき、意識的に祈祷の形式と教会の制度に縛られて祈祷するときが多いのですが、お父様の祈祷は真心(しんしん)から湧き出て神様を思いながら血と肉と骨の中から自然に流れ出る祈祷でした。その祈祷を聞きながら、「この方は神様と近い因縁を結んでおられるのだな」という感嘆がおのずと起きました。そして七年前に私が決心したことを知っておられることを考えると、普通の人とは違うという思いもしました。

数日夜通しで話ができるほどの話があると言われたので、もう一度行ってみなければという思いになりました。次の週の月曜日以降にもう一度訪ねに行かなければという思いはしたのですが、まず三時間の間、聴いた話をじっくり吟味(ぎんみ)してみました。考えれば考えるほど余りにも論理的で確実な内容であったので、結局木曜日に再び訪ねました。

午前中は学校に行って、午後に話を聞くために訪ねると、青年は私を見て大変嬉しがりました。「どうぞ部屋に入りなさい。」というので、一瞬、私は疑いの思いが起こりました。「この方はなぜ私をこのように喜ぶのか?若い男性だから、もしかして私が若い女性だから喜ぶんじゃないのか?」という思いが浮かび、気持ちが良くなかったのでした。

そういう私の心を知っているのか知らないのかわかりませんが、青年は再び話を始めました。内容は、神様がどのように存在されるのかというもので、創造原理に関するものでした。その御言葉を伝えるお父様の姿に大変深い感銘を受けました。

「神様は果たして存在されるのか?存在されるのならどのように存在されるのか?」という問題は重要なものですが、事実、目に見えないので、百パーセント確信を持って伝えることが難しいものです。しかしお父様はあまりにも明確に絶対的に神様の実在を伝えられました。そういうお父様の姿を見ながら、私自身の信仰を振り返って見ざるをえませんでした。私は、「いつ神様について真正に信じて証したのか?イエス様について全力を尽くして伝えたことがあるのか?私が信じていることを伝えることができるのに、絶対的に信じることができないので、伝えるときにも相手の心に絶対的に伝えることができなかったな。私の信仰は本当に不足だった。こんな信仰で多くの生命を生かすことができるのか?」ということを感じました。そしてお父様が話される御言葉は頭で研究されて絞り出された御言葉ではなく、全世界人類を救うための神様の御旨であるということを自然に知ることができました。

そういう感動を受けながら心の片隅では、疑心と葛藤もありました。「この世の終わりには偽キリストが多く現れるというが、もしかして偽キリストではないのか?」という心配もしたのです。そのとき、神学校では、お父様が北韓でどんなことをされていたのか、そのうわさが立っていました。一言で言えばお父様は異端だということでした。そのうわさを考えながら、「偽キリストがここにいる、あそこにいると言っても行ってはならず追ってもいけないというが、これはつまらないことではないのか」という心配になりもしました。

そのときには、お父様が再臨主であるということは夢にも考えることができませんでした。ただ、「御言葉を条理よく話され、多くの体験を持っておられ、霊的に明るい方であるな」と思い、祈祷をたくさんされる神霊の高い方であるということだけ思っていました。

先生(=師)として侍る

二回目の御言葉を聴いた次の日の(1952年)5月16日金曜日、再びお父様を訪ねました。夕食を早く済ませて登って行ったら、お父様はその日はさらに喜んで迎えて下さいました。二日間御言葉を聴いた土台の上の三日目、私は完全に御言葉に酔って聴きました。
「ああ、これならできる。今、この時間にもこの世の人たちは戦い殺しあう暗闇の中でわめいているが、私は真の真理に出会ったから、これでできる」という考えになりました。私は新しい御言葉に酔い、精神が体の中にあるのか体の外にあるのかわからないほど、時間が過ぎることもわかりませんでした。御言葉を全部聴いた後にお父様に申し上げました。

「一つ、お願いがあります」
「何ですか?」
「これから先生として侍りたいので、先生(ソンセン)ニムとお呼びしてもいいでしょうか?」

みすぼらしい服を着た青年を私はそのときから、先生(ソンセン)ニムとお呼びすることにしました。横で肖像画を描いていた青年とおばさんも喜びの表情でした。その青年が金元弼(キムウォンピル)先生であり、おばさんは玉世賢(オク・セヒョン)オモニでした。そのときには、玉世賢(オ・クセヒョン)オモニや金元弼(キム・ウォンピル)先生などお父様に侍る人たちが、「アボニム(お父様)」と呼ばずに、「先生(ソンセン)ニム」とお呼びして侍っていました。

中央前:金元弼先生

この日のお話がほとんど終わる頃、時計を見たら夜明け4時を少し越えていました。4時30分には早朝祈祷を私が導かないといけないのに、4時15分ごろにになってやっとお話が終わったので、準備がまったくできませんでした。教会に下りて行って早朝祈祷会を導こうとしても準備が全然できていないので、心が苦しかったのでした。しかし、早朝祈祷をする途中に信徒たちの中で悔い改めをして頭をかきむしりもし、胸を叩き、礼拝堂の床を叩きながら痛哭をする者たちもいました。平素に祈祷会を導く準備をたくさんしても、こんなことがなかったので、おかしいなと思いました。「今まで三日の間聴いた内容を中心として話を伝えたので、こんな役事が起こったんだな」と考えました。

その日は土曜日でした。家庭訪問をするのですが、お父様についての思いが頭から離れませんでした。どうしても行って会いたくなり、我慢できなくなりました。それで一緒に家庭訪問をしていた執事(チプサ)に話しました。

「執事(チプサ)ニム。あのボンネッコルにある青年がいるのですが、イエスをよく信じているようです。しかし、教会に通っていません。私が教会に出て来るよう勧めなければなりません」
「どんな青年なの?」
「どんな青年なのかといえば、見たところ良く見える人ですが、悪いことに教会に通っていないのです」
「じゃあ、行って来なさい」

そう話を終えて、その執事を長老の家に待たせておいて、お父様のおられるところに登って行きました。ちょうどそのとき、お父様は家の外に出ておられ、私を喜んで迎えて下さりながら、中に入って御言葉を聴きましょうと言われました。
「今、家庭訪問をしているので、帰らなければなりません」
「20分でも御言葉を聴いてから行けばいいのですが」と言いながら御言葉を話されました。そして私に、「今まで御言葉をたくさん聞きましたが、この御言葉は神様からきたものなのか、人間の頭から絞り出したのかを知りたくはないですか?その出所を突き止めたくないですか?」と聞かれました。
「はい。知りたいです。どうすれば知ることができますか?」
「それなら祈祷をしてみなさい。神様は必ず教えて下さるでしょう」
お父様の答えを聞いて、私の心はうれしかったです。

もしその時、お父様が、「この御言葉は神様から来た御言葉であるので、この御言葉を信じなければ亡んで地獄に行きます。」としたなら、私はそのまま何の未練もなく去っていたでしょう。しかし、お父様は「直接祈祷してみなさい。」と言われたので、なぜか嬉しかったです。
「はい。祈祷してみます」
「自分の子がパンを求めるのに、石を与える父母があろうか。魚を求めるのに、へびを与える父母があろうか。神様も子女が懇切に祈祷すれば必ず応答して下さるのです」と言われたお父様の言葉に力がありました。

おし(唖)になる

次の日は主日(=日曜日)でした。それで教会で礼拝を捧げ信者たちと話をしました。次の日の月曜日に早朝からその言葉についての祈祷を始めました。祈祷をしている途中に神学校で学んだ理論が頭をずっとかすめました。こんなにりっぱな理論が多いのに、その理論を実践した人が少ないのがもどかしい。この世に多くの理論が実践に移されずにそのままになっている。お父様が話されたことも一つの理論として終わり、実践されるようでもない。そう考えると、頭が痛くなり、胸が重苦しくなりました。天のお父様と呼んでも舌が回らなくなり口も開かなくなり、祈祷ができないおしになりました。

私は心の中で祈祷しました。「主よ。私がどんな罪を犯したので父と私の間にこのような壁が生じたのですか?この壁のゆえに胸が重苦しく息が詰まるようですから、神様がこの壁を壊して下さい」と祈祷を捧げました。

そして私は悟りました。体が火の中に投げ入れられることだけが地獄ではなく、私が神様から離れるとき、すなわち神様が私の中におられないときが地獄であると悟ったのです。「私が神様の愛の主管圏にいることができず、神様の主管を受けることができない非原理圏が地獄である」ということです。そのとき私は地獄が何であるかを感じました。言葉も話せず、息もできず、心があせりました。

父よ。私にあるすべてをみんな持って行ってもいいです。しかし、父と通じることのできる祈祷の道だけは持っていかないで下さい。神様と私の間に心情的な内的な因縁だけは切らないで下さい」という思いでした。

言葉が話せないので余りにもつらかったです。そのように言葉が話せないおしになり、三日が過ぎました。その三日がどれほど飽き飽きし重苦しく苦しい時間だったか、三年の歳月が過ぎた気分でした。

四日目になった日に教会に出ました。教会で祈祷を捧げたのですが、「人の話も信じることができず、受け入れないおまえが、神様の御言葉をどれほど信じて受け入れられるのか?」という心の声が聞こえました。

「神を愛していると言いながら兄弟を憎む者は、偽り者である。現に見ている兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することはできない」と言われたヨハネの第一の手紙4章20節の言葉が思い出され悔い改めの祈祷を始めました。

「私は、人の言葉も信じることができず、受け入れることができない者になりました。私の不信の罪を許して下さい」と悔い改めの祈祷を捧げました。すると頭の痛みと胸の重苦しさが解かれ、心と体がすっきりしました。
そして口が開かれ、「父、神様、主よ!」と呼ぶことができるようになりました。

それで朝の食事をする前に喜びの思いでお父様のところへ走って行きました。三日の間、行かなかったので、お父様は、「なぜ三日も来なかったの」と言われました。私は三日の間、地獄に行って来ました。先生に出会う前にはこんなことはなかったのに、先生に会ってから後に頭が痛くなり、胸が重苦しくなり、祈祷ができず三日間おしになりました。その間、多くの時間を奪われ、神霊的にも多くの傷を受けたので、損害を受けたものを賠償して下さらなければなりません」と言いました。

そしたらお父様は、「祈祷をするとき、疑心の思いはなかったの?」と聞かれました。
「私も知らないうちに、疑心が生じました」
「おしになったのは疑心を抱いたからだね」

お父様は私にもっと話をして下さろうとされたのですが、私が賠償をしてもらわなければという言葉を言ったので相対基準が合いませんでした。お父様は結局、家の外に出てしまわれました。

そのとき、玉世賢(オクセヒョン)オモニが私に話しかけてきました。
「あの方は立派な方です。神が愛する方です」
「私に良い話をしていただけると思ったのに、なぜ先生は自慢だけをするのですか?
おばさんは先生にいつどのように出会ったのですか」
「私は啓示を受けて入って来ました」
「啓示が何ですか?」
「神様の声を聞きました」
「本当に聞きましたか?私は26年間、イエス様を信じてきましたが、神様の声を一度も聞いたことがありません。私も是非聞いてみたいのですがどうすればよいですか?」
「私心を捨てて真心から祈祷すればいいです。実にあの方は神が大変愛される方、再臨イエスです」
「あの方が再臨主ですか?再臨主は雲に乗って来られると言われているのですが、雲にも乗って来られないのに、再臨主と言われるのですか?」
「私は神様から啓示を受けました。神様が愛する方であり、世界的に大きく働く方との啓示を受けて出会った先生です」

そのように玉世賢オモニは伝道された時を回想しながら話を聞かせてくれました。
玉世賢オモニは長老教会の篤実(とくじつ)な長老の夫人として恵みをたくさん受けた勧士(クォンサ)ニムでした。

「ある日、家で祈りを捧げていたら、天からの声が大きく聞こえてきました。『萬寿臺(マンスデ)の向かい側で若い青年を訪ねなさい』という啓示を受けました。

※萬寿臺(만수대/マンスデ):朝鮮民主主義人民共和国平壌市中区域の地名。大同江 西岸の丘陵地である

私も最初は聞き間違えたと思って探しませんでした。すると、目の病気になりました。病院にも行ってみて薬局で目薬を買ってさしてみましたが治りませんでした。それで、神様に祈ったところ、『なぜ訪ねよと言ったころに行かなかったのか』と叱る声が聞こえてきました。結局、行けというところに行ったら、先生がおられました。先生にお会いするやいなや目の病気が治りました。それ以来、先生を手厚く侍ることなりました。その時の先生は、平壌(ピョンヤン)で小さな部屋を持って礼拝をささげておられましたが、平壌市内の信仰心篤い勧士、執事、平信徒たちが啓示を受けて多く集まって来ました。神様から直接の声と啓示を受けた者が多かったです。

すると、平壌市内の牧師たちが、長老たちと会議を開いて、そのまま放って置いてはいけないと決議したのです。最初は教会でも問題となり、次には長老会議で問題になって総会で問題になって既成教会の信徒たちが警察に投書をしたのですが、80通以上もなったということです。社会秩序を乱し信徒を奪っていくと警察に投書をして、結局先生が平壌の獄中に収監されることになりました。私は、雑穀の粉と季節が変わるごとに服を作って、毎月一回ずつ面会に行きました。」

そう言いながら涙を流しました。賠償してもらわないという私の心の中に玉(オク)勧士(ウォンサ)ニムの涙が落ちてくるようで、「私が間違っていた」と思いました。

「夫が長老教会の長老だったので、面会に行くのがなかなか難しくなかったからでしょうか。月に一度、平壌(ピョンヤン)から興南(フンナム)まで通って来るのでなかなか行けませんでした。ある日、汽車の中で祈りました。「神様、私は文先生に面会に行くことを来月から止めなければなりません」と言ったら、白い服を着た老人が現れました。

「なぜ面会に行かないようにしようと思うのか?今は影の中に埋もれて臭い獄中にいるが、その先生は普通の方ではない。今後、全世界から無数の人々が山や海のように集まる時が来る。だから、どんなに難しくて大変でも続けなさい」と言うことでした。それ以後、続けて面会に通いました。」

その話を聞いて私は感動を受けた一方、驚きました。お父様に世界の人々が訪ねて来て、学び、頭を下げる時が来るという言葉に、私も祈ってみなければならないと思いました。しかし、私は私心を捨ててどんなに本心から祈ってもその声は聞こえてきませんでした。

第一章

その4  神の声

 

第一章 成長と入教 
神の声

そんなある日、教会に行って心からの祈りを捧げました。「生きておられる人類の親であられる父なる神様は、この重要な問題を解決しなければなりません。声であれ幻想であれ現れて教えて下さりお聞かせください」と祈りました。すると、本当に声が聞こえてきました。

その声は、ピリピ書3章20節の御言葉でした。
「私たちの国籍は天にある。そこから救世主イエス・キリストの来られるのを、
私たちは待ち望んでいる」という声が三度も聞こえてきました。
それで立って周囲と天井を見てみましたが、誰もいませんでした。その声を出せる人やその声の人がいるのかを見てみましたが、空っぽの教会堂に私一人だけでした。
まさに神様の生きた声を聞いたのです。

それで、再びお父様を訪ねました。
「先生、祈りの中で声が聞こえてきました」
「どんな声なの?」と言われたので、その内容を申し上げました。
すると、「伝道師さん、そんなことをしたら狂ってしまうね」と言って笑われました。
「私がイエス様をよく信じ正しく信じたいだけなのに狂ったらどうなりますか?」
「狂っても神様の為に、善の為に狂うならば良いことだから安心しなさい」と言って下さいました。

しかし、その声を聞いてからが問題でした。この道を行くべきか行かないべきかということが問題でした。その時の環境を見ると到底信じることができませんでした。部屋は畳二畳の広さにもならないうえ、雨漏りする土窟のようなところで礼拝を行い、礼拝人数も二、三人だけなので信じることが難しかったのです。

御言葉は途方もなく高い内容であって聞くとうなづくことができるのですが、少し経つと疑問が生じました。「このように変転する心なので、朝と夕で顔色を変えながら、神様が創って下さった本然の顔を一度も持つことのないまま残る人生の道を疑心の思いで生きていくのか?」と私の心は苦しくて辛かったのです。

「私がなぜ人と違った方法でイエスを信じようとするか?長老派教会に通いながら、イエスを信じてもいくらでも救いを受けることができるはずなのに…」という個人的な考えが先んじて悩むようになりました。そして、他の教会は礼拝を終えた後に信者が山のように溢れ出てくるが、ここでは二、三人だけなので、とても自分自身の信仰を保つことができないようでした。

同時に、長老派教会の信仰を守り続けていくことも難しく感じました。嘘偽りを真のことだと信じ、辛いことを楽しいことと思い、愚かな自分を賢いと思って嘘と虚飾で自分を偽装する愚かな人生を生きて来たようで、辛くなりました。

深刻な内的の葛藤の中にも、お父様に何か引力があるのでしょうか、毎日のように御言葉を聞くために訪ねて行きました。まるで磁石に引きつけられる鉄粉のようでした。

そのときは、あまりにも難しい時代でしたが、私は何でもして差し上げたくて、数日に一回づつキムチを作って差し上げることもしました。お父様は、私が漬けるキムチは美味しいと記憶しておられますが、おそらくその頃には、あまりにも食べるものが少なかったときだったので、そのように覚えておられるようです。なぜなら、その頃には私も余裕がない状況なので、調味料もまともに使うこともできずにキムチを漬けて差し上げたことも多かったからです。それでもお父様は、美味しいと言われるので、キムチやにしんなど、いくつかのおかずを作って差し上げました。

毎日お父様のところに行くので、凡川(ボムチョン)教会でも知られるようになり、神学校でも知られました。教会では、私がある若い青年を追いかけて通っていると色眼鏡で私を見るようになり、1952年8月から本格的に問題になりました。

選択の岐路

その後、私は続けて試練に遭いました。お父様は私に、他の人も話を聞くことができるように連れて来るように言われました。それで私はいつも尊敬していた伝道師、一緒に勉強していた神学生、教会で信仰心が深い執事など、たくさんの人をお父様に連れてきました。

しかし、奇妙なことは、その人たちは御言葉を聞いた後、「姜先生がおかしいです。これがなぜ真理ですか?聖書にもない話だけがよく作られてありますね!」と皆が不信しました。一人も肯定的な反応を見せた人がいなかったのです。なので私は、「本当に私が間違っているのか」と心配し始めました。御言葉を聞くときは、うなづき、力が出て良いと思っても、御言葉を聞き終わって家に行くときは、目の前が真っ暗になりました。

私が連れてきた人たちの中で信徒が数百人を超える教会の伝道師もいたし、神学校で秀才という評価を受けている学生もいました。凡川(ボムチョン)教会で信仰心が深いことで有名な人々もたくさん連れてきました。しかし、彼らの中で誰も、お父様の御言葉に共鳴する人がいなかったのです。みんな私がおかしいと言うので葛藤を感じざるを得ませんでした。「他の人たちはみんな違うと言うのに、私一人だけが正しいと言ってもいいのだろうか?私ももうやめるべきだ」という思いになりました。

しかし、そのような考えをすれば、お父様の私に対する目つきが変わりました。私が疑えば、お父様が私に距離を置いて対されました。そして不思議なことに、私が疑うその部分についての御言葉を話し始められました。まるで私の心の中を覗いておられるかのように私の思いを知られ話しをされました。

私は一度もお父様に私の心の葛藤についてお話ししたことがなかったのです。それでも疑がったりとか不信をする思いが生じたら、お父様はまるで心の目で見ているように私の思いを知っておられました。「神様のように私の心を見抜いておられる方だ」ということをよく感じました。

そんなある日、御言葉を聞いた後、家に帰りながら否定的な考えが湧きました。「みんな違うと言うのに、私だけが正しいと言うのは何かが間違っている。私よりも、イエス様を長く信じてきた人々、神学を長く勉強した人もみんな違うと言うのに、私が何で一人で正しいと言うのか?私一人が正しいと言って何か変わるものがあるのか?教会で悪口だけ言われて、神学校では、狂ったという言葉まで聞いた。もう本当にやめなければならない」という決心が立ちました。するとその後、汚れた水が流れる下水道に足がはまってしまいました。汚れた水に足がはまると、「私が疑がってやめようと決心したから罰を受けるんだなあ」と思いました。

その時はそんなことの連続でした。葛藤が最高潮に達して、到底これではだめだと決心すると、そのような予期せぬ事故が続いて起こりました。私は自分なりに、お父様から聴いた御言葉を分析もしてみて、御言葉どおりに成されるのだろうかと考えもしてみました。周りのみんなが私に気が狂った、おかしくなったと言ったので、私の心の中の葛藤はよりひどくなりました。

ある日の夜、夢を見ることもありました。鬼のような真っ黒なものが現れ、私を縛って暗い地獄のような場所に連れて行く夢でした。そんな夢を見た日には、私は鬼にだまされて間違った考えをしているのではないかと思ったりしました。
お父様に出会ってから夢で多くのことを見たりもしました。その内容を忘れないようにと、夢から覚めたときにすぐにメモをしようと枕元にノートと筆記用具を置いて、寝たりもしました。

そういう時が過ぎて8月になりました。もうこれ以上はだめだという思いになりました。「これで本当に私がやめなければならない。このように私は迫害を受け、人として扱われもしないので、これ以上は続けられない。周りの人が皆、私を浮気女、放蕩女として見るからこれではだめだ」という考えになったのです。そのような心を持ってお父様に会いに坂を登って行ったのでした。「今日は絶対に部屋に入らず、外から挨拶だけして帰らなければ!」と、固く心に決めました。部屋の中に入って話を聞くと、また御言葉に吸い込まれていくかも知れないから外で挨拶だけしようと思ったのです。

そう思って到着すると、お父様が家の外におられました。それで私はお父様に挨拶をして、「私は今からここで御言葉を聞くことをやめます。以前に信じていたイエス、長老教会で信じていたイエスを信じます」と言おうとしました。

そういう挨拶をしようとお父様を見たところ、昨日まで仁者(じんしゃ=情け深い人)のように見えていたお父様の顔が怒っている虎の顔のように見えました。いざお父様の顔を見ると自信が無くなって、「家に帰ろうか、どうしようか?」という思いがしました。そんな思いを一人でしているとお父様は何も言われず、部屋に入って行かれました。

挨拶も何の言葉も言われず、部屋に入ってしまわれたので、私はまた葛藤が起こりました。それでもどうせここまで来たので、別れの挨拶でもして帰りたくて、私もついて部屋に入りました。それでもお父様は何の言葉も話されませんでした。

無言で30秒程度経ってから、
「今日、ここまで登って来ながらどんな考えをしたのか」と尋ねられました。
「考えたことは何もありません」と言ったら、
「考えたことがあるんだけどね」と言われるのでした。
「覚えていることは特にありません」と言いました。
そう言うと、「若い人がなぜさっき思ったことを覚えていることができないの?今ここに登って来ながら、松の木の曲がり角を曲がりながら、次からはこの道を行かないと思ったんじゃないの?今日ここに来たのは、別れのあいさつをしに来たんじゃないの?」と言われました。

その言葉を聞いて、私の顔がにんじんのように真っ赤になりました。なぜなら、良心の呵責を感じたからです。私が思っていたことをその如くお話しされたので、どうすることもできなく頭を垂れていました。

そんな私にお父様は、「私は実際に力がある者であり、能力のある者です。商売をしても上手にしてお金を稼ぐことができ、また、就職しても、私は今よりいい生活ができる力があります。これもできなくて、波止場町で労働をしても、誰よりもいい暮らしができます。しかし、なぜこの若者が、夏でも冬服を着て畳二枚の広さにもならない部屋の隅に引きこもって座っているのだろうか?その理由は、神を愛することに狂った者だからです。神の御旨を成して差し上げるために、私は明らかに狂った者です」と言われました。

その言葉を聞いて、私の心は驚きました。「私は神様を愛することにまだ狂ってみたことはなかったし、神様の御旨を成して差し上げることに狂ってみたことがなかったが、この方はやはりたいした方だ。神様を愛するために狂った方、神の御旨を成して差し上げることに狂った方に従って、私もちょっと狂ってみなければならない」と心の中で思いました。

その後、お父様が私に、「信じられないと言って、荷物を包んで出て行くことはできます。しかし、いくらもしないうちに戻ってくるはずなのに、なぜ無駄な苦労をしようとするのですか」と言われました。その言葉を聞きながら、「これが真(まこと)であるな」と思いました。

しかし、人の心は、「朝変夕改(ちょうへんゆうかい)」と言われます。朝と夜で心が変わるので、自分の心を自分でどうすることもできませんでした。そのようなことが一度や二度ではありませんでした。そんな日には、多くの考えが湧きました。「五分後に何が起こるかもわからないで生きるのが人生だ。明日で終わりになるかもしれない命にもかかわらず、千年万年の設計を立てて、自分の為に足がすり減るほどあえぎながら走り回っても、いざ自分の大切な魂の為には一歩も動くことのない悲しい道、不幸な道を歩いて来なかったか」とじっくり考えてみました。嘘と虚飾で自分自身を偽装する悲しい人生の道を行っているのではないかを深刻に考えるようになりました。

疑心と役事の反復

ある日は、私が学んだ神学校の理論で、お父様がそれまでお話しされた原理と対比し討論するために訪ねました。

「先生、イエス様を信じるにおいて、どうして数字が必要ですか?40日、40年、400年、4000年と、4数を持って聖書を解釈されましたが、私は神様の摂理がそうなされたとは信じません」と言いました。

そしたら急に頭が痛く、胸が苦しくなりました。そして、口からは血まであふれ出ました。そんなことを自分の目で見ながらも信じられない不思議な出来事でした。そのとき、お父様が私のあごに手をあてられたのですが、嘘のように血が止まり、頭がすっきりしてきました。「痛いところをこんなに治して下さるので、私はこの道を行かなければならないのだが…」という思いになりました。

また、ある日、お父様を訪ねました。その日に限ってお父様の身なりと家があまりにも薄汚く見えました。途方もない御言葉を話されるのですが、みすぼらしい姿を見て、やはり理論であって実際に実現するのは難しいという気がしました。

私の顔をうかがったお父様は、「聖書をどこでもいいので広げて見なさい」と言われました。聖書を広げたところ、マタイ福音書14章でした。お父様は31節を読むように言われました。そこには、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と記録されていました。
お父様は聖書を持って、「これは私の言葉ではなく、神様の言葉です。神が、信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのかと言われても疑いますか?」と言われ、叱られました。

そう言われながら、「これから、この原理でキリスト教が統一される日が来るでしょう」と言われました。その言葉を聞いて、「キリスト教が統一されるには、各宗派の代表が集まって会議もして、その方法を模索しなければならないのに、ボンネッコルでわずか三人が統一を成功させることができるでしょうか?」という言葉が自然に出ました。

お父様は私の言葉を聞かれて笑われながら、「今は難しく見えるが間もなくそうなります。キリスト教だけでなく、宗教も統一され、世界も統一され、天宙も統一されるでしょう」と言われました。「ところで、天宙とは何ですか?」と尋ねると、「天宙は天と地を言う」と答えられました。

ある日は、光復洞(クァンボクドン)国際市場(クッチェシジャン・こくさいいちば)の前を歩いていると喧嘩している男と女を見ました。二人はいろいろな悪口を浴びせ、血だらけになりながら喧嘩していました。私は心の中で不平を言いました。「あんなに喧嘩している人が多いのに、いつ地上天国が成されるのだろうか?天国が成されるという話は到底信じがたい」と言うと、いくら歩こうとしても、両足が地面から離れませんでした。足がしびれたように痛くなって一歩も踏み出すことができませんでした。

結局、神様に、「神様、どうして私の心のままに考えることもできなくして、心のままに歩くこともできなくされたのですか?」と言いながら祈りました。
すると、道で声が聞こえてきました。私の心と耳に神様の声が聞こえてきました。
お前に何度も現れて教えてやったのに、お前はそれでも不信し疑うのか?お前にはするべきことが多い。わめく人々の声が聞こえないのか?彼らの命を父の愛の中に導くべき伝道師であるということだ!」と言われる神様の声があまりにも鮮明に私の行くべき道を教えて下さいました。

結局、その場で、「父の御心のままに、お言葉の通りいたします」と誓い悔い改めたところ、痛かった足が地面から離れて歩くことができるようになりました。私が経験したことを嘘だと思う人もいるかもしれませんが、直接経験した私には今でも忘れられないことです。その後も、真の師は冷たく蹴飛ばしておいて私を狙うサタンには妙に笑いながら、その味方になろうとしていた不信の心を責めたものです。

疑問や啓示が繰り返されていたある日、私は談判祈祷をしました。その内容は、「私が行くべき道がどの道であり、神様の願われる道はどのようなものか?」ということでした。ある日、神様は祈りの答えを下さいました。
「私が六千年間摂理し、役事してきた道がすなわちこの道である」と教えて下さいました。それ以後神様は、私が勝手に考え暮らすことができないようにされました。ひたすら神様とだけ因縁を結んで生きることができるように懲戒し、導いて下さいました。

私が最後に談判祈祷をした時も、答えの恩賜(おんし)を下さいました。その時、私は断食をしながら談判祈祷をしました。「神様!私の生命は自分が貴いということを感じて知っています。どこの誰が地獄に行く事を喜び、どこの誰が自分が滅びる道を選択しますか?ですから、このように祈祷を捧げますので、本当にこの道が正しい道かどうか教えてください。私に正しく教えてください。そうすれば、私はその通りに従っていきます」と祈祷しました。

すると神様は、「文鮮明先生は、私が今まで地に対して苦労し、地で救いの摂理を役事してきたすべて全体を継承してくれた者である。彼はそのように貴く大きな役事をしている。二千年前、イエスが地で成し遂げなけれならなかった使命、私の六千年の間に導いてきた役事をしている。そのようなすべての使命を継承した者がすなわち文鮮明先生である」と教えてくれました

その答えの恩賜(おんし)のゆえに、私の行く道ははっきりと定まりました。そしてすべての生活の中心にお父様を置きました。この道を行って死のうと決心したのです。この方がまさに私が慕って待っていたメシア、救世主、再臨主であると信じ固く決意しました。

ある日、お父様が私に、「明日は誰々に会うはずだから、彼を伝道をしてみなさい」と言われました。次の日の早朝祈祷を終え、ある一人の勧士(クォンサ)を私たちの家に連れてきて話をしました。

「勧士(クォンサ)ニム、イエス様を信じる目的は何ですか?主に会って、救いを得ることではないでしょうか?その主がいつ、どのように、どの地に来られるのか、私たちは一緒にお祈りしてみましょう」と言いました。

後に夜明けごとに水垢離(みずごり)をして、その勧士(クォンサ)と祈祷の時間を持ちました。数日後、その勧士が幻想を見ました。最初は明かりのついた電球三つが見えて、その次には、ムクゲの花が三輪見えて、イエス様の顔がその上に出るという幻想でした。

その勧士は、幻想で見たものが何なのかについて再び祈祷をしました。その結果、「電球は明るい光を指し、ムクゲは韓国を意味し、イエス様の顔は再び来られる主を意味する」との答えが返ってきました。

その言葉を聞いて私は、「一度祈っただけですべて解決されたとみることができないので、もう一度祈祷してみてください」と言いました。

やはり同じ題目で祈祷をささげたところ、「伝道師様、今回の祈祷は失敗しました。何の関係もないことを示してくださったんです」と勧士が言いました。今回は変な山が一つ見えて、その次には背がすらりとした青年一人が見えたというのです。

その話を聞いて私は、その勧士を連れてお父様がおられるところに行ってみました。そこに行く途中で、その勧士が私に緊迫した声で、「伝道師様、変です」と言いました。
「何が変なのですか?」
「あそこに見えるあの山は、今日祈祷したときに見た山です」
お父様がいらっしゃる家の戸の前に着きました。
「本当におかしいです。この家は、私が祈祷したとき見た家と同じですよ」

このような話をしているときにお父様が戸を開けて出て来られました。お父様にお目にかかったところ、その勧士は幻想の中で見た方とまったく同じだと言いながら、とても喜んでお父様に丁寧にあいさつを捧げました。

その勧士が家に帰った後、お父様は、「勧士に幻想を見せてあげたのは、姜伝道師があまりにも信じることができないので、勧士の証しを通して信じるようにしたのです」と言われたのでした。

ある日、神学校の創設者である韓尙東(ハンサンドン)牧師が西面(ソミョン)で復興会をするという知らせをお父様に申し上げました。
お父様は、「それでは、姜伝道師が行って会ってみなさい!」と言われました。その人は、神学博士であり、神社参拝を拒否したという理由で七年も獄中生活した牧師でした。
私が平素尊敬していた人だったので、霊界で協助してくれれば問題はないだろうという気持ちを持って訪ねました。復興会が終わった後、その牧師に、「牧師様、最近、私がとても話が上手な先生に会いました。聖書66巻の疑問点を確実に解いてくれる方です。不思議なことに疑うと頭が痛く、胸が苦しく、おしになって、足が地面にくっついてしまったことがあります。ですので牧師様も行かれて、調べて見て下されれば良いのですが」と私の信仰体験を話しました。

私の話を聞いたその牧師は、顔色がすぐに変わりました。「長老教会のイエス様を信じて救われることが明らかなのに、なぜ他のところへ行きますか?すぐに関係を切って、行かないように」ということでした。結局、肯定的な答えを聞くことができずに帰ってきました。帰ってきてお父様に、「霊界で協力してくれることを信じて行ったのですが、通じませんでした」と報告を差し上げました。その後、私の心情は地獄でした。

私の報告を聞いたお父様は、「韓牧師が誰であろうと、彼も神の息子であるから、いつかわかる時が来ます」と言われ、賛美歌を歌おうと言われました。

大山を超え険しい谷に行っても
光の中に歩いていくと
主はいつも守ってくださると約束した言葉は変わらない。
天の栄光、天の栄光、私の心の中に満ちあふれ
ハレルヤを力強く歌って、永遠に主を賛美せん。
真っ暗な夜に歩くことがあっても
主は私の道になられ
私に明るい光になられるので
道に迷う心配がない。

お父様と玉世賢(オクセヒョン)オモニ、そして私の三人が賛美歌を歌って歌いながら涙の海になりました。そして、お父様が、「父なる神様、なぜ他の人々が違うという道を行かなければならないのですか?父と約束したその御旨を成して差し上げるためです。どんなに大変で難しいことがあるとしても、私は必ず神の御旨を成して差し上げます」という内容の祈祷をされました。多くの人が反対しますが、神の御旨であるから私は出発したし、この道を行くべできであり、必ず勝利して、神様を喜ばして差し上げようと何度も誓いました。

いつかお父様が、「姜賢實は、霊界で伝道されて来たのである」と言われましたが、おそらく当時、私が疑って心霊的に問題があるたびごとに、事件が生じて疑わないようにさせた役事が多かったのでそのように言われたようです。

第一章  成長と入教

その5  ボンネッコル生活

 

第一章 成長と入教 
土塀(どべい)の家での生活の始まり

結局、9月になって凡川(ボムチョン)教会の伝道師の職から追い出されました。伝道師としての務めは果たせず、毎日お父様に会いに通うので、凡川教会で当然良くない噂が立ちました。教会の仕事をおろそかにして、神学校の勉強も熱心にしていないことも問題になりました。

最後には、その教会の責任者が教理的な質問をしてきました。堂会(=教会)がお父様の話を教理的に間違っていると批判しました。その教会の牧師は、絶対的な予定説を主張しました。神は、人間が生まれてから死ぬときまで予定されるので、私たちはただ信じて従えば良いのだと言いました。

しかし、私は人間に責任分担があると言いました。私たちはただ信じて従うこともみな責任であり、神様が予定された通り、私たちが行わなければ神様の御旨を成すことができないと言いました。人間がするべき5パーセントの責任分担があるということを言うと、その牧師は、「教理的に姜伝道師が言うことは間違っています。私たちの神学校では、カルビンの予定論を絶対的に信じています。絶対予定論を信じないのならば、これ以上伝道師の職を遂行させることはできません。」と言いました。教会にこれ以上いることのできない状況になったのです。

凡川教会で伝道師の生活をやめたのは、風がいっそう冷たくなっていた頃でした。それまで私は教会の宿所で生活していたので、その任職していた教会と生活していた空間すべてを失ってしまいました。ですから行き場のない身になってしまいました。そんな私にお父様は、「荷物をまとめてこちらに来なさい」と言われました。結局、私はお父様がおられた土塀(どべい)の家に入って生活しました。

神学校の夏休みが終わって新学期が始まっていたのですが学校には行けませんでした。そのとき私は3年生でした。神様の仕事をするために入学した学校にこれ以上通うことができなくなったのは、残念なことでしたが仕方がありませんでした。

それで、玉世賢(オク・セヒョン)オモニが私にどこの学校に通っていたのかと尋ねました。それで高麗神学校に通っていたと言うと、笑うのです。「なぜ高麗神学校と言ったら笑うのですか?」と行ったら、「私の夫も高麗神学校で勉強をしています」と言うのでした。「本当ですか?どなたですか?」と言うと、「禹(ウ)ファソプ長老です」と言ったのでびっくりしました。

禹(ウ)長老は、私が神学校に通っていたとき、親しくした人でした。私は神学校で最も若い学生でしたし、禹長老は最も年輩だったのです。勉強をしてわからない漢字があるときは、禹長老のところに行って聞いたりしました。

「ああ、そうですか。私がよく知っている方ですよ」
「おやまあ、そうなの?どれほど夫が反対をしたかわかりません」と言って一緒に笑ったことがあります。

後で、ソウルの奨忠洞(チャンチュンドン)に教会があった時代に禹長老に一度会ったことがあります。禹長老は玉世賢オモニと離婚をするために訪ねてきました。それから禹長老は私に、「私は妻を愛していました。今も愛していますが、信仰的に合わないので、今から到底一緒に住むことができない状況なのでこのように離婚をすることにしました。」と言いながら、「それでも私の心が安らかのは、姜先生がこの道に入っているということです。ここでこのように会えたので、少し安心しました。」と言いました。

ボンネッコル生活

ボンネッコルの土塀小屋に住んでいた時に、最も長くおられた方は金元弼(キム・ウォンピル)先生でした。この方は毎日、午前中に米軍部隊に仕事に出て夜遅く帰ってきました。いつも同じ真っ黒なジャンパーを着て、表情も変えずに通っていた本当に静かな方でした。いつも無言で、自分の仕事を黙々と続けましたが、お父様には絶対的に従っていました。

数年の間、お会いしても一緒に話をしたことがあまりありません。いつも同じ姿で米軍部隊に通勤しながら精誠を尽くされていた誠実な方でした。そして帰宅して帰って来られて、米軍の家族の肖像画を描く仕事をしました。お父様は金元弼先生を助けるために人造絹糸(けんし)で織った布に糊を塗って枠に貼り付けることをされました。糊を塗って枠に貼り付けた後、陽に当てて乾燥させると平らになります。その後、お父様は顔を描き易くするため鉛筆で線を引いておかれます。私もお父様を助けるために、その作業をしましたが、金元弼先生とはあまり話はできませんでした。あまりにも言葉がなく、私には静かに目礼で挨拶だけしました。

そして、玉世賢オモニが一緒にいて、時々お母さんの娘さんたちが来たりしました。また嚴德紋(オム・ドンムン)先生が時々主日(=日曜日)に訪れて来ました。嚴德紋先生はボンネッコルの土塀の家のみすぼらしい部屋に似合わない洋服一着をお父様に捧げました。

その洋服は嚴(オム)先生がソウルから釜山に避難した時に持ってきたものでした。嚴(オム)先生は避難の時にやっと持って来た洋服をお父様に差し上げるほど、お父様を尊敬し大切に考えていた方でした。その洋服のおかげで部屋がきれいに見えました。薄い茶色地に赤い縞のある、洗練された洋服でした。

嚴(オム)先生は主日になれば、いつもお父様がおられる所を訪問しました。そして歌でお父様を慰労し喜ばせて差し上げました。澄んだ声で、「夢金浦打令(モングムポタリョン)」、「白鷺(しらさぎ)よ泣くな」、「園の春の歌」などを歌ったりしました。その歌を聞いたお父様の表情は大変喜ばれているようでした。

李奇完(イ・ギワン)勧士(クォンサ)も時々来ました。李奇完さんは、お父様が下宿されていた黒石洞(フクソクドン)の宿の主人の姉でした。この方は金百文(キム・ベンムン)氏に従っていた方でしたが、お父様の御言葉を初めて聞いた時、「この方は、韓国の偉大な復興師になるだろう」と思ったと言いました。

ところである日、お父様が祈っている姿を見て深い感動を受けました。お父様がどれほど涙をたくさん流しながら祈られたのか、その姿を見ても感動と恩恵を受けたとのことでした。そして、後で祈られた場所を見ると、雑巾で拭かなければならないほど涙が一面に溜まっているのを見たというのです。それで、自然に頭が下がり尊敬するようになったと言いました。

お父様は当時高校生だったので、学校に早く行かなければなりませんでした。それで李奇完(イ・ギワン)さんは、最初にお父様のご飯をよそって、それを持っていって差し上げたということです。夫が見ると誤解されやすいことでした。たとえ、お父様は十代後半の少年であり、李奇完さんは三十代の主婦だったとしても、格別に世話をし、侍ることはおかしなことだったのです。だから夫に虐待もたくさん受けて、棒で殴られた日もあったと言いました。

ボンネッコルの土塀の家の時代には主日(聖日)礼拝をしましたが、特別な形式はありませんでした。ある日は誰も訪ねて来なくて、お父様を中心に玉世賢(オクセヒョン)オモニと金元弼(キムウォンピル)先生そして私の四人で礼拝を捧げた日もありました。そんな日は我知らず力が抜けました。世界の人類を救う真理の御言葉であるなら訪ねて来る人が多くなくてはいけないのに、三、四人が座って礼拝を捧げるので、果たしてこの御言葉でキリスト教の統一、世界統一が成されるのだろうかという思いがする時もありました。

家庭的苦難の十字架

1952年11月中旬、秋の終わり頃でした。その日はひどく寒かったです。顔が白くて綺麗な30代の若い婦人が一人の男の子を連れてボンネッコルの土塀の家を訪ねて来ました。その若い婦人は、灰色の孔雀ニットのセーターに紺のズボンを着て運動靴を履いていて、男の子は、五色の服をきれいに着ていました。

包みを一つ持っていたのですが、とてもこわい雰囲気でした。来るやいなや、靴も脱がずに部屋の中に入って行き、お父様に向かって語調を高めながら自分が生きてきた恨みをぶちまけました。その方が崔先吉(チェ・ソンギル)夫人でした。7歳の息子を連れてお父様を訪ねて来たのでした。

崔先吉(チェ・ソンギル)女史

話す内容を聞いてみると、7年の間一人の息子を育てながら、いろいろな苦労を極めたようでした。大事な息子を良く育てようと商いまでしたという話を聞いて、私も心が痛みました。そうであってもお父様が無事に生きていながらも手紙を一通も出さなかったことがわかったので、同情されてあまりある状況でした。そんな様子だったので、誰もが崔(チェ)女史を落ち着かせることはできませんでした。

私は、お父様が、息子が一人ソウルにいると言われたことを聞いたことがありました。しかし、そのような状況が起こるとは想像もできませんでした。目の前が真っ暗になるような感じでした。

崔女史が来たので、私はもはや小さな土塀の家でいっしょに過ごすことができなくなりました。私はその日のうちに近くに住んでいた食口のおばあさんの家に行って寝ました。

しかしその家でも長くお世話になることはできないので、故郷の家に帰ることになりました。当時家は榮州(ヨンジュ)から店村(ジョムチョン)に引っ越しをしたので、店村の田舎の家に帰りました。しかし、どこに行って誰に会っても、神の御心を知っている人に会うことができず、探すこともできませんでした。寂しく苦しい日々を過ごしました。

その後、お父様から何回か手紙をいただきました。内容は、二千年前にイエス様も家庭的に困難な問題を負って言葉に言い表せない苦衷(くちゅう)を経験したのですが、お父様もそのような道を歩んでおられるという内容であり、神の御旨は必ず成されるので、遠い後日を思いながら我慢して行こうという内容で、励ましの手紙でした。そして釜山に来ないで熱心に伝道するようという内容でした。

しかし、封筒の住所がボンネッコルではなく、水晶洞(スジョンドン)になっていました。私がいない間に、明らかに何かあったという思いになり、これ以上じっとしていることができなくなりました。お父様がどれほど多くの苦衷(くちゅう)の中におられるのかが心配にもなり、お会いしてお話を聞けば、詰まった心が少し安らかになるだろうと思いました。

1953年1月にお父様にとても会いたくなり、店村(ジョムチョン)から尚州(サンジュ)までバスに乗って行きました。尚州(サンジュ)から汽車に乗ろうとすると、第二次緊急通貨金融措置(そち)、すなわち、第二次貨幣改革が起こりました。戦争中に乱発された通貨による物価上昇を抑えるために100ウォンを1ファンに改革するというもので、汽車の切符を買うことができませんでした。それで、家に再び戻ってきました。

旧暦の1月6日(陽暦2月19日)、お父様の誕生日のときは必ず行かなければならないと考え、餅を前もって準備してその前日に釜山へと発ちました。2月なので気候がとても寒かったです。そのときは店村(ジョムチョン)から金泉(クムチョン)までバスに乗って行って、金泉(クムチョン)から釜山(プサン)行きの汽車に乗りました。

しかし、汽車が遅れて釜山に到着した時はすでに夜12時が過ぎた時刻でした。通行禁止時間だったので、駅員が手のひらに大き目の判子を押してくれました。釜山鎮(プサンジン)駅からボンネッコルまではかなり遠い距離でした。

水晶洞(スジョンドン)は初めて行くところなので、地理も分からず、既に通行禁止時間だったので仕方なくボンネッコルに向かいました。釜山鎮駅から凡一洞(ボムイルドン)までかなり遠い距離でした。トランクを一つ持って徒歩でやっと土塀の家に到着しました。お父様がひょっとしておられないかと思って行ったのですが、おられませんでした。

行ってみると土塀の家は崔女史だけが住んでいました。部屋に入ることができなくて、部屋の前に張ってあったテントに入りました。台所として使用するところでしたが、そこでその夜を過ごして朝に水晶洞(スジョンドン)に行かなければならないと思っていました。ところが、その夜はとても寒くて、足が凍えて耐えることができませんでした。結局足をばたばた踏みならし、その夜を明かしました。

そしてその夜はまた、生まれて初めて、口にすることもできないひどい悪口をたくさん言われました。私が店村(ジョムチョン)に帰った後の崔先吉(チェソンギル)夫人は心が穏やかでなかったようでした。7年間苦労の末に探した夫でしたが、お父様は家庭を顧みられるよりも神を愛し、神の御心を成すことに狂っておられたので、さらに多くの苦衷を味わったようでした。お父様を夫として、また子供の父親としてのみ考えようとしていた崔(チェ)女史でしたから、その凶悪さは時間が経つにつれ、ひどくなるばかりでした。結局、お父様は水晶洞(スジョンドン)に身を避けられ、崔(チェ)女史はお父様がどこにおられるのかも知らずにいる状況でした。

そのような状況に私がお父様にお会いしようと訪ねて来たのですから、どれほど怒りがこみ上げたでしょうか。私はキリスト教の家庭で育ったので一度もののしられたことがありませんでした。親が私を育てるとき、「このアマ!」というような言葉を一度も聞いたことがありませんでした。しかし、崔女史は私に、ボンネッコルに到着して早朝四時に通行止めが解除されてそこを離れるまで、四時間あまりずっと絶えることなく罵倒を浴びせました。

崔女史は、お父様がどこにおられるのか分からずもどかしいので、なおさらそのようでした。私にお父様をどこに隠しておいたかと、いくら探してもどこにいるか知ることができないと、すべての悪口という悪口を言い尽くしました。

私はマタイの福音書5章10節「義の為に迫害を受ける者は、さいわいである、天国は彼らのものであるからである。わたしの為にあなたがたをののしり、また迫害して偽りであなたがたを逆らって、すべての悪の話をするときには、あなたがたにさいわいである、うれしがり喜べ。天からほうびを受けるものが大きい」という言葉を思い出しながら何も答えず、ひどい罵倒に堪(た)えつつ、黙々とテントの中で夜を明かしたのでした。

通行禁止解除時間である四時に、そこを去って凡一洞(ボムイルドン)バス停で水晶洞(スジョンドン)行のバスに乗りました。ところが、早朝に若い女性が大きなトランクを持って降りてくるのを派出所の警察官が見つけて、後をついてきました。水晶洞(スジョンドン)で降りたときに、その警察官は私を見て派出所に行こうと言いました。仕方なく警察官の後について派出所に行きました。

その後、警察官は私の身分を知ろうとカバンをひっくり返しました。私はそのときとっさに、お父様が送ってくださった手紙をコートのポケットから取り出し、袖の中に隠しました。もしかしたらコートのポケットから手紙が見つかった場合、何か面倒なことが起こるかもしれないと思ったからでした。警察官は神学校の学生証、住民登録証を見て疑いを解きました。荷物をひっくり返しても聖書と賛美歌しかないので、これで帰りなさいと解放してくれました。
派出所を出て水晶洞の住所を持って家を探しましたが、到底見つけることができませんでした。仮屋住所だけなので見つけること自体があまりにも困難でした。この路地、あの路地と、通りながら聞いてみたのですが、みな知らないと言いました。

ホサナ、新しい主が来られる

切ない気持ちでしばらく歩き回っていたのでしたが、李耀翰(イ・ヨハン/李ヨハネ)牧師が現れました。李牧師は私を見て大変喜びました。
李牧師が私をお父様がおられる家に案内してくれました。その家の近くを何度も行ったり来たりしたのですが見つからなかったところでした。到着してみると朝10時頃でした。

そこもやはり二坪にも満たない粗末な部屋でした。水晶洞(スジョンドン)の裏山の下に位置しており、多くの避難民と貧民が住んでいる町でした。その家には、お父様と金元弼(キム・ウォンピル)先生、玉世賢(オク・セヒョン)オモニ、李耀翰(イ・ヨハン)牧師そして李スッキさんという食口が一緒に住んでいました。李スッキ食口が朝食を作ってくれて、それをいただきました。お父様の誕生日を祝賀するために持って行った餅を差し上げるとお父様はおいしいと言われながらたくさん召し上がりました。

私はお父様にその間伝道しながら起こった出来事と書いておいた文を報告しました。1953年2月8日の主日に、私一人で御旨を知っていることがあまりにも切なく、このように書いておいたのです。

「私の生きるすべての中心と目的は、御旨の為の生活を願います。
神様の御旨が地に現れ、父が望まれるその世界、今日も目の前に描いてみると
望みはさらに大きくなります。ああ、遠くおられる栄光の主が今日も慕わしくなります。他の人が知ることのできないこの道、栄光の勝利を願って歩いて行く私自身が
もっと力強い歩みをして御旨を実現しなければなりません。
宇宙の万民たちが私の知っている世界を求めて信じるときには、
それはどれほど喜び、嬉しがるだろうか?
今、私は本当に孤独で寂しいです。
しかし、真のお父様を私が見てみると、ハレルヤ、栄光だ!
私の願う望みを、天の父よ、成して下さい。
父よ、私から離れたら、私は生きることができません。
この世の汚い人間的愛、また世俗的な愛を私は望んでいません。
神様の愛を味わい、天の一筋の命ある愛を受けようとしますので、
この愛が私の命となり、私の所望(しょもう)となっていく将来に
光明(こうみょう)の光になってください!
険山峻嶺(けんざんしゅんれい)のような困難な十字架の苦痛を
感謝することで克服することができるようにして下さい!
十字架で勝利された主よ!十字架の苦難に私も同参させて下さい。アーメン!」

私はあまりにも切なくてこのように一人で文を書きながら、神様に訴えましたとお父様に報告しました。
そして烏川(オチョン)に住んでいたある勧士(クォンサ)の話もしました。

慶尚北道(キョンサンプクド)山陽面(サニャンミョン)烏川(オチョン)に住んでいる勧士(クォンサ)が一人がいました。私はその方を烏川(オチョン)オモニと呼びました。私はその方に神の摂理がどこで、誰を中心として、どのように成されるのかを話しました。すると、烏川(オチョン)オモニが祈りの中で直接、「ホサナ、韓国の地に主が来られる。天が低くなり、地が湧き、ホサナ、新しいエルサレムが韓国でなされますように」との啓示を受けました。烏川(オチョン)オモニはこのような内容を話しながら、「神様は私だけを愛してくださっていると思ったのですが、私より姜伝道師をより愛して下さるようです」と私のことを証ししてくれました。

その話をお父様にご報告するととても喜ばれました。「賢實(ヒョンシル)があまりにも寂しがるから、神様が証ししてくれる役事をされたんだな」と言われました。そうして、「神霊の高い人、また、霊通した者たちは私達の側であり、私たちを証しするだろう」と激励してくれました。

また、私は烏川(オチョン)オモニに、主がどのように来られるのか祈祷してみなさいと言いました。祈祷の後、烏川(オチョン)オモニが答えるには、「主は既に来ておられるが、このことを姜伝道師は既に知っているのである。韓国の地に主は既に来られ、闇の谷に主の明るい光がさしてくるだろう、と答えがきました」と自信を持って「既に来られた」と言われました。

この報告を受けたお父様の表情が非常に明るかったです。このような報告を、午後四時まで六時間ご報告しました。報告をすべて聞いた後、お父様は、「この世は暗く、知ることができないが、霊界はみな知っている。特に霊通する人々は自分でもわからず、また何を意味するのかも分からないが、この御旨を認めているので勇気を失わずに戦おう!」と話してくださいました。

第一章  成長と入教

その6  崔先吉女史と痛哭のアリラン峠

迫害と嘲笑を耐え

午後4時頃でした。お父様が、「私は裏山に登り、風にちょっとあたってくる」と言われて家を出られました。李スッキさんと私は夕食の準備をしようと、米を洗っていました。そのとき、憲兵隊の軍人二人と玉世賢(オク・セヒョン)オモニの息子、そして崔(チェ)女史たちが突然やって来ました。

憲兵隊の軍人二人はカーキ色の服を着ていました。彼ら一行は、入るとすぐに命令調の言葉で私たちを部屋に押し入れました。玉世賢(オク・セヒョン)オモニ、スッキさん、そして私が部屋に押されて入りました。その部屋に火をつけてやると言う崔(チェ)女史の声も聞こえてきました。また、ある人はお父様の聖書をビリビリに引き裂きもしました。

その部屋の中はあっという間に修羅場になってしまいました。そして崔女史は台所道具を全部投げ出しました。茶碗、米びつ、さじ、おけなどを投げて、声を出して騒ぎました。

その声を聞いて丘の下に住んでいた多くの人が見物をしようと集まってきました。私は心臓が弱いのか、あるいは信仰が心の中心に立っていないからか、とても震えました。そして、いろいろな考えをしました。「これですべてが終わるのではないか」とまで考えました。

私は、憲兵隊の軍人にトイレに言って来ると言ってこっそり外に出ました。お父様はどこにおられるのか、山を見上げてみましたが見えませんでした。それで、山に少し上ったのですが、周囲が暗くなって怖くなったということもあり、そのまま下りてきました。水晶洞(スジョンドン)の道を下って行くのですが、足がとても震えて、まともに歩くことができませんでした。

私はその時、イエスを信じる道がこんなに難しいならば、誰がこの道を行くことができるだろうかという思いになったりしました。ちょうど橋を渡ったところで、金元弼(キム・ウォンピル)先生が現れました。金先生は私の手をぎゅっと握りながら、「いつ来ましたか」と尋ねました。「きのうの夜に来ました」と言ったら、「玉世賢(オク・セヒョン)オモニが水晶洞(スジョンドン)電車停留所で待っているのでいっしょに行きましょう」と言いました。

そして、「私たちはしばらく身を避けるためにお金が必要になるでしょう。集めたドルを戸の枠の上に隠しておいたので、私が家にしばらく立ち寄って、そのお金を取って来ます」と言ってボンネッコルの家に向かって上がっていきました。金先生を待っている間も、私はもしかしたら憲兵隊と遭いはしないか胸が震えました。しばらくして、金元弼先(キム・ウォンピル)生が手ぶらで帰ってきました。その家の周りは憲兵隊たちが守っていて、中に入ることができなかったと言いました。

結局私と金先生は電車の停留所に歩いて下りました。そこには、玉世賢(オク・セヒョン)オモニが一人で哀れに立っていました。10分ぐらいして李耀翰(イ・ヨハン)牧師が伝道から帰って来ました。私たち一行四人は、どこに行こうか迷いました。行くところが何処にもなかったからです。

しばらく考えた末に、金ソンシルさんの家に行くことにしました。その金ソンシルさんは李耀翰(イ・ヨハン)牧師から御言葉を聞いていたのでした。ソンシルさんの家はヨムジュドンにあったので、私たちは電車に乗ってソンシルさんの家を訪ねました。その時は避難時代だったので厳しい生活をしているときでした。ソンシルさんの家は日本式の家の一部屋で、横に細長い廊下がありました。

私たち一行は、そこで一夜を過ごしました。狭い廊下だったので、足を伸ばすこともできないところでした。そこで私たちはうずくまって夜を明かしたのです。夜を明かしながら私は、「お父様が本当に再臨主として来られたのなら、遠い後日になれば今日の出来事を歴史が証しするだろう。お父様がどれだけひどい反対と迫害を受けたのか歴史は知っている」と思いました。その夜、私たち一行の心情と表情は憔悴(しょうすい)するだけでした。

一方、お父様は山でその日の午後の状況をすべて見ておられたと言われました。状況を見ながら、「(彼らの探している)張本人が私なのだから、私が下りて行かなければならない」と考えられ、山から下りて来られました。家の中はお化け屋敷のように多くの物が散らばって壊されていました。憲兵隊要員たちは、お父様を引っ張って水晶洞(スジョンドン)の近くにある東部警察署に行きました。

そのとき、李スッキさんが一緒にその後を追って行ったのですが、崔(チェ)女史が歩いておられるお父様の横で、お父様に向かって大声でひどい罵倒を浴びせたということでした。道を歩いていた人々も、その声に驚いて足を止めて振り返るほどだったといいます。その声を聞いた人なら誰でも、「あの男がどんな罪をどれほどたくさん犯して、あの女性にあのようにひどい悪口を浴びせられるのだろうか?」と思ったことでしょう。お父様は何も言わず、その侮辱をそのまま耐えられました。

人類を救うために来られたお父様がそのように嘲笑を受けられたということを考えると、遠い後日に人類は痛哭(つうこく)しなければならないでしょう。そのとき、お父様は家庭的な十字架によりひどい迫害を受けておられ、社会から嘲弄(ちょうろう)を受け、悪口を聞かなければならないのでした。

東部警察署に到着して取り調べを受けましたが、ちょうどそのとき、警察署に金ウォンドゥクさんが勤務していました。金ウォンドゥクさんはお父様が興南監獄におられた時、いっしょに収監されていた囚人だったのですが、お父様の御言葉を聞いて伝道された人でした。金ウォンドゥクさんは、お父様が普通の方ではないことを知っていたので、事件の本質を正しく知り、うまく処理してくれました。その事件を家庭的な問題だと整理し、お父様を警察署の宿直室に迎えて一晩寝させて差し上げた後、次の日に帰られることができるようしたのです。

翌朝、金元弼(キム・ウォンピル)先生は職場に出かけ、李耀翰(イ・ヨハン)牧師は伝道に出かけました。私は再び水晶洞(スジョンドン)へ行きました。「家がどうなったか、事件がどのように結末が出たのか行って見なければ」という気がしたからです。

午前11時ごろ、水晶洞に到着すると、お父様が家におられました。家に入ろうとする私を見て、お父様は聖進(ソンジン)母子がここに来ることになっているから、この場を早く避けるようにと言われました。その言葉にとても驚いた私は、他の所に逃げなければならないと思い、その家を出ました。

その瞬間に家に入って来る崔(チェ)女史と出くわしてしまいました。崔(チェ)女史はいきなり私の頬を叩きました。「この気違い女がここまでついて来たか!」と言いながら、口にすることができないひどい悪口を浴びせ始めました。それとともに全身を叩き始めました。

私はその場所からやっと逃げて、水晶洞(スジョンドン)の家の裏にある丘の上に上がっていきました。心臓が震えてめまいがしました。やっとのことで丘の上に登って見ると、下の方の麦畑に麦が青くつんつんと伸びているのが見えました。冷たい風が吹き、私の心はあまりにも苦しくて重かったのでした。

私は、「神様は、これが神様の御意志であれば私をして度胸と勇気を持たせて下さり、これよりもっと大きな試練が私にやって来たとしても、喜びの心で勝利するようにさせて下さい。御心でないならば、行く道をふさいでください」と神様に祈りを捧げました。

12時をはるかに過ぎて金元弼(キム・ウォンピル)先生が私を訪ねてきました。「賢實(ヒョンシル)さん、家に行きましょう。崔(チェ)女史が悔い改めましたよ」と言いました。しかし、その言葉を信じられなくてしばらくそのまま座っていました。どのくらいの時間が経ったでしょうか、心が落ち着いた後、金先生について下っていきました。到着してみるとお父様は崔(チェ)女史にたくさんの御言葉を語っておられました。その貴い御言葉に崔(チェ)女史も感動し悔い改めながら、「私も今から一食口になり、この道を行きます」と屈服するようになりました。

痛哭(つうこく)のアリラン峠

お父様は私が帰って来たことを見られるや崔(チェ)女史に向い、玉(オク)オモニと私に、「申し訳なかった」と許しを乞うように言われました。崔(チェ)女史は自尊心のせいでためらうようすでしたが、結局、私たちに申し訳なかったと言いました。

お父様は、「聖進(ソンジン)オンマは玉世賢(オク・セヒョン)オモニに対し、娘の立場でよく仕え、姜賢實を妹のように対しなさい。玉世賢(オク・セヒョン)オモニは、聖進(ソンジン)オンマを娘のように考え、姜賢實は聖進オンマを姉のように思わなければならない」と言われました。その時私には、さまざまな考えがよぎりました。「崔(チェ)女史は本当に哀れな方であられる。夫であるけれど夫として考えることができず、一食口の立場で師匠として仕えなければならないので、ある面で本当にけなげな方だなあ」という思いになり、私は崔(チェ)女史に頭を下げました。

そして、お父様は祈られました。「神様、復帰の道は恨(ハン)の多い道であり、血と汗と涙で綴(つづ)られている道であることをまた今更のように感じています。この御旨を成しておかれるために、父は六千年を一度も休まずに痛哭しておられ、切なく探し求めて来られた道であることを、この小子(しょうし/自分をへりくだっていう語)はあまりにもよく知っています。この小子に多くの期待をかけられ御旨を成してくれと願われたその御言葉を、私は記憶だけするのではなく、きっときっと成して差し上げます。その昔、この小子をつかんで哀願され付託された言葉を私は忘れずに守りますので、父よ、慰労を受けられ、私を信じて下さい」と心からこみ上げる懇切な祈祷を捧げられました。

その祈りは、お父様の血と汗と涙で染まった心から湧き出る痛哭の祈祷でした。私もそのとき、痛哭して泣きました。私だけではありません。玉世賢(オク・セヒョン)オモニと金元弼(キム・ウォンピル)先生も泣いて、涙が川を成すようでした。

台所には、まともな器一つ残っていませんでした。金元弼(キム・ウォンピル)先生が弁当を包んで持って行くときの弁当箱だけがまともでした。それで、弁当箱の蓋にパンを入れて祈った後、新たな出発を記念して分けて食べました。そのときのことが今でも生生しく思い出されます。

お父様はそのとき崔(チェ)女史に、この道を共に行くと心から決心しなければならないと強調されましたそして、一番重要なことは、崔(チェ)女史も食口としてお父様を信じて侍り、敬い、仕えるという気持ちを持つべきだと言われました。それは、崔女史に最も越えにくい峠であったし、責任分担であり宿題でした

後で聞いたらボンネッコルの家にいた時、近くに別の家を借りて礼拝をしていると、崔(チェ)女史が便所で人粪を汲み上げて撒いたこともあったということです。その話を聞いて、「この方が反対をしたけれども、それが普通のやり方ではなかった。それほどひどくお父様を愛したのだなあ」と思いました。お父様がその方の愛に応えてあげたなら問題がなかっただろうに、神を愛し神の御旨を成し遂げるために生きられる方なので問題が続けて生じたのでした。

しかし、その瞬間には、崔(チェ)女史も確かにこの道を行くと、三人以上の証人の前ではっきりと約束をしました。お父様は、誰よりも崔(チェ)女史が天の御旨を成すために一食口になると誓ったのを見て、あまりにも感心され満足されているかのように見えました。その後、崔(チェ)女史は、ソウルに荷物を取りに上がってから二週間後には帰って来ると約束して上京しました。

崔(チェ)女史はソウルから荷物をもって釜山に来ました。しかし、長い年月の間一人で息子を育てながら不安で憂鬱だったのか、朝に夕に心が変わりました。お父様が少しよく対して下さると少しばかり良くなるのですが、お父様が誰かに会いに外に出られて食口たちと長い時間過ごされたり、自分が疎かにされているという感じがしてくると一人であれこれ考えながら、心が180度変わってしまうようでした。

詳しい話は全部できませんが、あるときには、崔(チェ)女史自身の心ではないかのような常識以外のこともしました。お父様は私に姉と妹のように過ごせと言われたので、崔(チェ)女史の洗濯もしてあげ、親しく過ごそうと努力しました。しかし、崔(チェ)女史は私たちの教会の食口になるということが難しいようでした。礼拝に出ても、常に隅に一人で座っていて、誰とも話をすることもなかったのでした。

その年の冬に、私は大邱(テグ)の開拓に行ってから、12月に釜山に一時帰ったのですが、その時も私を見るやいなや台所にあった薪で私を叩き始めました。私はあちらこちらに逃げてみようとしましたが、仕方なく何度か打たれました。さらに私を見て、「不倫女」と言いながらひどい罵倒をたくさん浴びせました。

そのため、「この方はなかなか心が安定できずに、まだこうしているんだな」という思いをしました。朝には悔い改め、夜はまた人々に乱暴を振るうというように心が変わりました。おそらく、自分の心ではないようでした。特に若い女性たち、自分より年齢が低い女性にはよりその傾向がありました。私はボンネッコルの家のときから知っていただけに、見るたびごとにより腹が立ったようです。

その後は、長い歳月が経って1970年代に一度会ったことがありますが、そのときは心がとても安定していて、お互いに和解をしました。

第一章 成長と入教

その7 お父様からの試験

水晶洞(スジョンドン)教会の出発

水晶洞(スジョンドン)の家は裏山のふもと、貧民が住んでいたところにありました。路地から出てくる人の姿もみすぼらしくて、私の心まで憂鬱になったりしました。その事件以来、近所の人の視線が常に私たちに集中していました。近所の奥さんたちが、私たちの家のことを「けんかする家」と通り過ぎながら指を指しました。なので家を出るときは頭を下げて出て、人々が集まっている所は避けて通っていました。私を知っている人がいない市内に出ると、心が楽になりました。

(しかし)たとえ生活は困難であっても、「釜山の水晶洞の谷間に、神様の六千年摂理の御旨と目的を成すために来られたメシヤがおられる。人類の生命を救う根本であられるメシアが避難民の中で一緒に苦労するのは、天宙の恨(ハン)を解くためであり、神様に真の孝子の道理を尽くして神様を慰労するためである。このような貴い御旨を先に知ることになってどれほど感謝なことか!」という思いをもちました。

ある日は、伝道をしに市内に行って帰って来たら、お父様が非常に沈鬱(ちんうつ)な表情で座っておられました。顔色がとても良くないので心配をしていたところ、隣の部屋の家主の婦人が昼間に起こったことを話してくれました。玉世賢(オク・セヒョン)オモニの夫であった禹(ウ)長老と息子がここにやって来たと言うのです。父子の二人はお父様に向かってあらゆる罵詈雑言をすべて浴びせ、お父様の胸ぐらをつかんで頭を壁に叩きつけたと言いました。お父様がその父子にさんざん殴られたと、家の部屋の主人が教えてくれて、涙があふれました。

当時のお父様は、神の御心を成すために、あまりにも悔しい仕打ちをたくさん受けられ、数多くムチ打たれました。なにせ従う食口が少なく、力なく、孤独で寂しいときだったので、口があっても話すことができず、耳があっても聞くことができず、目があっても見えないような生活をされたのです。お父様は誰かがやってきて乱暴を振るい暴力を行使しても何の言葉も話されず、黙ってその悪口を聞きながらじっとそのむちをすべて受けられました。いかなる弁明もされずに座っておられるお父様を見たとき、私は心が痛く、心臓が張り裂けるようでした。

お父様の心臓も焼け焦げていたはずです。返したいお言葉がなぜなかったでしょうか。
しかし、何の言葉も言われず、静かに首をうな垂れて座っておられるのでした。

しばらくして崔(チェ)女史がソウルから荷物をまとめて釜山に下りてきました。家が狭すぎて生活しにくかったので、水晶洞(スジョンドン)に部屋二つの家を一つ買いました。金元弼(キム・ウォンピル)先生が絵を描いて貯めたお金で工事をして、部屋をもう一つ増築しました。

そういう仕事は李ボンウン長老が主に任されてしました。李ボンウン長老は、済州島(チェジュド/さいしゅうとう)にいるときに精誠を尽くす生活をして霊的に啓示をたくさん受けた方です。その後、霊的に、「姜長老の娘」という若い女性が前掛けを着て台所で働くのを見たと言い、後で釜山に来てみたら、その姜長老の娘という若い女性がまさに私だったと話してくれたことがあります。

引越した水晶洞(スジョンドン)の新しい家から復帰の歴史が始まりました。主日(=日曜日)の昼の礼拝を行ったとき、意外に多くの人々が集まって礼拝をささげました。たくさん集まるときには20人余りも集まりました。お父様は賛美歌に酔いながら歌われ、説教の御言葉にも酔いながら話されました。神様が話されたかった内容をお父様が代わりに伝達されたので、礼拝の雰囲気はいつでも恩恵があふれました。本当に生きておられる神様に心と精誠を捧げて行う礼拝でした。深い境地に到達したときには、食口たちが立ち上がって踊りを踊りました。時折、「エデン復帰!」と大きく叫ぶ食口もいました。皆が神様に喜びで応じる礼拝の雰囲気でした。

そんな雰囲気だったので、ある食口は異言を語り、ある人は幻想を見、ある人は直接的に啓示を受けたりしました。自分を忘れて無我の境地で礼拝を捧げました。

試験に落第を重ねる

1953年3月の末ごろに引越しをした後、私は7月19日までその家で生活しました。その家は水晶洞(スジョンドン)の裏山のふもとの丘の上に建っていました。そこは高い所なので、水道の水が出なかったし、水道施設もありません。それで井戸水を使わなければなりませんでした。その時私は、台所家事のすべてを任された仕事をしており、またほぼ毎日釜山市内に霊的な人やよく信じる人々を訪ねて御言葉を証しする生活をしました。その生活はあまりにも重荷でした。

毎日夜12時になると水がめで水を汲み始めました。夜でなければ、水を汲むことができなかったからです。夜も多くの人々が水がめを並ばせておいて立って待っていました。その時に水晶洞の家に住んでいた食口が十五人ほどでした。また、御言葉を聞くために訪ねてくる人もいました。それで、水がたくさん必要でした。普通、夕方に水を汲み始めると、20回は汲まなければなりませんでした。20回汲もうとすると3時間かかりました。ある時は水がめを頭に載せて坂道を上りながら、滑って水を全部こぼしてしまう時もありました。するとチマ、チョゴリ、下着まで全部濡れました。どれくらい大変だったか、私の体は痩せていきました。自分の力をもっては耐えることができないことをしたからです。

ある日は、市場に行ってお米を二俵買いました。昔は米の籾殻(もみがら)があまりにも多く混ざっていたため、ざるで籾殻をあおって取らなければならなかったのでした。二つの米俵をそのようにするには、朝から夕方まで時間がかかりました。そんな日の夜には腕がとても痛くて、髪にも櫛(くし)を入れることができないほどでした。

それでもお父様は私にあまりにも多くのことをさせられました。そのとき、お父様が私を叱られたことはいまだに生生しく思い出されます。「この家は、父なる神様に侍る家である。寺に仏を祀(まつ)っておく家も、ほこり一つ見つけることができないほど綺麗ではないのか?父なる神に侍る家がなぜこのように綺麗でないのか!」と叱られました。

ある日は、私をトイレに連れて行き、トイレの上に蜘蛛の巣とほこりがたくさんたまっているので綺麗にするように言われながら、「どうしてこんな家に神様が訪ねて来られるか」と心配されたりもしました。他の食口たちに向かっては何のお言葉もないのに、ただ私さえ見られればそんな心配をされ叱ったりされました。

ある日はお客様のゴム靴を全部洗って置くように命令されたりしました。私は心の中で、「水を汲むことがどれほど大変でつらいか、なぜあのように命令されるのだろうか?再臨主に侍ることが全くつらい道であるな」という思いもしました。

その当時のお父様は何回か私を試験されました。しかし、私はそのつど試験であることがわからず、すべての試験に落第をしてしまいました

あるとき布団を縫う大きな針を持って来られ、私に手を伸ばしていなさいと言われました。私は「もし、お父様がこの針で私を刺したら痛くてどうしようか?」という考えが先んじて手のひらを開いたりすぼめたりを何回かしました。するとお父様は、「私がおまえを刺すと思うか?私が命令することにどれほど従うかを試験してみようしたのだが、またこの試験にすべったな」と言われました。

またあるときは、洞内(=町内)の班長が砂利敷きに出て来なさいと言いました。するとお父様は、私に籠(かご)とスコップを持って外に出て砂利敷きをしてこいと言われました。砂利敷きは男だけがすることでしたが、私をして砂利敷きに出て行けと言われて、私はその時びっくりしました。当時の私は27歳の若さでした。だから、「男たちがすることを私がどうしてすることができるでしょうか」と従えませんでした。

すると、「本当に出て行かないのか?」と尋ねられました。私は出かけることもいやだし臆する気持ちで、「私は出られません」と台所に行って隠れました。するとお父様は台所まで付いて来られ怒られながら、「本当に出られないのか?」と再度尋ねられました。そのときになってやっと私は、「それでは出ます」と答えました。お父様はそして、「賢實(ヒョンシル)が砂利敷きに出て行くといっても私は行かせない。どれほど御言葉に従順であるかを試験したのに、また落第したんだなあ」と言われました。

私はお父様が私を試験されるとは夢にも思いませんでした。現実だけ考えたので、私の立場だけを先立たせ、御言葉に従順になりませんでした。あまりにも分別がなかった生活でした。ふと考えると、不信し不従順で生きてきた過去が恥ずかしく、限りなく後悔だらけです。

絶対従順の標本であった鄭達玉(ジョン・ダルオク)ヒョンニム(夫の兄嫁や姉に対する呼称。ここでは単純にお姉さんの別称)

それに比べて、当時私と一緒に生活していた鄭達玉(ジョン・ダルオク)ヒョンニムは絶対従順の標本でした。お父様もいつも達玉(ダルオク)ヒョンニムがお父様に侍って仕え従うことに絶対従順の標本人物だと言われました。達玉ヒョンニムはお父様が北韓におられた時、御言葉に初めて接しました。しかし、父と兄二人が牧師として務めるほど篤実(とくじつ)なキリスト教の家だったので、親が極度に反対しました。その家では、家の威信もあって達玉ヒョンニムにお父様のお話を聞かせまいと家の中に閉じ込めました。

いくら閉じ込めておいても達玉ヒョンニムの意地が折れなかったため、怒った父親が刀を前において「止めるか、死ぬか」と尋ねたそうです。そのように脅迫をしても行かせまいとする考えではなかったかと思います。しかし達玉ヒョンニムは刀を持って指の一節を切ってしまいました。「今、私が指を切りましたが、私をずっと閉じ込めておけば、これで死んでしまいます」と言ったということです。だから、親と兄弟が両手を上げて、勝手にしろと降伏してしまったということでした。

お父様はその話を聞いて、「鄭達玉はひどく徹した人だ」と言われました。

その年の5月でした。私は風呂に入って来て、座って頭を乾かしていました。その後、お父様が言われたのは、「達玉(ダルオク)氏。賢實(ヒョンシル)のところに行って耳をつかんでキスをしてみろ」でした。普通の人であればそのような話を聞いて笑ってしまうでしょう。ところが達玉ヒョンニムはその言葉が終わる前に私のところに来て、私の耳をつかんで口を合わせました。私はそのような状況が面白すぎてしばらく声を出して笑いました。お父様もまたいっしょに笑いました。

ある日、お父様が、「達玉(ダルオク)氏、踊りを一度踊ってみなさい」と言われました。すると達玉ヒョンニムはためらう様子もなく立ってひらひら踊りを踊りました。我たちは皆笑い袋が裂けて笑うのですが、達玉ヒョンニムは本当に真剣にお父様の言葉に従順になって踊りを踊るのでした。

あるときは、ある食口が達玉ヒョンニムにスカートの生地を買ってきました。達玉ヒョンニムはそれをお父様に持って行って、「お父様!これで外スカートにしますか、それとも内スカートにして着ますか?」と聞いてみたりしました。お父様は、「何でそんなことまで私に聞くのか?」と叱りながらも、「あのように絶対的な信仰をしている人の前に私は何をどのようにするべきか?」という考えをたくさんしたと言われました。

またいつだったか、達玉ヒョンニムの手の指先に腫れ物ができました。それで、ある日、お父様が冗談で、「どうして腫れ物がそんなに長くできているのか?その指を切ってしまえ」と笑いながら言われました。しかし、本当に達玉ヒョンニムははさみを持って来て、「どれだけ切ればいいですか」と尋ねました。お父様は結局、「達玉の前では冗談もできない」と言われながら、「達玉氏は、親よりも、子女よりも、夫よりも、兄弟よりも、財産よりも、自分の命よりも先生をより重く考え、信じて侍る者」と言われながら、満足しておられました。

水晶洞教会時代に私は達玉ヒョンニムと短い期間でしたが一緒に生活しながら、絶対的に心から神様を信じて、お父様に侍り奉る方だということを多く感じて学びました。当時の私は達玉ヒョンニムと一緒に台所でお父様の食事を準備しました。そのとき、達玉ヒョンニムの精誠は到底いい表わせません。祈りと精誠でおかずを作るのですが、おかず一つを作って食膳に置くたびに、「先生、これをおいしく召し上がって下さい」と祈りをしていたその表情は、今でも目に鮮やかに残っています。

時々、そのような達玉ヒョンニムの姿がじれったく見えるときもありました。そして、あまりにも純真なので、ちょっと柔軟性がないように見えたりしました。

達玉ヒョンニムがいつも胸に抱いていたハンカチがありました。そのハンカチを見ると時間がたっていて古びていました。しかし達玉ヒョンニムはそのハンカチをどんな宝石や宝物よりも貴く考え、いつも抱いて身につけていました。それで、私は何のハンカチですかと聞いたことがありました。そしたら達玉ヒョンニムは、「北韓で先生がくれたハンカチ」と言いながら、大変貴く思っていました。そのように絶対的にお父様を信じて侍り、仕え従うことのできた達玉ヒョンニムを大変尊敬しました。そして達玉ヒョンニムの事を思うたびに、我知らず元気が出てうれしくなり、また自分自身が恩恵を受けました。

第一章   成長と入教

その8  信仰者の十二峠

  信仰者の十二峠

▲水晶山 アンチャンマウル 統一教聖地

6月のある日でした。私は10人余りの食口たちが脱いでおいた洗濯物を持って水晶洞(スジョンドン)の裏山に登りました。干ばつが終わる頃だったので、山から出てくる水はちょろちょろと出ていました。大きな洗濯おけに鍋で水を汲みあげて洗濯をしていると長い時間がかかりました。洗濯をすべて終わって下りてくる時には、暗くなり始めていました。

ところが家に降りて来てみると、多くの食口たちがいるのにご飯を炊かないで、私が来ることだけを待っていました。その時に私は、この世で言うところのお手伝いさんのように働きました。急いで洗濯おけを置いて、薪を斧で割ってご飯を炊きました。

心は急いでいるのに、薪が濡れていて火がよく付きません。濡れた薪なので煙が出て、涙がとめどなく出ました。最終的には火が強くないのでご飯が生煮えになりました。食口たちがご飯を食べながら、「なぜご飯がこんなに水っぽいのか?米に水の味がする。おかずも美味しくないし」と一言ずつ小言を言いました。ある食口は、「ほうれん草を和える時には手でよく揉んで和えれば美味しいのに、さじでかき混ぜたのか全然美味しくない」と料理をけなしました。

そんな言葉を聞くと、私は本当に我慢できませんでした。「私がイエス様をよく信じようとここに入ってきたのに、お手伝いの役割をするのも大変なのに、横からみんな私を女中扱いして、けなすことまでするんですね。私を天国の一番いいてっぺんに座らせてくれるとしても私はもう行きません。こんなことは辞めなければならない」と言う思いになりました。

それでお父様に食膳を持って行き、「私はイエスを正しく信じ、良く信じるためにここに来ました。そして、この苦労をしながらも、神様の御旨を成して差し上げる同役者(どうやくしゃ=御旨を共にする人)になろうとしました。すべてが大変難しいですが耐えて忍びました。しかし、もう本当にこれ以上できません。一緒にこの道を行くと言いながらも、周りの多くの食口たちが私を食口として見ずに女中扱いをします。私の心を針でチクチク刺す以上に痛い思いをさせるので、私はもうこの道を行けません。今から荷物を包んで私の親が信じてきた長老派教会に戻ります」と言いました。

するとお父様は、「荷物を包んで出て行くなら包んで出て行きなさい。姜賢實がいたとして御旨が成されるわけでもなく、姜賢實がいないと御旨が成されないことでもないので、行くなら行きなさい」と言われました。私はその時、とても興奮した状態だったので、「後で私がどうなろうと、これ以上は到底私は耐えられません。先生のお言葉通り荷物をまとめます」と言いました。

すると、突然お父様がにっこり笑って、「神様は本当に姜賢實を愛しておられるんだなあ」と言われました。「周りのすべての人たちが賢實をいじめるのは自分の心ではなく、神様がさせてそのように心を痛めつけているのだ」とおっしゃいました。また、「賢實が先生に会って信じて仕えてきたその信仰の結実を成すためには、このような試験を通過しなければならない」と言われました。

神様がとても愛するのでこのような貴い贈り物を下さったのであれば、それを喜び感謝して受け取るべきで、我慢できずに不平を言うとか不満を持ったり心の中で苦しげに戦うことになれば、次にはそれよりももっと辛く難しいものが来る。誰が何をどのようにしたとしても、そのようなことがあるときは無条件にありがたく感謝する心で、神がさせたことだと理解し従うようにしなさい。そうすれば、信仰の道を行くのにすべてのことが教訓の材料となるんだよ」と言われ、「荷物をまとめて出て行くのなら出て行きなさい。いつかは包んで持って行ったその荷物をまた包んでここを訪ねて来るだろう」と言われながら、慰労して下さいました。

その日の夕方に食事を終えて、お父様はある食口にあめ玉を買って来るようにさせました。あめ一袋を前において、部屋で丸くなって座った食口一人一人に歌を歌わせました。歌を歌った後、あめを分けて下さいました。そして最後に私に祈祷しなさいと言われました。その時私は心の中で積もっていたすべてのものをみな解いて祈祷をしました。

祈りが終わった後、お父様は、「万事に感謝することができなければならない。万事に感謝するということはとても大変なことだ。人はありがたい時に感謝し、いい時に感謝するが、困難な苦境に処したときに感謝する事はとても難しい事であるから、ここにいる君たちは皆、万事に感謝することができる心を持つようにしなさい」と言われました。

私はその時お父様のお話を聞いて、「信仰の正道を求めて歩むには、こんな難しい坂や峠を感謝することで越えなければならないんだ!」と思いました。お父様は、「このような難しい峠は一つ二つではなく、越えたらより大きな峠がまた待っているので、目を覚まして祈り、精誠を込めなければ、鬼も知らないうちにサタンの餌食になってしまう」と言われながら、「アリラン峠は十二峠だというが、この時代に真の信仰者が越えなければならない峠は十二峠よりもっと多いことを知って行かなければならない」とお話して下さいました。

私たちが生きていれば、常に私は善なる立場、正しい立場だと思う時があります。しかし、実際には是非を分けない方がいい場合もあります。私は他の人たちに、その場で是非を分けるよりも三日の間祈祷をしてみろと言います。祈祷をすれば、いつも問題は自分自身にあるということがわかるようになります。私が相手におかしな思いを抱いていたことが問題だということを悟るようになるのです。私が悔い改めをしてみると、相手には何の問題もありません。

その時、お父様は私をたしなめながらも憐れんで、心情的に収めて下さろうとあめ玉の宴(うたげ)を開き、より高い信仰の段階へと導いて下さいました。そのようなお父様の御言葉により、私は悟ったのでした。

水晶洞(スジョンドン)教会時代、私は有名な牧師と霊的な人たちに会いました。お父様は、霊的に啓示を受ける人たちにお父様がしておられることについて伝える事を望んでおられたからです。

当時のお父様は、多くの人々に御言葉を伝えなければならないという考えを非常に切実に持っておられました。それで、霊的に啓示を受ける人がいるという噂を聞くと、私に訪ねてみなさいと言いました。チャ・ヨンウン先生にも会い、金ダルヒャン伝道師にも会いました。金ダルヒャン氏は私とお父様が一緒に訪ねて行って御言葉を伝えた時に非常に喜びました。御言葉をすべて聞いた後、彼はお父様を食事に招待したいと言いました。それでお父様と私は彼の家に行って、非常に良い接待を受け、また、御言葉を伝えることもしました。

韓ミョンドン牧師も訪ねました。お父様も一緒に行かれ、お父様と韓牧師の二人が直接会いました。しかし、お互いに話が合いません。韓ミョンドン牧師は、殉教的信仰生活をし、釜山で最も尊敬される牧師でしたが、保守的で伝統的な神学観に立脚して語りました。なのでお父様が原理を持って話をすることを一つも受け入れることができませんでした。お父様が情熱を尽くして神様の御旨を伝えられたのですが、韓牧師は、お父様を話にもならない異端であるとだけ言いました。

最も記憶に残ることはチャ・ヨンウン氏に会ったことです。チャ・ヨンウン氏は、終戦後、北側から韓国に下りてきた人で、南下するときに神様の直接的な導きを受けたと言いました。昼は雲の柱、夜は火の柱で導きを受けた特別な心霊の持ち主で有名でしたが、当時は釜山の草場洞(チョジャンドン)に来ていました。

お父様はチャ・ヨンウン氏を何回か訪ねて話をされました。そのうちの三回は私も一緒に同行しました。お父様が一度、三時間御言葉を語られたのですが、清山の流水のように心に溜めていた御旨を広げて見せられました。しかしチャ・ヨンウン氏は、大きな反応がありませんでした。私は、「チャ・ヨンウン氏にも神様が役事して下さって、天の御旨が分かるようにして下さい」と心で祈りました。

「どのような意味があるのかはわかりませんが、先生が直接訪ねて行ってお話されるのを見ると、神様が愛しておられる娘であると分かります。この方に直接現れて、神様の真の御旨を示してくださり、教えてやってください」と言いながら熱心に祈りました。

三回も訪ねて御言葉を語られた後、お父様は、「これで私のするべき責任は果たした」と言われ、それ以後は訪ねられませんでした。

お父様は、「神霊的な生活の中で、神様の直接的な導きを受けて生きてきた彼らには重要な責任がある。終わりの日に彼らがするべき責任を果たさない時は、何十年の恩恵の生活をして来たことが、一日で水泡(すいほう)に帰(き)する」と言われて、一人の命を宇宙よりもより貴く思いながら、恩恵を受けた人々を探し求められました。貴い恩恵の中で生活してきた人々が、最後の時に信仰生活の有終の美をよく刈り取れるように、至誠(しせい)を尽くされたのです。そのようにお父様は、何十年、彼らが積んできた功績を神の側で刈り取ってあげるため努力されました。

水晶洞(スジョンドン)のお父様の生活は祈祷と精誠の連続でした。食口たちが訪ねて来ない日は遠くの山を眺められながら、小さくは私たちの国と私たち民族の為に、それからキリスト教界の為に祈祷され、大きくは人類の救いと神様の御旨の為に祈祷されました。神様の染み付いた恨(ハン)を考え、どのようにすれば御旨を成事(せいじ)させることができるのかを考えられ、その重い荷物を一人で耐える為に祈祷された生活の連続でした。

お父様は、神様に向かった精誠では、世界のどの誰にも負けない、世界のどこにも見ることのできない精誠を込められた方です。いつもお父様の主体であり、為に生きる主人は神様であられました。もしかして神様を寂しくさせはしなかったかと心配され、いつも薄氷を歩いて行かれるような慎重な生活をしておられた姿を横で確然と見ることができました。

そして食口たちや新しい人たちが訪ねて来るときは、全力を注いで話されました。お父様は食口たちを御自身の命のように貴く思われ、愛され誇られる情の所有者であられました。

第1部「成長と入教」終わり
第2部へとつづく

・・・・・

偶然見つけました。水晶山の統一教聖地への道のりの写真です。
All about Hiking : 네이버 블로그

http://blog.naver.com/idid0486/220793727712

부산 등산*트레킹 코스 #안창마을#통일교성지#수정산#씽씽로드#할매국밥

2016.08.22. 15:02

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연일 폭염에 산 정상은 엄두도 안 나고, 살살 다니고 있습니다.
제일 만만한 안창~금수사 or 민주공원까지의 동구 “씽씽로드”로 고고우~!

안창마을 입구로 갑니다. 좌측 골목으로.
통일교범내전기념관
부산광역시 동구 범일동

상세보기

“구도의길” 이정표를 따라 올라갑니다.

안창마을의 풍광

올라올라~

20분 정도의 거리를 40분이나 걸렸습니다.

안창마을, 통일교성지

부산의 흔한 해발 300M 풍광

다시 내려가요~

숲길 따라

아스팔트 길이 나오면 우측 씽씽로드로

좋아요!

“아란야사”가 나오면 우측 1시 방향으로 올라요.

숲길을 따라

동구 체육시설이 나오면 좌측으로

조금 내려가다

우측 씽씽로드를 따라

수정산 가족 체육공원 쪽으로

구. 동구 “포부대”

수정산 가족체육공원, 주차장을 지나

나무뎈을 따라

뒤돌아 보고

미러볼을 두고 금수사 방향으로

수정동의 흔한 주택가 풍광

산책로 따라

건너편 숲길로

씽씽로드 전망대

금수사 방향으로

약수터에서 물을 보충하고

편백림을 지나

도로가 나오면 1시 방향으로 오름

멋집니다.

철조망 너머의 부산항을 보며

아래로 모교인, 부산중 부산고교

금수사가 나옵니다.

아래로 내려서면

금수사를 지나

동구 스카이워크가 있는 버스정류장으로 퇴근.

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亨進様のHJ SEAN MOON の名前はどうしてですか。

The King’s Report,の

HJ SEAN MOON の名前はどうしてですか。

おしえてください。

アメリカ:MYさん
こんにちは、お久しぶりです。

この前KTちゃんに会いました。元気そうで何よりです。

HJというのはHyeongJin(英語表記が合っているかはわかりません(Moon Hyungjinが正解)

の頭文字で、Seonというのはヒョンジン様の英語名です。

アメリカンジャパニーズやアメリカンコリアンなど、

英語名を持っている人は、その英語名をミドルネームとして使ったりします。

ちなみにクッチンニムはJustinです。

では。

MHより

~~~~~~~~~~~~

The King’s Report,の

HJ SEAN MOON の名前はどうしてですか。

日本:IMさんより

こんばんは 竹内様

SEANショーンは ミドゥルネーム クリスチャンネームです。

子女様 皆さんお持ちです。

~~~~~~~~~

ご返答に心より感謝申し上げます。

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サンクチュアリ教会独立教会として出発された 皆様にお祝い申し上げます。

サンクチュアリ教会独立教会として出発された
皆様にお祝い申し上げます。

祝辞に変わり真のお父様のみ言葉をお送りいたします。☆d(o⌒∇⌒o)b ★祝い★ d(o⌒∇⌒o)b☆

真の父母のすべてのコンセプトを相続しました。だれも「私」にああだこうだ言えないのです。

天聖経

真の父母

八 三大主体思想と真の父母宣布

二)真の父母宣布

・真の父母宣布後我々の処世の方向

今までは、堕落することによって、神様の心が地上の人の心と垂直につながるのが大変でした。これが、真の父母が出てくることによってつながるのです。そこで反対しない親戚の環境は、カイン圏ではありません。天の側に立ったアベル圏として入ってくるのです。それゆえ、今宗教圏の打破が起きるのです。ですから、今からはっきりと知るべきです。我々は、真の父母のすべてのコンセプトを相続しました。だれも「私」にああだこうだ言えないのです。自分は自動的に主人になります。師になり、真の父母になるのです。他の誰も皆さんを指導できません。我々には他の師、主人と父母が必要ありません。皆さんが近い将来に、そのような立場に立つことができるようになるのです。(二〇二・三五一)

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